星降る遊び場は、夜明けまで①
その夜、雨はもう止んでいた。
けれど、貧民街の路地には昼に降った雨水がまだ溜まり、割れた石畳の隙間から、冷たい泥と油の混じった匂いが立ち上っている。洗濯屋の裏口から、ひょろりとした少女がひとり、洗濯籠を抱えてよろめき出た。
「……あと、これで最後」
少女の名はリナ。まだ十にも満たない年齢のはずだったが、その背中には、すでに疲れ切った大人の影が貼りついていた。
籠の中には、絞られて間もないシャツやズボン、酒臭い布巾、黒ずんだ血の染みが残る包帯までが無造作に放り込まれている。小さな手でそれらを抱え、裏手の物干し竿へ運ぶと、リナは黙ったまま、一枚ずつ洗濯紐に吊していった。
店の中から、怒鳴り声と下卑た笑い声が漏れてくる。
「リナ! まだ終わらないのかい!」
「朝には乾いてなきゃ困るんだよ!」
甲高い女主人の声。酔った客の笑い声。皿の割れる音と、誰かの泣き声。ここではいつも、大人たちの声だけが大きい。
リナは返事をせず、最後のシャツを干し終えると、裏口の階段に腰を下ろした。ぎゅっと膝を抱え、顔を上げる。
――空は、見えなかった。
貧民街の上空は、煤けた屋根と細い煙突、絡みつく洗濯物の列に塞がれていて、星ひとつ覗けない。
「……朝、きらい」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。
朝になれば、また洗濯、皿洗い、買い出し。昼は怒鳴られ、夜は酔っぱらいの相手。いつでも誰かに押しつけられている。
――どうして、みんな大人になりたがるんだろう。
大人になれば、ああなるのだ。酒を飲み、怒鳴り、誰かを殴り、自分のことばかり喋る。リナには、それがどうしようもなく醜く見えた。
もう少しだけでいいから、夜が長く続けばいいのに。朝なんて、来なければいいのに。
そう思いながら立ち上がりかけた、そのときだった。
「ねぇ、おじょうちゃん」
不意に、背後から声がした。
振り向くと、裏路地の影の中に、ひとりの少年が立っていた。灰色のマントを羽織り、ぼさぼさの髪の隙間から覗く瞳だけが、やけに澄んでいる。
「なに? おじさんの使いなら、帰って」
「おじさん扱いは心外だな。見た目は、きみと同じくらいだと思うけど」
少年は肩をすくめた。確かに、顔立ちはリナとそう変わらない年頃だ。けれど、その目の奥には、ひどく古いものが沈んでいる。
「ねぇ。さっき言ってたろ。“朝なんて来なければいいのに”って」
「……聞いてたの?」
「耳がいいんだ。ここらじゃ有名な、迷子の子どもだからね」
冗談めかした口調に、リナは眉をひそめる。
「ねぇ、きみ。夜が、もう少しだけマシになる場所、知りたくない?」
「……なにそれ」
「大人のいないところ。怒鳴り声も、皿の割れる音もない。あるのは、星と遊び場と、きみくらいの子どもだけ」
歌うような声に、リナの胸が少しだけ痛んだ。
「嘘だったら?」
「信じるかどうかは、きみの自由。でも――行きたいなら、“ヴェルディエ横丁”って名前だけ覚えておくといい」
「ヴェルディエ……横丁?」
「街はずれの、ちょっと変わった横丁だ。迷ってる子どもが、ときどき辿り着く。夢と魔法の雑貨店が、一軒だけある」
夢と魔法。その言葉は、洗濯と怒号にまみれた世界で、やけに眩しく響いた。
「行き方は?」
「迷えばいい」
少年はくるりと背を向ける。
「道がわからなくなるくらい歩いたら、そのうち空が変わる。昼でも夜でもない、変な空になったら、そこがヴェルディエ横丁だ」
そう言って、少年の姿は路地の影に溶けた。
「……変な人」
そう呟きながらも、リナは名前を反芻する。
ヴェルディエ横丁。
夢と魔法の雑貨店。
店の中から、また怒鳴り声が響いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
「……少しくらい、夢見てもいいよね」
リナは洗濯屋とは逆方向へ、足を向けた。
⸻
街の灯が遠ざかるほど、石畳は割れ、家々は歪んでいく。行き止まりだと思った路地の先に、いつのまにか細い道が続いている。
「……ここ、どこ」
振り返ると、さっき通った角は消えていた。代わりに、細長い通りが闇の奥へまっすぐ伸びている。
そのとき、空気が変わった。
湿った土と酒の匂いに混じって、澄んだ冷気が頬を撫でる。リナは、ゆっくり顔を上げた。
――空が、違う。
黒でも紺でもない。昼でも夜でもない、紫と青のあいだの空。その上には、星のような光の粒が散らばっている。
通りの両側には、用途のわからない店が並んでいた。逆回りする時計屋、片方だけの靴を並べた店、看板だけで中身のない建物。
そのいちばん奥。
星屑を模した看板が、からん、と鳴った。
夢と魔法の雑貨店 マキ
木の扉に手をかけると、不思議な感触が掌に広がる。冷たくも、温かくもない。
――ちりん。
鈴の音とともに、別の時間が流れ込んできた。
⸻
真鍮のランプが淡く灯り、壁一面には大小さまざまな時計。逆さに回るもの、針のないもの。ガラス棚には星屑の小瓶が並ぶ。
銀の鏡がいくつも掛けられ、それぞれ違う星座を映していた。
カウンターの向こうに、ひとりの少女が立っている。
腰まで届く黒髪。金色の瞳。年は十八ほどに見えるが、その視線には、妙な静けさがあった。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声。
「……きれい」
思わず漏れた言葉に、少女は小さく笑った。
「ここは、夢と魔法の雑貨店です。人を幸せにする、夢と魔法を」
一拍置いて、続ける。
「――もっとも、魔法は時に毒にもなりますが」
リナは戸惑う。
「……毒?」
「ええ。甘いものも、摂りすぎれば毒になりますでしょう?」
金色の瞳が、静かにリナを映す。
「まずは、お名前を」
「……リナ」
「リナさん。わたしはマキ。この店の店主です」
マキは、やさしくも距離を保った微笑みを浮かべた。
「さて。あなたが望む“夜だけの遊び場”。その夢には、代償があります。それでも、知りたいですか?」
リナは、少し震える声で答えた。
「……うん」
マキは、静かに頷いた。
「では、お話ししましょうか。夜が終わらない魔法について」




