表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

星降る遊び場は、夜明けまで①



その夜、雨はもう止んでいた。


 けれど、貧民街の路地には昼に降った雨水がまだ溜まり、割れた石畳の隙間から、冷たい泥と油の混じった匂いが立ち上っている。洗濯屋の裏口から、ひょろりとした少女がひとり、洗濯籠を抱えてよろめき出た。


「……あと、これで最後」


 少女の名はリナ。まだ十にも満たない年齢のはずだったが、その背中には、すでに疲れ切った大人の影が貼りついていた。


 籠の中には、絞られて間もないシャツやズボン、酒臭い布巾、黒ずんだ血の染みが残る包帯までが無造作に放り込まれている。小さな手でそれらを抱え、裏手の物干し竿へ運ぶと、リナは黙ったまま、一枚ずつ洗濯紐に吊していった。


 店の中から、怒鳴り声と下卑た笑い声が漏れてくる。


「リナ! まだ終わらないのかい!」

「朝には乾いてなきゃ困るんだよ!」


 甲高い女主人の声。酔った客の笑い声。皿の割れる音と、誰かの泣き声。ここではいつも、大人たちの声だけが大きい。


 リナは返事をせず、最後のシャツを干し終えると、裏口の階段に腰を下ろした。ぎゅっと膝を抱え、顔を上げる。


 ――空は、見えなかった。


 貧民街の上空は、煤けた屋根と細い煙突、絡みつく洗濯物の列に塞がれていて、星ひとつ覗けない。


「……朝、きらい」


 ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。


 朝になれば、また洗濯、皿洗い、買い出し。昼は怒鳴られ、夜は酔っぱらいの相手。いつでも誰かに押しつけられている。


 ――どうして、みんな大人になりたがるんだろう。


 大人になれば、ああなるのだ。酒を飲み、怒鳴り、誰かを殴り、自分のことばかり喋る。リナには、それがどうしようもなく醜く見えた。


 もう少しだけでいいから、夜が長く続けばいいのに。朝なんて、来なければいいのに。


 そう思いながら立ち上がりかけた、そのときだった。


「ねぇ、おじょうちゃん」


 不意に、背後から声がした。


 振り向くと、裏路地の影の中に、ひとりの少年が立っていた。灰色のマントを羽織り、ぼさぼさの髪の隙間から覗く瞳だけが、やけに澄んでいる。


「なに? おじさんの使いなら、帰って」


「おじさん扱いは心外だな。見た目は、きみと同じくらいだと思うけど」


 少年は肩をすくめた。確かに、顔立ちはリナとそう変わらない年頃だ。けれど、その目の奥には、ひどく古いものが沈んでいる。


「ねぇ。さっき言ってたろ。“朝なんて来なければいいのに”って」


「……聞いてたの?」


「耳がいいんだ。ここらじゃ有名な、迷子の子どもだからね」


 冗談めかした口調に、リナは眉をひそめる。


「ねぇ、きみ。夜が、もう少しだけマシになる場所、知りたくない?」


「……なにそれ」


「大人のいないところ。怒鳴り声も、皿の割れる音もない。あるのは、星と遊び場と、きみくらいの子どもだけ」


 歌うような声に、リナの胸が少しだけ痛んだ。


「嘘だったら?」


「信じるかどうかは、きみの自由。でも――行きたいなら、“ヴェルディエ横丁”って名前だけ覚えておくといい」


「ヴェルディエ……横丁?」


「街はずれの、ちょっと変わった横丁だ。迷ってる子どもが、ときどき辿り着く。夢と魔法の雑貨店が、一軒だけある」


 夢と魔法。その言葉は、洗濯と怒号にまみれた世界で、やけに眩しく響いた。


「行き方は?」


「迷えばいい」


 少年はくるりと背を向ける。


「道がわからなくなるくらい歩いたら、そのうち空が変わる。昼でも夜でもない、変な空になったら、そこがヴェルディエ横丁だ」


 そう言って、少年の姿は路地の影に溶けた。


「……変な人」


 そう呟きながらも、リナは名前を反芻する。


 ヴェルディエ横丁。

 夢と魔法の雑貨店。


 店の中から、また怒鳴り声が響いた瞬間、胸の奥で何かが切れた。


「……少しくらい、夢見てもいいよね」


 リナは洗濯屋とは逆方向へ、足を向けた。



 街の灯が遠ざかるほど、石畳は割れ、家々は歪んでいく。行き止まりだと思った路地の先に、いつのまにか細い道が続いている。


「……ここ、どこ」


 振り返ると、さっき通った角は消えていた。代わりに、細長い通りが闇の奥へまっすぐ伸びている。


 そのとき、空気が変わった。


 湿った土と酒の匂いに混じって、澄んだ冷気が頬を撫でる。リナは、ゆっくり顔を上げた。


 ――空が、違う。


 黒でも紺でもない。昼でも夜でもない、紫と青のあいだの空。その上には、星のような光の粒が散らばっている。


 通りの両側には、用途のわからない店が並んでいた。逆回りする時計屋、片方だけの靴を並べた店、看板だけで中身のない建物。


 そのいちばん奥。


 星屑を模した看板が、からん、と鳴った。


 夢と魔法の雑貨店 マキ


 木の扉に手をかけると、不思議な感触が掌に広がる。冷たくも、温かくもない。


 ――ちりん。


 鈴の音とともに、別の時間が流れ込んできた。



 真鍮のランプが淡く灯り、壁一面には大小さまざまな時計。逆さに回るもの、針のないもの。ガラス棚には星屑の小瓶が並ぶ。


 銀の鏡がいくつも掛けられ、それぞれ違う星座を映していた。


 カウンターの向こうに、ひとりの少女が立っている。


 腰まで届く黒髪。金色の瞳。年は十八ほどに見えるが、その視線には、妙な静けさがあった。


「いらっしゃいませ」


 柔らかな声。


「……きれい」


 思わず漏れた言葉に、少女は小さく笑った。


「ここは、夢と魔法の雑貨店です。人を幸せにする、夢と魔法を」


 一拍置いて、続ける。


「――もっとも、魔法は時に毒にもなりますが」


 リナは戸惑う。


「……毒?」


「ええ。甘いものも、摂りすぎれば毒になりますでしょう?」


 金色の瞳が、静かにリナを映す。


「まずは、お名前を」


「……リナ」


「リナさん。わたしはマキ。この店の店主です」


 マキは、やさしくも距離を保った微笑みを浮かべた。


「さて。あなたが望む“夜だけの遊び場”。その夢には、代償があります。それでも、知りたいですか?」


 リナは、少し震える声で答えた。


「……うん」


 マキは、静かに頷いた。


「では、お話ししましょうか。夜が終わらない魔法について」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ