プロポーズと天秤②
青年の部屋は、整然として静かだった。
余計なものはなく、埃一つ落ちていない。
窓の外から夜気が流れ込むが、
室内の空気だけが、張り詰めた糸のように動かない。
「座っていてください。すぐ戻りますから」
女性は少し不安そうに微笑み、
言われた通り椅子に腰を下ろした。
青年は背を向け、キッチンへ向かう。
――その瞬間。
戸棚の奥へ伸びた手に、迷いはなかった。
取り出したのは、細身のナイフ。
刃はよく研がれている。
この日のために、何度も手入れしたものだ。
青年は、足音を殺して背後に回る。
「ねぇ、何を――」
言葉が終わる前に、
肩を押さえつけ、胸元へ刃を深く突き立てた。
短い、空気の抜ける音。
声にならない息。
女性の瞳が大きく見開かれ、
伸ばした腕は空を掴み、そのまま力を失う。
椅子が軋み、
身体は前へと崩れ落ちた。
動かない。
呼吸もない。
部屋に残ったのは、
青年の荒い息だけだった。
やがて青年は膝をつき、
倒れた女性の顔を覗き込む。
「……やっぱり、きれいだ」
それは独り言だった。
胸の上下が完全に止まったことを確認してから、
青年は一時間ほど、ただその顔を眺め続けた。
瞬きも忘れ、
満足したように、何度も息を吐きながら。
⸻
その後、青年は窓から夜の街へ出た。
街灯の光が、顔に影を落とす。
「次は……誰にしようか」
声には、わずかな高揚があった。
魔法の薬を使えば、
女性を部屋に誘い込むことは簡単だった。
言葉も、雰囲気も、流れも、
すべて計画通り。
――完璧だ。
そう、思っていた。
ただ、ポケットの中の小瓶。
薬の赤が、少しずつ濃くなっている。
「……何だ、これ」
一瞬だけ気に留めるが、
すぐに無視する。
問題はない。
自分は、うまくやっている。
同じ手順で、
もう一人。
さらに、もう一人。
淡々と息を確認し、
微笑む。
だが、その頃から、
街で小さな歪みが起き始めていた。
馬車が、目の前を暴走する。
避けきれず、跳ね飛ばされる。
地面に転がり、
顔に泥と血が飛ぶ。
ひったくりに遭い、
財布を奪われる。
背後から突然、
誰かがぶつかってくる。
「……くそ」
小さく舌打ちする。
魔法の赤は、さらに濃くなる。
焦りが胸に溜まるが、
青年は自分に言い聞かせる。
――偶然だ。
――運が悪かっただけだ。
自分の計画は、間違っていない。
⸻
そして、その夜。
薄暗い路地。
曲がり角から、
異常な速度の馬車が飛び出した。
避ける暇はなかった。
衝撃。
身体が宙に浮き、
世界が反転する。
赤い液体が視界を覆い、
音が遠ざかる。
地面に叩きつけられ、
呼吸が途切れる。
最後に、頭の奥で、
小さな声が響いた。
「……しまった……」
それだけだった。
天秤は、
何も語らない。
ただ、
青年が積み上げた重さを、
現実として返しただけだった。
⸻
数日後。
ヴェルディ横丁の店内。
マキは新聞を広げ、
静かにページをめくっていた。
「……女の人を部屋に連れ込んで、三人殺害」
活字を追いながら、
感情のない声で読む。
カウンターの影で、
黒い犬が片目を開けた。
「気づいてたんだろ」
低い声。
「血の匂い、してた」
マキは肩をすくめる。
「ええ。していましたね」
「なら、止められた」
「……かもしれません」
マキは新聞を畳む。
「でも、わたしは裁かないと決めました」
犬は、しばらく黙っていた。
「……冷たいな」
「そうですね」
否定もしない。
「でも、選んだのは彼です。
魔法も、使い方も、全部」
マキは小さく息を吐き、
淡く笑った。
「天秤は、正直ですから」
黒い犬は、再び目を閉じる。
新聞紙の擦れる音だけが、
静かな横丁に響いた。
「……まぁ」
マキは独り言のように呟く。
「はっぴいえんど、でしょう」
それが誰にとっての幸福かは、
誰も口にしなかった。




