プロポーズと天秤①
ヴェルディ横丁の空は、昼でも夜でもない紫がかった群青色だった。
頭上には大きな惑星が浮かび、絶え間なく流れ星が横切っている。
横丁の石畳はわずかに歪み、通りすがりの人が踏み入れようとしても、
まるで道そのものが逃げるように、なかなか辿り着けない。
マキはいつものように、店の古びた木製の扉を開け、
窓際の棚を丁寧に拭いていた。
棚には大小さまざまな魔法瓶や小瓶、
古いランプ、銀製の鏡、星屑を閉じ込めた瓶。
壁一面には、すべて違う時刻を指す時計たち。
静かな時のずれが、店内に薄く漂っている。
「今日は、誰が迷い込むのでしょうか」
独り言のように、淡白にそう呟く。
好奇心はない。
ただ、静かな日常が続けばいいと思っている。
魔法は便利な道具ではない。
見世物でも、願いを簡単に叶えるものでもない。
使い方を誤れば、毒になる。
だから、必要以上には関わらない。
それが、今のマキのやり方だった。
カウンターの奥、影になった場所で、
黒い大きな犬が丸くなって眠っている。
毛並みは闇のように黒く、
呼吸のたびに、胸がゆっくり上下している。
店に来たばかりの客は、
それに気づいても、だいたいは何も言わない。
ただの犬だと思うか、
あるいは「気のせいだった」と忘れてしまう。
⸻
入口のベルが、ちりん、と小さく鳴った。
入ってきたのは、若い青年だった。
金髪で、整った顔立ち。
身なりはきちんとしているが、どこか落ち着かない。
「……ここが、ヴェルディ横丁……ですか?」
戸惑いが、そのまま声に出ている。
マキは拭いていた布を置き、
いつも通り、穏やかな微笑みを向けた。
「ええ。必要になった方だけが辿り着く、路地裏の店です」
青年は少し安堵したように息を吐き、
それから、照れたように視線を逸らした。
「実は……恋人に、プロポーズをしようと思っていて」
「そうですか」
「少し……驚かせたくて。
印象に残る、特別なサプライズを」
その言葉を聞いた瞬間、
マキの表情から、ほんのわずかに温度が下がった。
「そのために、魔法を?」
静かな問いだった。
青年はうなずく。
マキは、はっきりと首を振った。
「おすすめしません。
魔法は便利な道具ではありませんし、
人を驚かせるための演出でもありません」
言葉は丁寧だが、内容は容赦がない。
「プロポーズくらい、ご自身の言葉と覚悟でなさってください。
魔法に頼るべきものではありません」
青年は、思わず言葉に詰まった。
そのとき。
「……固いな」
低く、くぐもった声が、
店の奥から聞こえた。
青年はびくりとして振り返る。
影の中で、黒い犬が片目を開けていた。
「少しは言い方ってものがあるだろ」
「……口を挟まないでください」
マキは軽く咳払いをし、
何事もなかったかのように話を続ける。
「ですが、方法が“ない”わけではありません」
青年は、恐る恐る視線をマキに戻す。
「たとえば――」
マキは、棚から小さな小瓶を一つ取り出した。
「あなた自身の行動に、わずかな自信を与える魔法。
あるいは、あなたが考えた流れに“乗りやすくする”程度の誘導」
「相手の心を操るものではありません。
感情や選択を変える魔法ではない、ということです」
「……それなら」
青年はしばらく考え、
やがて、決意したようにうなずいた。
「自分のプランに、少しだけ流れをつける魔法を」
マキは静かにうなずく。
「では、注意事項をお伝えします」
一つずつ、淡々と。
「この魔法は、あなた自身の言動にしか作用しません」
「結果を保証するものではありません」
「期待しすぎれば、失望も大きくなります」
「代価は、“天秤にかかる重さ”として、後から必ず返ってきます」
青年は真剣に聞き、
最後に深く息を吸った。
「……わかりました。お願いします」
マキは何も言わず、小瓶を手渡す。
青年はそれを大切そうに握りしめ、
深く頭を下げて、店を後にした。
⸻
扉が閉まり、鈴の音が消える。
マキは棚に戻り、
さっきまでと同じように、布で埃を拭き始めた。
「……重さ、軽いといいな」
影の中から、黒い犬がぽつりと言う。
「どうでしょうね」
マキは視線を上げずに答えた。
「選んだのは、彼ですから」
犬は再び目を閉じ、
何事もなかったように丸くなる。
時計たちは相変わらず、
誰とも合わない時間を指していた。
今日もまた、
世界は静かに、少しだけ傾いただけだった。




