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卵の子供



 ヴェルディ横丁の空は、昼でも夜でもない。紫がかった群青がゆるく波打ち、遠い惑星の影が薄い雲のように流れていく。星は近く、月は遠く、けれどどちらも「今」を決める気がない。

 路地のいちばん奥で、木の看板が、からん、と一度だけ鳴った。


 夢と魔法をあつかう雑貨店 マキ

 ――人を幸せにする夢と魔法を


 扉の内側には古いランプの光。壁一面の時計たちは、勝手な時間を指している。昨日の夕方と明日の朝が同じ壁で並んでいるのに、不思議と喧嘩はしていない。


 カウンターの中で、マキは小瓶の栓を整えていた。黒髪をひとつに結び、朱色の瞳だけが静かに光る。足元には黒い狼――ガルムが寝そべり、眠たげに尻尾を床へ打ち付けている。


「……静かだな」

「静かなほうがいいですよ」

「客が来なきゃ、商売にならん」

「客が来ない日は、命が減りませんから」


 マキはさらりと言って、小さく笑った。ガルムは「ふん」と鼻を鳴らし、また目を閉じた。


 そのとき――


 カランッ


 鈴が澄んだ音を立てた。


 入ってきたのは夫婦だった。どちらもまだ若い。夫は背筋を妙に伸ばし、妻は肩をすぼめたまま店内を見回している。棚の小瓶、時計、古い秤。それらを見て「場違いなところに来た」と思っている顔だが、帰ろうとはしない。


「いらっしゃいませ」

 マキが言うと、夫が先に口を開いた。


「……ここで、子どもが手に入るって聞いた」


 言い方が妙だった。「授かる」ではなく、「手に入る」。妻はその言葉に小さく顔をしかめたが、何も言わない。夫の隣で頷くだけだ。


「子どもが欲しいんです」

 妻が遅れて付け足す。声はやわらかいが、どこか急いでいる。


「いろいろ試したんですけど……うまくいかなくて」

「周りはみんな、もういるのに」


 夫が言う。「周り」が先に来て、「自分たち」が後ろにいる話し方だった。


 マキはすぐに答えなかった。ランプの灯りの下で、夫婦の指先を見る。爪は整っている。服もきれいだ。貧しいわけではない。ただ――手が軽い。何かを長く抱えてきた手ではない。


「子どもは品物ではありませんよ」

 マキが穏やかに言うと、夫はすぐに笑った。


「もちろん、分かってます。ちゃんと育てるつもりです」

「愛情だってあります。ね?」

 妻も急いで頷く。


 その「愛情」は、言葉になっているのに、まだ行為になっていない匂いがした。


 ガルムが片目を開け、低く唸る。

「やめとけ。そういうのは、あとで泣く」

「泣かない人もいますよ」

 マキは静かに返した。


 カウンターの下から、ひとつの箱を取り出す。木箱の中には、卵がひとつ。両手に収まるくらいの大きさで、殻は白でも茶でもない。淡い灰色に、細い木目のような筋が走っている。


「……卵?」

 妻が目を丸くする。


「卵です」

 マキは頷く。

「これは、育てる人の心を映す卵。あなたたちが“子どもを育てられるか”を見るための卵です」


「孵るんですか?」

「孵ります。ただし――」


 マキは木箱の蓋を閉め、夫婦の目をまっすぐ見た。


「きちんと愛情を持って育てられたら、普通の子どもが生まれます」

「……普通?」

「泣いて、笑って、眠って、あなたの声を覚える子です」


 夫婦の顔が明るくなる。そこまでは、分かりやすい希望だ。


 マキは、続ける。


「けれど、曖昧な感情で育てると――化け物になります」

「……曖昧?」

 夫が眉をひそめる。


「口では“愛してる”と言いながら、手を伸ばさない」

「“大切”と言いながら、面倒なときは布をかける」

「“うちの子”と言いながら、うちの子として向き合わない」


 妻の唇が、ほんの少し開いた。反論が出そうで出ない。


「卵は、愛情そのものではなく、愛情の“形”を食べます」

 マキは淡々と言った。

「抱くこと。見ること。返事をすること。泣いたら来ること。怖がったら一緒にいること。そういう行為です」


 夫は笑って誤魔化すように言った。

「まあ、普通にやりますよ。子どもなんて、みんなそうやって育てるんだろ?」

「……そうですね」

 マキは笑わなかった。

「では、対価を」


「お金なら……」

「お金ではありません」


 マキは指先で箱を軽く叩く。

「対価は“結果”です。卵が孵ったあと、あなたたちが何を生んだか。それを、あなたたちは受け取る義務があります」


 夫の表情が少しだけ硬くなる。

「……つまり、返品できないってこと?」

「そういうことです」


 妻が小さく呟く。

「……それでも、欲しいです」


 マキは、卵を渡した。

 卵は意外なほど温かかった。抱えると、心臓のように、とくん、とくん、と微かに動く。


「温めてください」

「名前は?」

 妻が訊く。


「名前は、生まれてから」

 マキは言った。

「生まれる前に役割で呼ぶと、卵はそれを覚えます。“期待”は栄養にも毒にもなりますから」


 夫婦は卵を抱えて、店を出ていった。

 鈴が、ちりん、と鳴る。


 静けさが戻った店内で、ガルムが欠伸をした。

「……お前、わざとだろ」

「何がです?」

「試すための卵なんて、言い訳だ。見たいんだろ。人間がどこで折れるか」

「見ないと、分からないこともあります」

 マキはそう言って、棚の一冊の絵本に手を伸ばした。古い紙の匂い。表紙には、木の影のような絵が描かれている。

「それに、卵は嘘をつきませんから」



 夫婦の家は、横丁の外にある。普通の街で、普通の家だった。卵は居間の棚のいちばん目立つ場所に置かれ、柔らかい布をかけられた。


 最初の数日は、確かに丁寧だった。


 妻は毎朝卵に声をかけ、温かい布を取り替え、夫も帰宅すれば卵を覗き込み、笑って言った。


「元気か、うちの子」

 卵は、とん、とん、と殻の内側を叩く。


「動いた! ねえ、動いたよ」

 妻は嬉しそうに夫の袖を引く。夫は少し面倒そうに笑いながら、頭を撫でた。


「ほら、ちゃんと育ってる」


 その言葉は、卵ではなく、妻に向けられていた。

 ――ちゃんと育ててる、という証明が欲しかった。


 卵が鳴くようになったのは、夜だった。


 きゅう、と、喉の奥から絞るような音。泣き声というより、空腹の音に近い。

 妻は最初、すぐに立ち上がった。台所へ行き、冷蔵庫を開け、肉を取り出し、ほんの少し切って皿に乗せ、卵のそばへ置いた。


 殻の内側で、ざり、と何かが擦れる音がして、肉は消えた。


「……食べた」

 妻は青ざめながらも、どこか誇らしそうだった。

「食べられるんだ。生きてるんだ」


 夫は不安を隠すように笑った。

「変わった子だな。でも、まあ……育てりゃいい」


 肉は、少しずつ増えた。

 卵が鳴く回数も増えた。


 最初のうちは、夫婦は「育児」だと思い込もうとした。夜中に起きることも、買い物が増えることも、「親になるってこういうこと」と、自分に言い聞かせた。


 けれど、卵が鳴くたびに二人は少しずつ遅くなった。


「今、疲れてるの」

 妻が布をかけ直す。

「もう少し待って」

 夫がテレビの音量を上げる。


 卵の鳴き声は、やがて止まる。

 止まったのを見て、二人はほっとする。


「聞き分けがいい」

「いい子だね」


 違う。卵は聞き分けているのではない。

 学んでいるのだ――自分の声は届かない、と。


 肉の量が増えると、お金が減る。

 お金が減ると、二人の口数が増える。


「なんでこんなに食べるのよ」

「知らないよ。お前が欲しいって言ったんだろ」

「私だけのせいじゃないでしょ」

「俺だって、周りに言ったんだ。子どもができたって」


 いつの間にか「卵を育てる」話ではなく、「自分たちがどう見られるか」の話になっていた。


 それでも妻は、ときどき卵を抱きしめる。

 ただし、それは卵が求めたときではなく、妻が不安になったときだけだった。


「大丈夫、大丈夫……私たち、ちゃんとやってる」

 卵は温かい。でも、その温かさは、抱きしめられた安心ではなく、内側で燃えている飢えの熱に変わり始めている。


 ある夜、卵の周りに幻のような影が見えた。

 殻の筋が、木目ではなく、枝のように伸びている。布の上に、細い黒い欠片が落ちている。


「……殻が割れてきた?」

 夫が言い、妻が息を呑む。

「もうすぐ生まれる……?」


 二人は喜ぶべきだった。

 でも、先に出たのは、別の言葉だった。


「……これ、もし普通の子どもじゃなかったら?」

「そんなこと……」

「だって、肉だぞ?」

「でも、マキさんが……愛情があれば普通だって」


 妻はそう言いながら、卵を見ない。

 見れば、何かが確定してしまうからだ。


 夫が言った。

「肉、買えないなら……どうする?」


 妻は黙る。黙ったまま、冷蔵庫の空を見つめる。


 翌日、夫婦は客を招いた。

 古い友人だと言い、笑って迎え入れた。食卓を整え、酒を出し、料理を並べた。久しぶりの「普通の夜」のふりをした。


 卵は棚の上で、静かだった。


 それが逆に怖かった。


 夜が深くなり、客が酔い、帰ろうとしたとき――卵が鳴いた。

 いつもの空腹の音ではない。殻の内側から、がり、と何かが爪を立てる音。


 妻が布をかけようとした瞬間、殻が割れた。


 ぱき、ではない。

 ばき、と乾いた木を折るような音だった。


 裂けた殻の隙間から出てきたのは、赤ん坊ではなかった。

 湿った肉でもなかった。


 枯れ木のような腕。枝のような指。

 節だらけの体が、ぎこぎこと動く。

 顔は、木のこぶみたいに歪み、口だけが人間の子どものように開いた。


 声が出た。

 「おなか、すいた」


 その声は、幼い。

 幼いのに、温かくない。

 欲しいものだけを、真っ直ぐ言う声だった。


 客が悲鳴を上げた。夫が腕を掴もうとした。妻が叫んだ。


「だめ! それは――!」


 何がだめなのか、言葉にならない。

 だめだと思う理由を、二人は最初から持っていなかったからだ。


 枯れ木の化け物は、迷わなかった。

 空腹だけが針になり、最短の道を選ぶ。


 客は、食われた。


 夜が明けたあと、家には何も残らなかった。

 床に落ちたのは、割れた殻と、黒い木屑だけ。


 夫婦は震えながら、翌日も客を招いた。


 理由は単純だった。

 肉を買う金がない。

 そして、化け物を「手放す」勇気もない。

 警察へ行けば、自分たちが終わる。

 逃げれば、どこかで誰かが食われる。

 だから――目の前で済ませようとする。


 正しさではなく、保身で考えた結果だった。


 妻は泣きながら言った。

「私たち、子どもが欲しかっただけなのに」

 夫は怒鳴った。

「俺だって、普通の子どもが欲しかったんだ!」


 普通、普通、普通。

 その言葉を繰り返すほど、二人の目は卵を見なくなる。

 卵の中にいたものを見なかったように、今も見ない。


 枯れ木の化け物は、家の中で大きくなった。

 枝は太くなり、節は固くなり、声は少しずつ低くなる。


 「おなか、すいた」


 その言葉だけは変わらない。

 そして、夫婦はそれに答え続けた。

 愛情ではなく、取引として。


 ――こうして、化け物は完成した。


 最後の日は、静かだった。


 夫婦はもう客を呼べなかった。誰も来なくなった。噂は広がる。警戒される。

 肉もない。家の中には、乾いた匂いしかない。


 枯れ木の化け物が、居間の中央に座っていた。

 枝を畳み、頭を低くしている。眠っているように見える。


 妻が小さく言った。

「……私たち、ちゃんと愛してたよね」

 夫は答えなかった。


 妻は続けた。

「最初は……ちゃんと声をかけたし……抱っこも……」


 その言葉の途中で、化け物がゆっくり顔を上げた。


 枯れ木の口が開く。


 「ありがとう」


 優しい声だった。

 だからこそ、怖かった。


 次の瞬間、夫婦は食われた。


 それは罰ではない。

 報いでもない。

 ただ、育てた結果が、最後まで「同じ形」で返ってきただけだった。



 ヴェルディ横丁の雑貨店は、今日も静かだった。


 マキはカウンターの上に、薄い木屑のようなものが落ちているのを見つけ、指先でつまんだ。灰色の殻の欠片。卵の終わりの欠片。

 ガルムが、床から片目を開ける。


「……やっぱり、そうなったか」

「ええ」

「お前が悪いのか?」

「いいえ」

 マキは首を振った。

「卵は、育てた人の形を映すだけです」


 棚の奥から、同じような卵の箱を取り出し、そっと元の場所へ戻す。

 マキは、淡々と言った。


「愛情を持って育てたら、普通の子が生まれます」

「抱く。見る。返事をする。泣いたら行く。怖がったら一緒にいる。――それが愛情の形です」

「曖昧な感情で育てると、化け物になります。口だけの愛情、気分だけの優しさ、都合のいい抱擁。卵はそれを食べて、歪みます」


 ガルムは鼻を鳴らした。

「人間のほうが化け物だな」


「人間は、化け物にも、親にもなれます」

 マキは小さく笑った。

「どちらも、子どもが決めるんじゃない。育てる側が決める」


 そしてマキは、カウンターの下から一冊の絵本を取り出した。

 表紙には、木の影。口を開いた影。子どもの落書きみたいな絵。


 マキはランプの下で、ページを開く。


「……昔話を読みましょうか」

「またそれか」

「ええ。時々読むと、自分の手が何をしているのか分かりやすいので」


 マキは静かに読み始めた。

 子を望んだ夫婦の話。

 与えられた“赤ん坊”のようなものの話。

 愛と欲と、育てるという行為の話。


 最後のページを閉じ、マキは呟く。


「――おしまい」

「はっぴいえんどか?」

 ガルムが欠伸混じりに訊く。


 マキは少し考えてから、いつものように肩をすくめた。


「さあ。誰にとっての、でしょうね」


 ヴェルディ横丁の空は、今日も昼でも夜でもない。

 時計たちは好き勝手な時間を指し、鈴はまだ鳴らない。


 けれど、どこかで迷った誰かが、また卵を求めて歩いている。

 その足音だけが、まだ来てもいないのに、店の奥で小さく響いた気がした。

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