マキとてんびん座の指輪
ヴェルディ横丁の空は、昼でも夜でもない。紫がかった群青の光が店の屋根を淡く照らし、頭上には惑星がゆるやかに回転し、近くを流れ星が横切っていく。
横丁そのものがねじれた空間のようで、通りの石畳は歩くたびにわずかに揺れ、どこか水面の上に建っているような錯覚すら与える。ここは、迷った者、行き詰まった者だけが辿りつける、小さな世界の端だ。
雑貨店「マキ」は、赤い扉と古びた木製の窓枠が目印の、どこか懐かしい雰囲気を持った店である。扉の上の小さな鈴は、風もないのにときおり鳴った。
店の中には古いランプが灯り、壁には無数の時計が掛けられている。どれも指す時間は違い、けれど不思議と調和している。棚には魔法の小瓶こそ並んでいるものの、今日は蓋が閉ざされたまま。マキは魔法を使う気はない。時々、本当にただの雑貨屋を求めて迷い込む者がいるからだ。
カウンターの中で、マキは星屑の小瓶を柔らかい布で磨きながら、小さく息をついた。黒髪はひとつ結びにして後ろへ流し、朱色の瞳は静かに揺れている。その表情は、穏やかでどこか遠い。
「今日も、静かですね……」
足元では黒い巨大な狼――ガルムが寝そべっていた。処刑の黒狼と呼ばれた存在だが、今はただの店番犬のように鼻を鳴らし、眠たげに尻尾を揺らしている。
「静かで文句はないがな……暇だ」
「それは番犬のセリフではありませんよ」
「番犬が客を噛むかどうかは、客次第だろ」
くぐもった声で答え、ガルムは再び目を閉じた。
そのとき――
カランッ
扉の鈴が高く澄んだ音を立てた。
マキは顔を上げた。ガルムの耳がぴくりと動く。
赤い扉の向こうから、小さな影がひょこりと顔を覗かせた。
栗色の髪を肩の横で結んだ、小さな少女だった。背丈はマキの腰ほどしかなく、緊張したように扉の縁をぎゅっと掴んでいる。
「こ、こんにちはっ……!」
少女は息を切らしながら頭を下げた。頬は少し赤く、足もとでは小さな靴がぱたぱたと揺れている。
ヴェルディ横丁にたどり着く子供は珍しい。マキは柔らかい声で言った。
「いらっしゃいませ。迷われましたか?」
「えっと……雑貨屋さん、ですよね……?」
マキは頷いた。
「ええ、そうですよ。ここは“夢と魔法を扱う雑貨店 マキ”。ですが、今日は魔法はお休みです。普通のお買い物も大歓迎ですよ」
少女はほっとした表情を見せた。
「よかった……! あのね、おかあさんの、たんじょうびのぷれぜんとを買いに来たの!」
その声には迷いや濁りがひとつもない。
ただ誰かを思うまっすぐな光だけがある。マキの胸の奥が、ふっと温かくなった。
「素敵ですね。どんなものが良いと思っているのですか?」
「てんびんざの、ゆびわ! おかあさん、てんびんざだから!」
少女は両手を広げて説明した。
マキは棚を思い返す。てんびん座の指輪など、置いていない。
「残念ですが、既製品の指輪は扱っていません。ですが――」
少女の瞳が揺れ、すこし不安に曇った。
「つく……れたり、しますか……?」
マキは微笑んだ。
「ええ、素材はありますから。もしよければ、一緒に作りましょうか?」
「つくるの!? ほんとうに!?」
「もちろんです」
少女はぱあっと笑い、体を揺らした。
ガルムはちらりと片目を開けて見たが、「ふん」と鼻を鳴らしてまた眠った。
マキが子供と関わろうとするときの、静かな呼吸の変化がどうも気になるらしい。
マキは少女をカウンター横の作業台へ案内した。
「では、指輪作りを始めましょうか」
◆
作業台には、銀色の金属片、磨かれた宝石、刻印用の針、細いヤスリが並んでいる。少女は目を丸くし、まるで宝箱を覗きこんだような表情をした。
「これで指輪ができるの……?」
「そうですよ。まずは形を整えていきます」
マキは金属片を指の上へ乗せ、少女へそっと渡した。
少女は持ち上げてみるが、驚いたように眉を寄せた。
「かたい……!」
「最初はみなさんそう言うんです」
マキは笑ってヤスリを手渡す。
「この面を削って、丸くしていきましょう。指輪の形に近づけるんです」
「や、やってみる!」
少女は舌を少し出し、真剣な表情でヤスリを動かし始めた。
キュッ……キュッ……
静かな店に、金属を削る音が心地よく響く。
少女の小さな手は震えながらも、真っ直ぐだった。削りすぎないように細心の注意を払うその姿に、マキは自然と口元が緩む。
「とても上手ですよ。初めてとは思えません」
「ほんとに? おかあさん、よろこんでくれるかな……」
「ええ。世界に一つしかない指輪ですもの」
少女は照れたように笑って、また一生懸命削り始めた。
何かを贈ろうとする気持ち――
その温かさは、マキの胸の奥にかすかな痛みを生んだ。
幼いころの自分が、誰かに贈りものをしようとした記憶が、薄く揺らめくように思い出されたからだ。
(……私は、何を作ったのでしたっけ)
記憶の輪郭は曖昧で、手触りだけが残っている。
気づけば金属片は指輪の輪郭を持ち始めていた。
「次は宝石をはめましょう」
マキは青白く光る小さな宝石を指に乗せる。
「これは?」
「てんびん座の星を象った石です。光が揺れるでしょう?」
「わぁ……きれい……!」
少女は胸の下に手を当て、息を呑んだ。
「はめてみますか?」
「うん!」
宝石をはめ込む作業は繊細だ。ほんの少し力を誤るだけで、宝石に傷がついたり、金属が曲がったりする。
少女は眉間にしわを寄せ、口をぎゅっと結んで集中する。
「ゆっくりでいいですよ」
「……うん……」
時間はかかったが、宝石はぴたりと収まった。
「できた……!!」
「ええ、とても綺麗です」
マキは頷き、少女へ指輪を渡した。光が反射して、星が瞬いているように見える。
少女は目の縁を潤ませながら言った。
「おかあさん、すっごくよろこぶ……!」
その姿を見た瞬間、マキの胸に、幼い日の光景が重なった。
――指輪の形を、必死に整えている幼い自分。
――落ち着いた手つきで見守る“誰か”。
――笑う母の顔。
(……あれも、指輪だったような)
記憶は曖昧だが、確かな温度だけが胸に残った。
◆
「さあ、最後の工程です。指輪の内側に名前を刻みましょう」
「なまえ……?」
「お母さんのお名前を刻むのも良いですし、あなたの名前でも構いません」
少女は一瞬だけ悩んだが――すぐに瞳を輝かせた。
「おかあさんのなまえにする!」
マキは刻印用の針を渡した。少女は両手で包み込むように受け取る。
「力を入れすぎないように。ゆっくりと……」
「……がんばる」
少女は息を止め、小さく震える手で針を動かした。
刻まれる線は少し曲がっているが、丁寧で、温かい。
――その姿は、幼い日のマキと重なった。
(私も……こうして刻んだのでしょうか)
刻印が終わり、少女は大きく息をついた。
「できた!」
「ええ。とても綺麗です」
マキは指輪を小箱に入れ、柔らかい布をかぶせた。
少女は硬貨を小さな袋から取り出し、マキに差し出す。
「ありがとう、おねえちゃん!!」
全身で喜びを表しながら、少女は店を飛び出した。
カランッ
鈴が鳴り、その音は静かな横丁に吸い込まれていく。
静寂が戻った店内で、ガルムが大きく伸びをした。
「……で、終わりか?」
「ええ。可愛らしいお客さんでしたね」
「しかし珍しいな。お前が魔法を使わず、普通の雑貨屋みたいにしたのは」
「時には、あの方が良いのです」
マキはカウンターに手をつき、小さく息を吐いた。
「……そういえば、ガルム。私も昔、母に誕生日プレゼントを贈ったことがあります」
「へぇ、どんなもんだ?」
「忘れてしまいました。でも……ひとつだけ思い出したことがあります」
「なんだ?」
マキは胸元へ手を伸ばし、ネックレスをそっと引き出した。
そこには、銀色の指輪が揺れていた。
内側に刻まれた文字が、星の光に照らされてきらりと光る。
マギリカ
ガルムは眉をひそめた。
「……おい、それって……今のガキの指輪と似て――」
「ええ。私が幼いころ、ある“落ち着いた店員さん”に指輪を作っていただいたんです」
「おま……まさか――」
「内側に刻む名前を聞かれて、私は答えました」
マキは静かに微笑む。
「“母”と」
ガルムの目が大きく開いた。
「おい……じゃあ、今日のあの子って……」
「ご想像にお任せしますよ。ただ――」
マキは指輪を見つめる。
その瞳は、淡々としているのに、どこか遠く柔らかい。
「私も昔、スペルを間違えたんです。母の名は“マギリナ・マギカ”。私は“マギリカ・マギナ”。似ているけれど、違う」
「……紛らわしいな」
「ええ。だから今日の子も、きっと今ごろお母さんに笑われているでしょうね。私がそうだったみたいに」
ガルムは尻尾をぱたん、と床に落とした。
「……結局、なんだったんだ……?」
「さあ、なんでしょうね」
マキはランプの灯りを指でそっと揺らす。
外では、流れ星が一筋横切った。
「まぁ――はっぴいえんど、ですね」
ガルムはあくびをして、また眠りについた。
ヴェルディ横丁の紫の空は、今日も静かに瞬いている。




