ジョニー、あなたとは分からなかった
ヴェルディエ横丁は、街の外れにある。
広場の石畳から一本外れた路地。そこだけ切り取られたように、細く影の道が伸びていた。昼でも夜でもない、紫と青のあいだの薄闇。足元を照らすものはなく、見上げると空の色だけが、現実と違うのがわかる。
黒でも紺でもない、星の粉を溶かしたような天穹が、横丁の上に貼りついていた。流れ星が絶え間なく横切り、星は近く、瞬きがやけに生々しい。
そのいちばん奥。
星屑を模した小さな看板が、風もないのにかすかに揺れている。
夢と魔法の雑貨店「マキ」
扉を押すと、かすかな鐘の音が鳴った。
古びたランプに火が灯り、棚には大小さまざまな時計が並ぶ。逆さまに回る砂時計、秒針だけが早すぎる時計、止まったままのもの。ガラス棚には星屑の小瓶。壁一面には銀の鏡がかかり、映る星座は、横丁で見たものとは少しずつ異なっている。
カウンターの奥に立つ少女。黒曜石のように長い髪をまとめ、朱色の瞳を静かに灯す。年の頃は十代の終わりだろうか。けれど、瞳の奥だけが、何百年も人の心を見続けてきたみたいに冷たい。
その少女の名は、マキ。魔女見習いを自称するが、横丁のただ一つの店の店主であり、魔女としての片鱗を宿す存在だ。
看板どおり、この店は「夢と魔法の雑貨店」だ。
マキは、口に出さない心の声を添える。
人を幸せにする、夢と魔法を。
しかし、魔法は時に、毒にもなる。
この路地に迷い込むのは、大抵「何かを失った人間」。
大事なものを、誰かを、自分自身を。
今日もまた、半歩だけ世界の理からずれた扉を、そっと押し開ける者がいた。
⸻
扉の鈴が、かすかに震える。
「いらっしゃいませ」
柔らかく微笑むマキ。声も言葉づかいも優しい。けれど、瞳だけは冷たく、客の全身と、心の皺まで測るように静かに見つめていた。
入ってきたのは、若い女。栗色の髪を雑にひとつに結び、くたびれたコートを羽織る。袖口には、洗っても落ちない血のような黒ずんだ染みがいくつかあった。
女は店内をきょろきょろ見回し、ためらうようにカウンターへ近づく。
「……あの」
声はかすれ、泣きすぎた喉の響きが残っている。
「ここ……その、何でも叶うって噂で……」
「何でも、なんて。そんな大それたことは申しませんよ」
マキは小さく笑い、ランプの火を一段明るくした。
「ですが――そうですね。わたしは、きっかけを魔法にするだけです。運命を視るのは、お客さま自身ですよ」
女は唇を噛んだ。
「……信じて、いいんでしょうか」
「信じるかどうかを決めるのも、あなたです。どうぞ、お掛けくださいな」
マキが椅子をすすめると、女は震える手で腰を下ろした。コートのポケットをぎゅっと握りしめ、関節まで白くなっている。
「お名前を伺っても?」
「……マリー、です」
「では、マリーさん。今日は、どんな夢と、どんな毒をお求めで?」
マリーはポケットから、くすんだ銀のボタンを取り出した。軍服のものだと、一目でわかる。擦れて消えかけた紋章が刻まれていた。
「婚約者が、兵隊に取られて……」
その瞬間、涙があふれ出す。
マキは黙って、棚の時計のひとつに指先を当てた。秒針が、静かに逆回りを始める。
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「戦争が終わって、みんな戻ってきたんです。生きてる人も、棺の中で戻った人も。でも、ジョニーは、しばらく戻ってこなくて……」
「ジョニー」
その名を口にするたび、マリーの指先がボタンを強く握った。
「戦地で死んだって、役所には言われました。遺体は見つからなかったけど、たぶん、どこかで……」
数か月前、突然戻ってきたのだと話す。
「よかったではありませんか」
マキは少し首を傾げる。
「――よく、ありませんでした」
マリーの声は震え、肩も小さく揺れる。
「ジョニーは……ジョニーのはずなのに。顔はそう見えるけど、片方の腕も、片足も機械になっていて。顔にも傷がたくさん。片方の目は、ガラス玉みたいに濁ってて……」
夜は叫び続け、眠れない。
「マリーだ」と呼ぶ声も、昔の優しい声じゃなくて、違う人みたいで……怖かった。
「わたし、ひどいんです」
生きて帰ってきてくれたのに、「違う」と思ってしまう自分を責める。
「知ってますか、あの歌……兵隊に行った恋人が帰ってきて、『ジョニー、あなたとは分からなかった』って泣く歌」
マリーは涙をこぼしながら、ボタンを握りしめる。
「まさか自分が、あの歌の女になるなんて……でも、戻ってきてくれた“ジョニー”を、ちゃんと愛したい。戦争の記憶を、ぜんぶ忘れさせてほしい」
⸻
マキは、小さく目を細めた。
「戦争に行く前のジョニーに、戻したいのですね」
「はい」
即答だった。
「……あなたの方は?」
「え?」
「あなた自身の記憶は、そのままでいいのですか? 戦争後のジョニーをどう怖がってしまったか――その記憶も残したままで?」
マリーは息を呑む。その沈黙を、マキは答えと受け取った。
棚の奥から、小さな木箱を取り出す。蓋を開けると、透明なガラス瓶が二本。黒い霧の瓶と、淡い金色の光の粒が入った瓶。
「これは、“分かち合う記憶”の小瓶です」
黒い瓶は戦争の記憶を抜き取り、金の瓶には「恋人としての時間」が溜まる。
「ただし代価があります。何かを抜き取るには、同じ重さの何かを支払わなければなりません」
マリーの顔から血の気が引く。
マキは淡々と続ける。
「黒い瓶に戦争の記憶を移すほど、金の瓶にあなた方の思い出が落ちます。初めて手を繋いだ夕暮れ、初めて泣いた夜、交わした約束……一つ一つが、こちらに溜まります」
「じゃあ……全部取ったら、わたしの思い出も……?」
「“釣り合うだけ”です」
金の瓶に溜まる光の量は、二人の関係の深さによって増す。
マリーは指先を震わせた。
「いやだ……忘れたくない、あの人との思い出は……」
「当然です。だからこそこれは取引。どこまで許容できるか、あなた自身で決めてください」
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その夜。
マリーの小さな部屋で、戦地から戻ったジョニーはうなされていた。
「やめろ……撃つな……マリー、逃げろ……」
ないはずの腕が宙を掻き、悲鳴と砲声が混ざる。マリーは黒い瓶の蓋を開け、焦げた鉄の匂いを吸い込むように、そっと当てた。
黒い霧が零れ出し、傷跡、こめかみ、口元から吸い上げられる。戦場の光景や叫び声も、一緒に小瓶の中へ渦を巻いた。
同時にマリーの胸の奥で、初めて軍服を着たジョニーを見た日の思い出が、薄紙のように灰になる。
金の瓶には、淡い光がひと粒ずつ落ちていく。
ジョニーは徐々に落ち着き、うなされることもなくなった。
⸻
数日後。
夜中の叫びは消え、ジョニーは手を握り、笑う顔も柔らかくなった。
「最近、よく眠れるんだ。夢を見ない日もある」
マリーは嬉しくもあり、少し怖かった。黒い瓶は残り四分の一。代わりに、自分の記憶の一部が削られていた。
祭りの夜、一緒に見た花火の記憶が薄れている。
それでも、隣にいる温かさは残っていた。
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ある晩。
再びうなされるジョニー。マリーは黒い瓶を手に取った。
指先が、ほんの少しだけ止まる。
このまま注げば、楽になるのかもしれない。
でも、その先で自分は、本当に「愛した」と言えるのだろうか。
――いいえ。迷っている暇はない。
マリーは、躊躇なく黒い瓶を傾けた。
残りの記憶が吸い取られ、銃声、土砂降り、血の匂い――すべて小瓶の中へ。
マリーの胸で、何か大きなものが崩れ落ちた。
出会った日の記憶すら、思い出せない。
金の瓶は満たされ、淡い光が棚のランプほどに輝く。
⸻
朝。
小鳥の声で目を覚ますマリー。隣には見知らぬ男――片腕なし、義足、顔には傷跡と曇った目。
「誰っ――!?」
「マリー!? 悪い夢でも――」
声は少し懐かしい。けれど、違和感しかない。
「近寄らないで!」
マリーの視線は、男の身体ではなく、「知らない男を見る目」になっていた。
ジョニーの記憶はすべて消えていたのだ。
「本当に……知らないのか」
ジョニーはかすれ声で問う。
マリーは涙を流し、首を振る。
「ごめんなさい……怖いの……思い出せないの……」
沈黙が二人の間に落ちる。
ジョニーは自分の居場所がないことを悟り、義足を手に取った。
「……悪かったな。戦争で色々あったんだろうけど、もう覚えてない」
苦笑がぎこちなく、部屋を出ていく後ろ姿。
マリーはただ涙を流す。
理由のわからない喪失感が、胸の奥に広がっていった。
⸻
その頃、ヴェルディエ横丁の奥。
マキは二つの小瓶を棚に戻していた。黒い瓶は空になり、戦場の記憶は沈黙している。金の瓶には、二人が共有した恋人としての時間が、淡い光となって揺れていた。
「ふふ」
指先で軽く弾くと、光が震える。
「真実を知りたいなら、時に勇気も必要です。けれど、知らないままでいる勇気も立派なもの」
一拍おいて、マキは微笑んだ。
「――まぁ、はっぴいえんどですね」
小瓶にラベルを貼る。
『とある恋人たちの、戦争の記憶』
インクが乾く頃、横丁の空には知らない星座が、ひとつ増えていた。




