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生理現象の狭間で

作者: 腰越 おん

 知り合いに、中学一年生の女の子がいる。名前は夏子ちゃん。先日、重度知的障害と改めて診断されたと母から聞いた。障害の程度によって、受けられる助成の金額が変わるのだという。


 中学一年生といえば、好きな人ができはじめる頃だ。男の子を男子として意識し、心と体が同時に成熟していく。多くの子が、生理を迎える時期でもある。


 私は自分の最初の生理を鮮明に覚えている。中学入試の二週間前にインフルエンザにかかり、治りかけの身体で受験をした。その一週間後、大雪の日に、血は突然、私の中に流れ込んできた。


 九州の町では、一センチの雪でもニュースになる。けれどその日、五センチもの雪が降った。白一面の世界に滲んだ赤は、火曜サスペンスの殺人現場のようだった。吹雪の中を逃げる主人公が背後から刺され、滴る血が雪を染める――それは、かき氷に練乳を垂らしたように広がっていった。以来、私は女になるたび、あの光景を思い出す。


 夏子ちゃんは、母の職場の同僚である坂本美紀さんの娘だ。彼女は私を姉のように慕い、イヤーマフをつけては、誰にも見えない誰かと話している。母と坂本さんは「サンタクロースとしゃべっているのかも」と笑う。


 ときどき、坂本さんの車で送ってもらう。車内では決まって夏子ちゃんの話になる。

「最近、こんなことができるようになったのよ」

 坂本さんは嬉しそうに語る。私はうなずきながらも、胸の奥でどう反応すればいいのかわからなくなる。子どもの成長を映像教材でしか知らない私には、生きていてくれること自体が奇跡に思えるのに。


 ある日、彼女がふいに尋ねてきた。

「葉月ちゃん、生理いつ来たか覚えてる?」

「中一になる前の一月です。少し遅めでした」

「やっぱりそのくらいなんだね。夏子はどうなるんだろう……ナプキンの練習はしてるんだけどね」


 生理の意味を理解できない子にとって、なぜナプキンをつけるのかはわからないだろう。私はとっさに「肌が弱い子は、普段から慣れておかないと」と答えた。自分でも奇妙な言葉だと思った。


 それでも気になって尋ねる。

「施設でサポートする職員さんって、女性ですか?」

「高学年になるとそういうことが多いけど、デイサービスでは必ずしもそうじゃないの。男性職員も増えていて……」

 坂本さんは声を落とした。

「無自覚のまま、女の子を襲ってしまう場合があるんだよ」


 誰も悪くないのに、全員が傷ついてしまう現実。私は背筋を冷たい手でなぞられたように震えた。


 私自身、月に一度「女」になる。本能に突き動かされる。恋人がいれば別の形をとるのかもしれないが、いなくても結局は同じだ。けれど障害のある子には、その制御すら難しい。感情のブレーキがきかず、無自覚に誰かを傷つけてしまう。残るのは親の涙だけだ。


「葉月ちゃん、もし夏子に生理が来て、施設が女の子だけじゃなかったら……ゆくゆくは子宮を取ろうって思ってるんだ」


 坂本さんの声は、同情を求めてはいなかった。

「妊娠したら困るから、ですか?」

「そうだね」

 明るい声で返されて、かえって胸が締めつけられた。


 女の子として生まれた存在から、子宮を奪うという選択。母でありながら「母と呼ばれない母」である坂本さん。夏子ちゃんは知能指数が四歳程度で、母を母として理解できない。それでも彼女は育て続けている。その理由を、私はうまく言葉にできなかった。


 もし私に娘ができれば、生理の日には赤飯を炊いて祝うだろう。子どもが家庭を築きたいと願えば、その未来を祈るだろう。だが坂本さんにとって、生理は祝福ではなく、ひとつの「時限」なのかもしれない。


 夏子ちゃんにその日が訪れるとき――それは女であることを諦めなければならない日でもあるのか。本人の意思のないまま摘出される子宮。それは医療処置というより、「女であること」を封じる選択に思えた。


 車は信号で止まった。赤い光がフロントガラスに広がり、雪に滲んだ血の色と重なった。胸の奥で、かつての大雪の日の記憶がざわめきだす。


 坂本さんはハンドルに手を置いたまま、前を見ていた。横顔はいつもと変わらず明るい。けれどその明るさは、光ではなく、痛みを覆い隠すための薄い膜のように見えた。


 私は言葉を探したが、喉の奥で凍りついた。もし生理が来なければ、一人の女の子としての成長を祝うことはできない。もし来れば、避けられない問題に向き合うしかない。どちらにせよ、答えは傷を含んでいる。


 青信号に変わるまでの短い間、私は呼吸をひそめていた。坂本さんはアクセルに足をのせ、静かに前へと進みだす。その背中に、私にはまだ見つけられない答えが、確かに宿っている気がした。

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