7.文禄の役
豊臣政権の仕置により、島津氏には薩摩、大隅、そして日向諸県がその領地となり、佐土原の豊久と薩摩の義久の間に割り込む形で島津、豊臣両属として伊集院忠棟に日向庄内八万石が宛がわれた。
秀吉の九州平定直後、佐々成政は秀吉の命で肥後の領主となったが、何を思いついたのか成政は赴任直後に検地を実行した。検地を実施すれば、それまで少なめに申告していた石高が明らかになる。元より独立心と自尊心の強い肥後の土豪達は、いきなりの検地に猛反発して叛乱を起こした。
叛乱は即座に鎮圧されたが、秀吉を大いに失望させた成政は改易させられた。
成政に代わって加藤清正と小西行長が肥後の南北に宛がわれ、それ以降は九州に大きな戦乱はなくなった。
薩摩、大隅、日向諸県へと領地を大幅に削られた義久は、その激減した領地の家来への再配置に数年を煩わされた。
また、肥後の南北にそれぞれ仕置されてきた加藤清正や小西行長は佐々成政の引き起こした国人一揆後の混乱を収めるのに苦慮した。
天正十八年(1590年)、関白となっていた秀吉は自らが発した惣無事令を無視した北条氏を滅亡へ追い込む小田原征伐を発動し諸大名に動員を発令した。
しかし、僻遠の地の島津氏には動員はかからず、義久を初めとする島津一族は領地経営の安定に努めた。家来や領民の間には、もしかして戦乱の世は終わったのかと思わせる平穏な日々が続いた。
その頃、大陸進出の野望を胸に秘めた秀吉は、戦力の涵養を期待して九州の諸大名の領地経営の安定を数年待った。しかし、領地経営に追われる彼ら九州の諸大名はそのような秀吉の深謀など知る由もなかった。
次右衛門は、春、秋は農作業に追われ、冬は猪や鹿を狩り、夏は川に漁り、時に鍜治場で平馬と槌を振るい、定期的に城に勤めた。
島津義久が秀吉に屈服して五年目の春、もはや戦の時代は終わりを迎えた、と誰もが思い込んでいた。
麦秋のある日、次右衛門は日の光を撥ね返して金色に輝く麦畑に埋もれて麦刈りに精を出していた。畝越しには伍作を筆頭に家人たちも腰を屈めて鎌を振るっている。数日かかった麦刈りが終わり、大豆の種まき準備の耕作が始まった。牛に引かせた鋤で耕し、畝を起こす。
ふいに初夏には珍しく冷ややかな風が頬を撫でた。
次右衛門は空を見上げ、西の空に暗雲を見つけた。
「旦那様、あれは野分の前触れじゃなかひか」
傍らのあざみは不安げに尋ねた。
「うん。この風にあん雲…野分が来っど。畝立ては先延ばしじゃ」
次右衛門は伍作に後始末を指示して、あざみと母屋に引き返した。
夕刻になって、驟雨が一帯を襲った。
次右衛門は母屋や家畜小屋などの戸締りを厳重にして、あざみは母屋の囲炉裏の火を起こした。
囲炉裏の鍋は、あざみが手際よく調理した干し鮎を味噌で仕立てた雑炊が湯気を立て始めた。
外の暴風の唸り声が聞こえる中、幼子たちは不安げに母を両脇からしがみついている。
「父上、明日は晴れもすか」
辰之助が不安を押し殺した顔で尋ねた。
「どげんかな。雨風が強かどん、怖じがってもしょうがなか。肚を据えて野分が過ぎるのを待っど」
「はい」
雨が板壁を叩く音が強くなった。
次右衛門は、構わずに木椀の雑炊を啜っている。
「旦那様、綾の鍜治場は無事でごわんそかい。あそこは川の直ぐ側じゃから川の水が上がれば浸かりはせんやろか」
あざみは不安げに天井を見上げた。
「うむ。雨が多か気はするが、鍜治場は川の曲がりの内側の高か場所じゃから大丈夫じゃろう。じゃっどん、野分が過ぎたら様子を見に行こう」
次右衛門は箸を止めてあざみに告げた。
「有難うございもす。母も歳じゃから」
「うむ、心配じゃな。代わりをくれ」
次右衛門は微笑んで空の椀をあざみに差し出した。
次右衛門は風雨の悲鳴のような唸り声に寝付けぬ夜を過ごした。
チュンチュンと雀の鳴き声が聞こえてきた。
いつの間にか寝入っていた次右衛門は上半身を起こして傍らを見やった。
あざみの寝床は片付けられており、土間から包丁がまな板を叩く心地よい音が聞こえてきた。
蔀戸を上げて、見上げると白雲の群れが流れて行く青空が広がっている。
「おお、良か日和じゃ」
早々に朝食を済ませた次右衛門は草鞋で足固めをして、あざみから着物の袖で抱えた大小を受け取った。
「お気をつけて」
「うむ。行って来っで」
次右衛門は徒歩で平馬の鍜治場へと向かった。
鍜治場に近づくと、道は本庄川沿いに続いている。
川は茶色い濁流となり、ドウドウと唸り声をあげている。
倒木や土砂崩れで道を進むのに難儀した場所が数か所あったが、どうにか鍜治場にたどり着いた。
次右衛門は訪いの声を掛けた。
「平馬、居るか」
「おお、義兄者。激しか雨じゃったが屋敷は無事でごわすか」
中から、平馬が笑顔で出て来た。
「何とか持ちこたえたど。そっちは」
「無事でごわす」
「そりゃ良かった」
「兄上。お家は無事でごわすか」
なつが乳飲み子を抱えて出て来た。
「うむ、大丈夫。おはんたちも大事無くて良かったな」
「はい、白湯を淹れもすからお待ちを」
「いや、今日は焼酎じゃ。のう義兄者」
「そうじゃな、今日は吞み日和じゃな」
平馬の提案に次右衛門は笑い、なつは家に引き返して徳利と木椀を準備した。
二人は川原の適当な石に座り込んで、湯呑の焼酎を舐めるように味わった。
目前には、本庄川が轟々と唸りを上げながら荒波を立てて流れている。
「そげん言えば、おいとおはんが初めて会うた夜に、おはんはどんぐり弾の知恵は野分の明けた川で授かったち言うたよな。あれから何十年か経ってしもうた」
次右衛門は荒れ狂う川面を見詰めて呟いた。
「おお、あん時の話を覚えちょいやったな。義兄者は」
「忘れる筈がなか。ずーっと気になっちょった」
「ははは、恐れ入りもした。うむ、あれでごわすよ、義兄者」
平馬は立ち上がって川面の一点を指した。
見ると、枝が千切れて丸太になった杉が荒波に押されて流れ下っている。
「あや杉の木やな。上流で山崩れに遭うて川に落ちたとじゃろ。それにしても速かな」
次右衛門も平馬につられて立ち上がった。
「義兄者、おいは薩摩でこいと同じ景色を見た。そして、おいが見た時は丸太と同じ太さの岩が丸太の隣を流されよった」
「ふーむ」
「あの丸太と同じ太さの岩じゃっど。一尺くらいの塊じゃから丸太に比べたら軽い筈じゃ。そいで、どっちが真っすぐ流るっと思いやひか」
「…丸太か」
「じゃっど。丸か岩はあっちこっちふらふら流れっせ、細長か丸太は真っすぐ流れた。おいはそれが鉛弾の飛ぶ姿に見えもした」
「おお、丸か岩は鉄砲の丸弾、あの丸太はどんぐり弾になった訳か」
次右衛門は顔を輝かせて平馬を見やり、椀の焼酎を煽った。
「じゃっど」
平馬も笑って椀を干した。
「そいで、おいは鉄砲鍛冶の父上にどんぐり弾の思案を持ちかけたが、父上は頭ごなしに受付けんかった」
「そうじゃったとか」
次右衛門は徳利の焼酎を平馬の椀に注ぎ、平馬は次右衛門の椀に注いだ。
「どげんしても譲れんおいは、己の工夫でどんぐり弾を作って父上の前で撃ってみた」
「なるほど、そこまですればおはんの御父上も得心が入ったじゃろ」
「いかんかった」
平馬は苦笑した。
「えっ、何ごて」
「どんぐり弾は筒型じゃから、鉄砲の筒の中で丸弾の何十倍も擦れるのをおいは思い付いちょらんかった」
「どげんした」
「弾詰まりじゃ」
「えっ」
「引き金を引いた瞬間、どんぐり弾は筒の中で止まってしもうて、逆流した火薬の焔がおいの右目に被って来た」
「では、おはんの顔の火傷はそん時…」
平馬は黙って頷いた。
「一時は右目も良う見えんかったが、ひと月くらいで元のように見えるようにはなった。おいは火傷を治しながら、何ごて弾詰まりを起こしたかあれこれ思案して、滑りが悪かったからじゃと、はたと思い至った。こいは百姓娘に夜這いをかけた時の賜物じゃ」
平馬は、悪戯っぽく笑った。
「そいで菜種油か」
次右衛門も笑った。
平馬はにやりと頷いた。
「そいなら、次ん機会に菜種油を試したとじゃな」
「じゃっど。傷が癒えて、今度は菜種油を筒の中に塗ってどんぐり弾を撃った。傍らでは父上の弟子が丸弾で撃った。距離は二十間先の的じゃ」
「そいで、どげんじゃった」
「おいはどんぐり弾を的の真ん中に当てて、弟子は的から五寸外した。そん弟子は父の下では一番の名人じゃから丸弾でそれ位なら上々じゃ」
「今度こそ、御父上も得心が入ったじゃろ」
「いや、今度もいかんかった」
「何ごてな」
「父が言うには、他の鉄砲鍛冶と違うやり方は無用な混乱を招く。妙な騒ぎになると殿様のお耳に入り罰を受けるかもしれん、ち言われての」
「ふーん、そう言われればそうじゃかもな」
「そげんこげんしよった時に、日向に家久様が赴くとの噂を聞いたおいは、家督を弟に譲ることにして日向に向こうた。新しか土地なら止める者はおらん」
そこまで話すと、平馬は焼酎を煽った。
「そして、おいと見知りおうた」
次右衛門も笑って椀を煽った。
「荒れた川がそげん面白かですか」
その声に振り返ると、赤子を背負ったなつが小鍋を下げて来て笑っていた。
「おお、肴が欲しかち思うたとこじゃった」
「里芋とこさん筍の煮しめでごわんど」
平馬の言葉に、なつは小鍋の蓋を取って見せた。
「そいと握り飯も」
白髪の増えたまきが竹で編んだかごを抱えて来ている。
竹かごの中は竹皮を敷き詰め、その上には握り飯が並んでいる。
「これはこれは、ご馳走にごわすな。義母上様、忝けのうございもす」
「何の、粗餐でごわすよ。どうぞどうぞ」
次右衛門はまきや義弟夫婦の和やかな雰囲気に心地よくなり、青空を見上げた。
頭上を覆う合歓の木の木陰は日光を和らげ、微風を呼んだ。紅色の花弁が放射状に広がり咲き乱れるさまは、次右衛門たちのささやかな宴を祝うかのようだ。
次右衛門は、ふと立ち上がり小柄を抜いて合歓の小枝を二本切り落とした。
「義兄者、どげんしやった」
平馬は尋ねた。
「おいは昔から合歓が好きじゃ、裏庭に植ゆっとよ。こやおはんの分じゃ」
次右衛門は小枝の一本を平馬に渡した。
文禄元年(1592年)、秀吉は明を征服せんとして、その足掛かりを朝鮮半島に定め九州の諸大名に出陣を命じた。
朝鮮侵攻の拠点、肥前名護屋城の周囲には全国各地から百五十家以上の大名、武将の屋敷が囲んでいる。
五層七階の天守閣の最上階からは、眼下に玄界灘の眺望が開けている。
「太閤殿下、徳川大納言様がお見えになりました」
秀吉は、朝鮮侵攻を前に関白職を甥の秀次に譲り太閤となった。
「うむ」
秀吉は玄界灘を見下ろしながら、近習に頷いた。
「太閤殿下、ご機嫌麗しゅうござります。何か良からぬ事でも起きましたか」
家康は、律儀に平伏した。
家康より先に着いていた官兵衛は、入り口脇で控えている。
「いやいや、おぬしに話しておきたい事がありもうしたが中々機会が無うてな。しかし、この名護屋城もついに完成したでな、お呼び立てした次第でござる」
「さてさて、官兵衛。知恵者のそちに尋ねたい」
秀吉は、にやりと笑って官兵衛に話しかけた。
「はっ、何なりとお訊ねくだされ」
「では、訊こう」
秀吉は腰を下ろした。
「官兵衛、今回の我が唐入りについて、幾つか不審が有ろう」
「不審でござりますか」
「そうじゃ、正直に申せ。遠慮はいらんぞ」
「…では、お恐れながらお尋ねいたします」
一拍の沈黙の後、官兵衛は上目遣いに切り出した。
「何じゃ」
秀吉は、上機嫌に笑みを浮かべている。
家康は秀吉の楽しげな様子に疑問を覚えて、二人のやり取りを見守った。
「殿下は、明国の征服が目的との事でござりまするが、それならば何故、直接明国へ攻め入らぬのでござりますか。明国征服の後は、かの地の北京に皇を迎え、寧波にご自身の居を構える構想との事でございます。で、あれば直接寧波を攻め入るのが得策と存じまする」
「ふむ。家康殿も同じ意見かの」
秀吉は、微笑を含んで家康を見やった。
「確かに官兵衛殿のご意見、一理あるかと存じまする」
「はは、もしかしたら、おぬし等は朝鮮に攻め入る秀吉めはいよいよ耄碌したものぞ、と内心呆れておるか。わははは」
「滅相もござりませぬ」
官兵衛は、慌てて平伏した。
「ところで、官兵衛。かの北条執権時宗公ご治世の世に何が起きた」
秀吉は、真顔で官兵衛を見詰めた。
「蒙古の襲来でござります」
官兵衛は即答した。
「左様、『蒙古』襲来じゃ。しかるに、その蒙古の軍勢の大半は何処の者共であったか」
「一度目の文永の役では朝鮮高麗、二度目の弘安の役は高麗に加え宋の軍勢がその大半と聞き及びます」
「あっ」
官兵衛の回答を聞いた家康は、思わず声を上げた。
「家康殿、気づかれたようじゃな」
「はっ」
官兵衛も謎が解けた顔になった。
「官兵衛もわしの謎かけが解けたか」
秀吉は、満足そうに頷いた。
「さる島津征伐の折、わしは長崎がキリシタンの領地となり、人狩りで攫われた者共がイスパニアの商人に売り飛ばされておる事を知り、おおいに驚愕いたした。昔、蒙古は攻め滅ぼした高麗、宋の軍勢を用いて我が日の本に攻め込んだ。イスパニアが同じことをせぬ保証はない。いや、領地の献上や我が国の民人の人売り、これらは我が国へのイスパニア襲来がすでに為されたも同じじゃ。此度の唐入りは、イスパニアが朝鮮、明を抑えて我が国への襲来の手先に使嗾されるのを防ぐが狙いじゃ。官兵衛の申すように寧波に攻め込む手もある。だが、もしイスパニアが朝鮮を抑えれば背後を取られて厄介じゃ。じゃから、まずは朝鮮を獲る」
秀吉は、あえて感情を抑えて話した。家康も官兵衛も秀吉の発想に目が覚める思いで聞き入っている。
「殿下の知恵深さに比ぶれば、この官兵衛、未熟さを恥じ入るばかりでござります」官兵衛は、秀吉を愕然とした表情で見上げた。
「不肖家康、太閤殿下の深謀遠慮に痛く感服仕り申した」
家康は感に堪えない表情である。
「分かればよろしい。わしは耄碌などしとらんぞ。此度の朝鮮渡海は年寄りの世迷い事では無いからの」
「ははあ」
家康と官兵衛は、思はず平伏した。
「さて、大納言殿」
秀吉は、改まった口調になり家康を官職で呼んだ。
「はっ」
家康は辞儀を正した。
「大納言殿には渡海は控えていただく」
「えっ」
家康は驚きを隠さなかった。
「何を仰られる。不肖家康、殿下に臣従を誓った日から殿下に鎧を着ていただかぬ覚悟。犬馬の労は厭いませぬ故、何卒、軍列の端に加えて頂きとうござる」家康は食い入るように秀吉を見上げた。
「此度の唐入りは秀吉の生涯最後の大仕事でござる。わしも五十五、決して若くはない。明征伐の道半ばで斃れるやもしれぬ」
秀吉は淡々と応じた。
「まさか、殿下はまだまだご壮健であらせますぞ」
「家康殿、おべんちゃらは似合いませぬぞ」
秀吉はにやりと笑って言葉を続けた。
「家康殿含め日の本中の軍勢で攻め入れば、明の征服など造作も無かろう。だが、しかし唐入りの最中にイスパニアの軍勢が我が国に不意打ちを仕掛けてきたら誰が迎え撃つ。また、遠征の軍旅でわしが陣没したら天下の形勢乱るるは必定、その乱れた世を抑えるのは誰じゃ」
秀吉は、二人を交互に見詰めた。
「わし亡き後、誰が北条時宗公の代わりが務まるかの。官兵衛、申してみよ。そちか」
「いえ、大納言家康殿しかおりませぬ」
官兵衛は重い口調で答えた。
「官兵衛殿、過分の誉め言葉いたみいる。さて、家康は殿下の臣であればご命令には謹んでお受けいたします。しかし、お受けするにあたり一つだけ願いがござる」
家康は秀吉を見上げた。
「何じゃ」
「殿下にも渡海はお控え願いとうござる。あえて朝鮮の地を踏まずとも、ここ名護屋は朝鮮を指呼出来る位置でござる。また、殿下健在であられる限り国内に不穏が起きれば殿下にこそ指揮を仰ぎとうござる。官兵衛殿、おぬしも同じ思いよのお」家康は、秀吉を見上げつつ官兵衛に視線を送った。
「全くもって、大納言様に同意いたします。殿下、渡海は…」
秀吉は、扇子を振って官兵衛の発言を遮った。
「分かった、分かった。二人の言に従おう。わしの渡海は諦めようぞ。さて、御両所。先ほどの我が戯言、決して他に漏らすでないぞ」
秀吉は、気迫の籠った目で二人を睨み据えた。
「官兵衛、そちはキリシタンであるが、よもや伴天連に漏らしはせぬ。と儂は信ずる」
「ははあ」
官兵衛は、流れる冷や汗に背筋を凍らせ、首に下げた十字架が妙に重く感じた。
穆佐の水田には、田植えを待つ苗が苗代で密集している。
次右衛門は、腰の曲がった父の與一郎と満足そうに微風に揺れる苗床を満足そうに眺めていた。
「良か苗が出来た」
「はい。明日は日柄も良かから、田植えは明日にしもす」
「うむ。そいが良か」
「旦那様―。大事でごわすど」
伍作が畦道をこけつまろびつ叫びながら走ってきた。
「どげんした、伍作」
「陣触れでございもす」
荒れた息の下から、伍作は呻くように答えた。
翌日、次右衛門は城に向かった。
「此度の戦は、太閤殿下の命による唐入りじゃ。儂は七百騎を従えて肥前名護屋に向かうよう仰せつけられた。各々三日で支度せよ」
豊久は佐土原城で集めた将士に落ち着いた口調で告げた。
「義兄者、おいは戦は無ごなったち思うちょった。甘かったの」
城からの帰り、連れ立った次右衛門に平馬は寂しげに語った。
「うむ。思えば父祖の代から戦続きじゃった。島津の殿様が九州を抑え切った時は戦はせんで良くなったち思うたが、上方勢に攻め込まれた。そして、太閤殿下が天下を鎮めた二年前こそいよいよ戦は途絶えたち思うたが、違うたな」
次右衛門も重い口調で返した。
夕餉の席で唐入りの動員が掛ったと次右衛門から聞いた時のあざみは激しく動揺した。
「何ごて、海の向こうまで行って戦をせにゃいかんとでございもすか。太閤様が天下を治めたから戦は無ごなったとじゃなかとですか」
あざみの声は震えている。
「あざみ、難しか事はおいには分からん。おいに言えるのは武家の身であれば、『戦に出よ』ち殿様の下知が下れば戦に出る、それだけじゃ。済まんが堪えよ」
次右衛門は、内心の不安を押し殺してあざみを諭した。
「父上」
十三歳になる辰之助は、来年正月に元服を迎えるつもりだ。
次右衛門は、ふと父を見つめた。
父の與一郎が薩摩との国境の三山へ出陣したのは、自分が辰之助の頃であったことを思い出した。
あの頃、父は伊東氏に仕えており日向に進出して来た島津勢を追い払う為の戦であった。
次右衛門は心細い表情の妻子の顔を見詰め、(父の與一郎もあの出陣前の夜も、自分の不安を押し殺していたのであろうか)、と思った。
「辰之助、儂の留守中はおはんが父の代わりじゃ。爺様と母、弟、妹の面倒をしっかり頼んど」
「はい」
居住まいを正して返事を返す辰之助に、次右衛門は胸が熱くなるのを堪えた。
夜になり、藁茣蓙の寝床で次右衛門はあざみを抱き寄せた。
「あざみ、此度の戦は海の向こうの遠い異国じゃ。いつまで掛かるか見当もつかん。覚悟はしちょってくれ」
「嫌でごわんど」
あざみは次右衛門の胸にしがみついた。
「もちろん簡単には死なんど。じゃっどん、絶対死なんとは言えん」
「絶対に死なんでください。生きて帰って下さい。あたしは嫌でございもす。旦那様が帰って来んとは嫌でございもす」
あざみは、覆い被さった次右衛門の背中に回した腕に力を込めた。互いの温もりが伝わり、二人は気持ちを熱くした。
次右衛門は、食い入るように見上げるあざみを見詰めて胸の奥から闘志が湧き上がるのを感じた。
「あざみ。おまいの言う通りじゃ、おいは死なん。待っちょれ、おいは必ず帰る」
次右衛門はあざみの体を骨も折れよと抱きしめた。
九州の南端に位置し、古くは遣隋使の時代から大陸との繋がりが連綿と続いている薩摩の継承者である島津氏にとっては、大陸への出兵は出来れば避けたいのが本音であった。
三月のいきなりの動員令に驚愕した義久は、明との独自の外交関係の調整におよそ二か月を要した。そして、兄の苦衷を理解する義弘は、肥前名護屋城外郭の島津屋敷で兄の外交政策の結果を辛抱強く待った。
五月になり、ようやく義弘は一万の軍勢を率いて朝鮮半島に上陸したが、その時は小西行長、加藤清正ら諸大名率いる日本軍の華々しい活躍ですでに朝鮮の軍勢は壊滅していた。
ようやく朝鮮半島に拠点を構え、占領地の警備などで無聊をかこっていた義弘を驚愕させる知らせが届いた。なんと、六月十五日に肥後との国境の菱刈を治める家臣の梅北国兼が反乱を起こしたのだ。
義弘は大いに驚愕し大いに激怒した。
乱は周辺の加藤氏や相良氏によってわずか三日で鎮圧された。
がしかし、この反乱はただでさえ遅れ気味の島津氏の参陣に不快に思っていた秀吉をさらに怒らせた。
秀吉は五年前に島津氏が秀吉に降伏した際、それを良しとしなかった三弟の歳久が国兼を唆したと疑った。そして、義久は泣く泣く病躯の歳久を追討し、その首級を差し出し秀吉への詫びとした。
十月になった。
義弘の率いる島津軍の中には豊久の八百の軍勢があり、その中には次右衛門と平馬もいた。
朝鮮半島の中部東岸にある江原道の春川城に、豊久は守将として入城した。
山域を延々と石垣で囲む朝鮮式の山城は、縄張りに工夫を凝らし曲輪を幾つも配して迎撃する日本式の山城とは異なり、防御は外周の石垣上に兵を配置するしかなかった。
「城の日本軍は八百。八百の兵士が石垣にぐるりと配置されれば、その間隔は疎らである。三千の兵士を動員すれば城の奪還は容易ではないか」
朝鮮王朝の部将元豪は、過去に日本軍に苦杯を舐めたが、春川城の麓から城の石垣を見上げて隣で見上げる同格の朴渾に提案した。
「確かにそうだな。しかし、おぬしは何故日本軍の兵力が八百と存じてておられるのか」
「城に出入りして春をひさぐ婢に褒美を与えもうした」
こうして元豪は近隣の農民に兵を募り、報酬と略奪目当ての三千の軍勢を作り上げた。
古来、軍事を蔑む朝鮮人にとって兵法とは書物の上での事であり、戦場の駆け引きは発想がない。
我れが敵より少なければ逃散し、我れが大軍なら攻め掛かる。それが勝利への方策であった。
その日、次右衛門と平馬は城壁に張り付いて外周警戒の任務に就いていた。
晩秋の日差しは頬をじりじりと焼き、額の汗を一陣の西風が冷やした。
石垣の防壁に立っていた平馬は、山城の麓の刈り取りの済んだ棚田をぞろぞろと這い上がってくる軍勢の波に気付いた。
やがて、軍勢は横一列に広がり、かすかに笛や太鼓の音が聞こえてきた。
「敵襲、敵襲」
平馬は、背後に怒鳴った。
石垣近くの小屋に控えていた伝令役の母衣武者は、馬に跳び乗り城中央の建屋に向かって駆けた。
「殿―っ、敵襲でござる」
「狼煙。ほら貝」
城中央の主郭で知らせを聞いた豊久はそれだけを言うと、床几を立ち上がり仁王立ちになった。狼煙は、麓に帯陣している義弘への応援要請である。
近習がすかさず鎧の着付けを始めた。
「総重郎、石垣に近づいたら矢を射かけさせよ。佐久兵衛、外周を急ぎ回りて敵の軍勢がいか程か数えてまいれ」
弓組頭の新槙総重郎と小姓の川口佐久兵衛が風のように飛び出した。
暫くして、湯漬けをかきこみ終った豊久の元へ佐久兵衛が駆け戻った。
「外周の敵勢はおよそ二千。大手門に攻め込む者がおおよそ千、合わせて三千でございもす」
「うむ」
「庄左衛門。牟田神庄左衛門はおらぬか」
家久は父の代から仕える庄左衛門を呼んだ。
「ここに」
白髪赫顔の鉄砲組頭牟田神庄左衛門は左足を軽く引き摺りながら現れ片膝を着いた。
その顔は笑っている。我が身が危地に赴く事に高揚していた。
「庄左衛門、来もした」
「うむ。三千の敵が攻めてきたど。八百の我が兵ではこん城は防ぎきらんち思うが、おはんはどげん思うや」
「殿の言われるごと、城壁を守るには兵が少ね過ぎもすな。撃って出て敵将を狙うが得策でごわんそ」
「おいも同意見じゃ。突撃の陣形で行く。撃って出っとは敵を十分に引き付けっせ門に届く瞬間じゃ。次右衛門と平馬に敵将を撃ち取らせよ」
「畏まりもした」
庄左衛門から指示を受けた次右衛門と平馬は、城の大門の上の櫓に移動した。
城の外周を囲む朝鮮兵は戦意に乏しく、石垣の上から風を切って飛んでくる豊久軍の矢を恐れて容易には近づかなかった。
中には上官に怒鳴られ、あるいは自発的に石垣に取りつこうと梯子を掛ける兵士もいたが、それらは矢に襲われ槍に貫かれた。
しかし、門に攻め込む軍勢は戦意旺盛な者たちで編成されており、後方で奏でる笛や太鼓に士気を鼓舞されじりじりと近づいて来る。
大門の上に構える櫓には、火縄銃が銃列を並べていた。
朝鮮兵には、日本軍の火縄銃は飛ぶ鳥すら落とせる『鳥銃』と恐れられていた。
彼らに城壁から容赦のない弓矢、銃弾が襲い、斃れる者や傷の痛みにのたうつ者もいるが、それでも軍勢はゆっくりと前進を続けている。
次右衛門と平馬は銃を構えて、起こした元目当てで敵将を探しながら距離を測った。
後ろでは庄左衛門が二人を見守っている。
「あの騎馬武者は敵の大将じゃなかかな」
「うむ。二人おるな」
次右衛門は軍勢の背後の鼓笛隊を率いる二人の騎馬武者を発見した。どちらも飾り羽を刺した兜を被っている。
「敵将はあの二人じゃ。あれは朝鮮官軍の武将兜じゃ」
いつの間にか、二人の脇で狭間にしがみついた庄左衛門が嗄れ声で教えた。
「遠かな。四十間(72m)じゃっど」
「しかも、撃ち下ろしじゃな」
「うむ」
実戦での撃ち下ろしは初めてである。次右衛門は、射撃修正量を掴めず当惑した。
「次右衛門、平馬。どちらかが探り撃ちしてはどげんか」
庄左衛門は覗き込んでいた狭間から離れて振り返り、そう提案した。
「承知しもした。平馬、おいは左の騎馬武者を四十間の修正で胴を狙い撃つ。おはんはおいの撃った弾の弾着を見て誤差を直して右の大将を撃ちやい」
「義兄者、良かど。右のやつは必ず当てもんで」
「うむ、やっど」
次右衛門は、元目当ての四十間の修正刻みを騎馬武者の胴に合わせて引き金を引いた。
「バンッ」
銃声が櫓内に響いた。
銃声と同時に、左の騎馬武者元豪の兜の飾りがちぎれ飛んだ。
馬上の元豪は自分の兜を襲った衝撃に驚き、隣の朴渾と目を合わせた。
「平馬、一尺分の下げじゃ」
次右衛門が叫んだ。
「承知」
平馬は右の騎馬武者の鞍に狙いを付けた。
「バンッ」
再び銃声が響いた。
瞬間、どおっと朴渾が落馬した。
朴渾の皮鎧の腹部から間欠泉のように血しぶきが上がるのを元豪は呆然と眺めた。
「殿―、敵の大将を一名斃しましたぞーっ」
庄左衛門は、門の内側で三百の軍勢を率いる豊久に怒鳴った。
「今じゃー、押し出せー」
豊久は馬上で槍を振りかざして、大声を張り上げた。
「うおーっ」
城内すべての兵士たちが唸り声をあげた。
城の門が開けられ、三百の軍勢が繰り出した。
槍兵の陣形が二等返三角形に組まれた。外周は鋭い槍の穂先でびっしりと覆われて、しかもその槍は重層になっているからうかつに近づけない。陣形の中心は豊久が騎乗している。
陣形を崩さないために密集した集団は、素早い行動は無理だが、鉄砲の類のない朝鮮軍に対抗するには有効な戦術であった。
「それ行け、行けっ」
馬上の豊久は、敵の大将を目指して采配を振るった。
朝鮮軍の徴集された多くの兵士の戦争参加の目的は、勝利を収めたのちの略奪である。そのため、彼らは命を惜しまず統制の取れた攻勢をとる日本軍に辟易し、鉾などの与えられた武器を投げ出し逃走する兵士が一人、二人、五人と増えて行った。
「こらーっ、残って戦えーっ」
元豪は声を枯らすが、鉾矢型の陣形に恐れをなして戦闘を放棄する兵士がどんどん増えていく。
しかし、中には真剣に戦う兵士もおり彼らは次第に元豪の元に集まり、数においては遥かに劣る日本軍を遠巻きに包囲を始めた。
鉾矢型陣形は槍兵で構成され、弓隊鉄砲隊は城壁に残っている。
朝鮮軍を一気に蹴散らすつもりで突出した豊久だが、味方の弓、鉄砲の有効射程外で膠着してしまった。
「よし、敵勢は数を減らした。目指すは敵の大将じゃ。皆の者、良かかっ」
豊久は味方に動揺が生まれぬように、落ち着いた声で檄を飛ばした。
「おおーっ」
豊久の檄に鉾矢型の兵たちは鬨の声で応じた。
元豪は豊久の陣形が機敏性に欠けるのを見抜いて、陣形の背後を狙い旋回を指示した。
豊久はそうはさせじと、元豪の旋回に合わせて、鎌首で威嚇する蝮のようにゆっくりと旋回を始めた。朝鮮軍の兵士たちは日本軍を遠巻きにして、その陣形が生き物のように動く様を不気味そうに見守った。
「ひゅーん」
その時、朝鮮軍の背後の山麓方向から怪鳥の鳴き声を立てて一本の矢が飛んできた。
日本古来の鏑矢だった。
豊久、元豪、両方の軍勢が鏑矢の飛んできた方角に目を向けた。
「豊久―っ」
一人の騎馬武者が声を張り上げ、斜面を登ってきた。
騎馬武者は登り勾配を物ともせずに巧みに馬を操りながら上ってくる。
さながら、馬の脚を自らの足のように御している。
「四本足で歩く人のごたる」
豊久は、その見事な乗馬に見とれて呟いた。
「豊久ーっ」
その騎馬武者が自分の名を呼ぶのに、豊久は改めて気づいた。
義弘であった。
義弘にやや遅れて馬首を連ねる二人の騎馬武者がいる。義弘の二人の息子、久保と忠恒であった。山城の麓に駐屯する義弘が敵襲を知らせる狼煙に気付いて、軍勢を率いて駆けつけたのだ。
「伯父上―っ」
豊久は、喉も裂けよと叫び返した。
義久の背後に丸に十文字の幟旗が何十本もひしめきながら続いている。
「わーっ」
やがて斜面一面に広がった義弘の軍勢が、地鳴りのような鬨の声で朝鮮軍を威嚇した。
すると、それまで城壁を囲んでいた朝鮮軍の軍勢が、義弘軍を少数だと判断したのか義弘軍に突進した。
義弘の軍勢が、もう直ぐで朝鮮軍の攻囲勢に弾き飛ばされそうな状況になった。
次の瞬間、突進する朝鮮軍の背後を突く軍勢が現れた。
義弘の別動隊の伊集院忠真の軍勢であった。
忠真は、京の伏見に駐在する父に代わっての出陣であった。
忠真勢は数百の小勢であったが、斜面を駆け上がる攻め方ではなく、一旦城壁の真下へ駆け上がったのち斜面を横方向に突進を開始した。
急勾配を駆け上がった将兵が、息を上げて動きが鈍くなるのを避けての突進である。
駆け上った後に息を整えた軍勢は、激しく朝鮮の攻囲軍を側面から追い立てた。
豊久と忠真の二方向から猛攻してくる日本軍に対し、朝鮮軍の反応は早かった。義弘の率いる軍勢と干戈を交える前に総崩れである。武具を投げ捨てた朝鮮軍の兵士は我先に逃走を開始した。
元豪は自分が気づいた時には、雪崩を打って潰走する軍勢の先頭にいた。
戦闘はあっという間に終わった。
義弘は、近づいた忠真に満足そうに頷いた。
「忠真、見事な助攻じゃった。おはんが攻め掛かる敵を背後から追い払うたから我らの攻勢が効いたど」
「とっさの思いつきごわした。遅れ加減でお詫び申し上げもす」
「いやいや、あれくらい間が空いた方が奇襲の効果が上がる、のう久保」
「まっこと、父上の申される通りでごわす。忠真殿、有難ごわす」
義弘、久保親子の感謝の言葉に深々と頭を下げた忠真は馬首を返して自軍へと戻って行った。
「ちぇっ、父上も兄上も何ごて裏切り者の息子にあげん礼を言われる。先ほどの攻め方も腰が引けて話にならんち思いもすが」
忠恒は去って行く忠真を忌々し気に睨みながら二人に咬みついた。
「そげな事を言ううな。伊集院家は代々我が島津を支えてくれた大事な家じゃっど。おはんは根白坂の戦振りを言うのじゃろうが、大勢の命のやり取りをする戦は齟齬や過ちの連続じゃ、誰にでも失敗はある。家臣の失敗を何時まっでん追及したら、付いて来る者はおらんごとなっど。そもそも忠真は関係無か」
「じゃっどん、忠棟は太閤に取り入って主家を脅かすくらい出世しちょいもすど」
忠恒は、窘める義弘になおも食い下がった。
「あれは、太閤殿下が忠棟の器量を見込んで決められた事じゃ。決して忠棟が太閤に取り入って八万石の領主になったとじゃなかど」
「おいにはそうは見えもはんが」
忠恒は捨て台詞を吐いたが、父と兄はこれ以上は話すだけ無駄かと黙った。
そこへ豊久が近づいて来た。
「伯父上、久保どん、忠恒どん。見事な後詰、忝のうございもす。お陰様で城を持ち応えもした」
「豊久どん、ようやった。おはんの上げた狼煙を見て慌てて手勢を揃えもした」
久保はにこやかに答えた。
「豊久、鉾矢型の陣を組んだか、ようやった。あの陣形は味方が心を一つにせにゃ出来んど。兵共がおはんを心服すればじゃ、父の家久に劣らぬ武将に成ったのお」
五七歳の義弘は急いで登坂して来たのに、息を上げることなく豊久を褒め称えた。
「伯父上、過分のお褒め痛み入りもす。伯父上の木崎原での逆襲の鉾矢型陣、父から何度も聞かされちょりもした。伯父上の勇猛果敢な戦振りには足元にも及びもはん。げんなか〈お恥ずかしい〉」
豊久は面皰を外してにこやかに笑った。
「豊久どん、先ほど朝鮮の武将を鉄砲で撃ち取ったのは誰や」
そう訊ねたのは久保であった。
現当主の義久に男子なく、義弘の息子の久保が島津家の次期当主と目されている。
久保は豊久の三歳下に当たり、弟忠恒はさらに三歳下であった。
「あー、見えちょりもしたか久保どん。敵の大将を仕留めたのは父の代より仕えちょる押川次右衛門と淵脇平馬でごわすど。後で挨拶させもす」
四人は馬首を並べて春川城の城門へ進んだ。
「ふむ。ここじゃな」
義弘は、朝鮮軍の武将の斃れた場所から城の大門を眺めた。
「三十…いや四十間はあっど」
義弘は呆れ顔で呟いた。
「狙って当てたとか、そいともまぐれ当たりか」
義弘は豊久に尋ねた。
「狙ってであろうち、思いもすが。あの者たちは沖田畷で竜造寺隆信の輿を担ぐ足軽も、こんくらい離れて撃ち果たしておりもんで」
「信じられん。神業としか思えんな」
義弘の驚嘆ぶりを見つめる久保と忠恒は、日頃は豪胆な振舞の父を驚愕させる二名の鉄砲武者に興味を覚えた。
戦場に散乱する敵味方の死体の片付け、負傷者の救護などが終わり、義弘主従は城で一晩を過ごして持ち場の山麓陣地へ戻ることなった。
その日の夕刻、島津一族の勝利の宴に次右衛門と平馬が呼ばれた。
「ふむ、このどんぐり弾と起倒式の元目当てがおはんたちの工夫か」
義弘は、どんぐり弾を手に取り、次右衛門の火縄銃の起倒式の元目当てを興味深げに起こして構えてみた。
「大したものよ。この様な工夫を凝らした鉄砲と弾を作れる者は、恐らく日ノ本中を探してもおはんたち以外はおらぬじゃろな」
「伯父上、どげんでごわすか。この工夫を我が島津の鉄砲衆に広めては」
「いや、この工夫は内密にしやい」
義弘は、豊久の提案を即座に却下した。
「この工夫は、鉄砲衆の戦での使い方を変えるくらい恐ろしか工夫じゃ。我が島津の鉄砲を全てこの工夫を取り入れたら、我らの戦は暫くは相当有利に出来っど。じゃっどん、そいも一時のことじゃ、いつかは必ず敵もその工夫を知る。そげんなれば周りの大名も直ぐに真似するじゃろ。そいよっか、この工夫は門外不出の技にして、今日の如く敵の大将を考えられん遠か場所から狙い撃つ。この使い道を続くっとが良か」
「なるほど、伯父上の知恵の深さに敵いもはん」
豊久は深く頷いた。
「良かな。次右衛門に平馬、この工夫は我が家中の者にも教えちゃならんど。敵を欺くにはまず味方からじゃ」
義弘は銃とどんぐり弾を次右衛門に返して、そう言い付けた。
「ははっ、この鉄砲の工夫は誰にも口外いたしもはん」
次右衛門は、義弘を見上げて誓った。
平馬も深く頷いた。
「久保、忠恒。おはん達もこの鉄砲の工夫は誰にも口外ならんど」
「伯父上にもごわすか」
尋ねたのは忠恒であった。伯父上とは義久のことである。
「兄には儂から伝える。おはん等は誰にも言うな。良かな」
久保と忠恒はこくりと頷いた。
さて、後に文禄の役と称される朝鮮戦役の前段は朝鮮の壊滅を恐れた明朝の正規軍が参戦し、日本軍対明・朝鮮連合軍の戦いへと変貌した。
それは明の征服を目的としていた秀吉にとって望ましい展開であり、文禄二年(1593年)一月二六日の漢城北方の碧蹄館の戦いで明軍を徹底的に撃破したことで明側の戦意を大いに削ぐ結果となった。
この大勝利に小西行長、石田三成の二人は講和の機会と解釈した。また明の李如松は何度戦っても勝てる見込みのない日本軍への抗戦意欲を完全に喪失した。こうして、双方の思惑は停戦へと動いた。
停戦交渉が始まると、日本軍は戦線の整理と懸案であった補給難の解消目的で朝鮮半島南部へ部隊を移動した。
義弘と豊久の軍勢も朝鮮半島南に浮かぶ巨済島に向かう事となった。
さて、半島東岸の陣地から南部へ移動する途中で久保は俄かに発熱し、一進一退の病勢を押して騎乗の旅は続いた。
義弘は長い戦陣生活の中で外科術を自得していたが、発熱の病となると打つ手は思いつかなかった。
簡易的な輿を家来に作らせて、それに乗るよう勧めたが久保は頑として騎乗を続けた。
「そこまで悪うはなかひど、父上。それに輿は酔いもす」
久保は無理に笑って騎乗を続けた。
「兄上、大丈夫でごわすか」
忠恒も心配したが、久保は黙って頷いた。
豊久は別の道を進んでおり、忠真はさらに距離を置いて家来を引き連れている。
天正十五年の根白坂の敗戦以来、父の忠棟と島津宗家との間の微妙な距離感は忠真の心に暗い影を落としていた。
忠真は、義弘の二人の息子達、特に忠恒の自分に向ける冷ややかな視線の意味するところは、父の忠棟が根白坂の戦で義久と義弘の窮地を救いに行かなかった事、あげくに天下人の秀吉の直臣となった事への侮蔑が含まれることは十分に理解している。
なので、忠真は朝鮮での戦場においても父と同じ卑怯者、臆病者と謗られぬよう極力前線へ突進した。
しかし、義弘は根白坂で味方の窮地を救いに行かなかった忠棟は忠棟、子の忠真は島津家のために働いてくれればそれで良し、と割り切っており義久も同じ考えであった。忠真を沈着冷静な武将として評価している義弘は、政略的な意味も込めて娘のおしたを嫁がせる積りである。
さて、巨済島の島津勢の中に一人の足軽がいた。名を柏木源藤と言い、沖田畷の戦において敵将竜造寺隆信を撃ち取った川上忠堅の弟の忠兄に仕える若者である。
源藤は平時は家人として川上家の家事をこなし、戦時は印字撃ち(投石兵)の足軽となる。源藤の正確な投石術は足軽仲間に広く伝播し忠兄の耳にも達した。
兄忠堅の沖田畷での体験談に出てくる鉄砲名人の話に興味を抱き続けていた忠兄は、鉄砲も印字撃ちも同じ投射兵器なので、印字撃ち名人の源藤にも鉄砲は上手に撃てるのではないか、と日頃から思っていた。
巨済島の島津陣地の中で、豊久の軍勢が近くに屯していると知った忠兄は、豊久を訪ねた。
豊久は陣幕の張り巡らされた草原に設えられた床几に腰かけて待っていた。
「豊久様におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じ申し上げもす」
「忠兄、おはんの兄上の忠堅には沖田畷で兜首の獲り方をご指南頂いた。あの時の恩は死ぬまで忘れんど」
「これは、過分のお言葉。兄に代わりまして厚く御礼申し上げもす」
「それで、頼ん事ちは何じゃ」
豊久はいつも通り柔和な表情である。
「ははっ、豊久様のご家来衆の中に鉄砲名人がおられる由、兄が折有るごとに口にいたしておりもした」
豊久は、沖田畷での次右衛門と平馬の遠距離狙撃を思い起こした。
豊久は、あの時次右衛門と平馬、そして忠兄の兄である忠堅の見事な連携であっという間に竜造寺隆信の首級を挙げたのを間近で見ていた。
「居るぞ。押川次右衛門と淵脇平馬のことじゃろ」
「さようでござりもす。で、その二人は今は何処に」
「我が陣におる」
「真にごわすか」
喜びの声を上げた忠兄は用件を切り出した。
数日後、豊久の使いが、城外の接収した民家にいた次右衛門と平馬を尋ねた。
「押川次右衛門どんと、淵脇平馬どんはおいやっかな」
平馬は、どんぐり弾を小さなやすりで磨いている最中であった。
次右衛門は、藁茣蓙の中で臥せっていた。久保と同じく巨済島への移動の途中で体調を崩してしまい、島に着いた後も寝込む状態であった。
「おりもすど」
平馬は、磨いていたどんぐり弾を無意識に袖に納めて答えた。
「殿が、お二人に鉄砲指南を望んでおられもす」
「鉄砲指南…、誰にでごわすか」
「維新様ご家来の川上忠兄様のそのまたご家来の印字撃ちでごわんど」
「義兄者、どげんすいや」
平馬は床に臥せている次右衛門に相談した。
「印字撃ちに鉄砲を教える…。大殿は印字撃ちを皆こぞって鉄砲足軽に変えるお積りやろかい」
次右衛門は、寝床から半身を起こした。
「いや、一人でごわす」
使いが答えた。
「一人」
体調の優れぬ次右衛門は、平馬に用件を聞くよう頼むと、起こした身を横たえた。
「川上忠堅様の弟の忠兄様お抱えの足軽に、印字撃ちの名人がおるげな。その者に鉄砲を教ゆごたい、ち忠兄様が殿様に談合されたげな」と、平馬は次右衛門の枕元に近寄って報告した。
「そいで、殿様は儂らに指南せよ、ち使いを寄こされたとか」
「そうじゃげな。どげんするや義兄者」
「どげんもこげんも、殿様の命なら行くしかないやろ。じゃっどん、おいはこのざまじゃ。行くのは平馬一人ではいかんかな」
「お使いの者に、確かめてみっで」
豊久の使者は、二人の申し出に即答は出来ずに一旦は引き返した。しばらくして戻って来た使者は、平馬一人でも構わないとの返事と鉄砲指南の日取りを伝えて来た。
「分かりもした、明後日じゃひな。どれ鉄砲の手入れと弾と火薬を準備せにゃ」
使者とのやり取りを終えた平馬に、帰りかけた使者はくるりと振り向いた。
「おぉ、忘れるとこじゃった。淵脇様は鉄砲は持って来るな、ち殿様は言われちょりもした」
平馬は次右衛門と目を合わせた。
「そうか」
「じゃったな」
春川城での義弘の『二人の鉄砲は秘匿せよ』との厳命を思い出した。
その日、平馬は指定された城外の馬場に足を運んだ。
松の木がまばらに生える野原に、胡坐をかいて海を眺めている男が鉄砲を抱えて背中を見せている。
「おーい。おはんが鉄砲を習いに来た足軽どんか」
平馬が声をかけると、男は素早く立ち上がり振り向いた。
「はい、川上忠兄様に仕える柏木源藤でございもす」
「えっ」
ぺこりと下げた顔を起こした源藤を見て、平馬は驚きの声を上げた。
思わず「義兄者…」と、声を上げるのをぐっと抑えた。
「どげんかされもしたか」
源藤は、驚いた表情で自分を見詰める平馬を訝しんだ。
「え、いや何でもなか」
何でも無い、どころではなかった。
源藤は背格好と言い顔立ちと言い、次右衛門と瓜二つであった。
ただ、物言いの雰囲気が次右衛門の持つ落ち着きがなかったが、それは侍と足軽の違いから来るのか、と平馬は思った。
「源藤どん」
「淵脇様、呼び捨てでお願いしもす」
「うむ。源藤、おはんな何処ん出かな」
「栗野でごわす」
「ふむ、日向に縁者があるか」
「いや、居りもはんが…何か」
平馬は、源藤がもしかして次右衛門の遠縁かと思ったが違うようだった。
「いやいや、何でもなか。では始むかい」
「はい」
源藤は足元の鉄砲を持ち上げた。
「鉄砲の撃ち方を教ゆい前に、おはんの印字撃ちの腕前を見せてくいやい」
「はい。よろしゅございもす」
源藤は鉄砲を野原に置き、地面をきょろきょろ見回しすと、手の平大の石を拾った。頭部に直撃すると無事では済まなそうな大きさである。
「何処に投げればよろしゅごわすか」
「ふむ、あの釘曲がりの松の枝はどげんや、遠かかな」
平馬は十間(18m)ほど先の松を指さした。大きな枝が直角に曲がっている。
「いや、宜しゅございもす。では」
源藤は、右手を後ろに引くとばね仕掛けのように石を投げた。
源藤の投げた石は風切り音を引いて、松の枝の曲がり目に命中した。
腕くらいの太さの枝が、バキッと重々しい音を立てて折れて地面に落ちた。
平馬は息を吞んだ。(これほどの威力で石の投擲が出来るのなら、鉄砲を覚える必要があるのか)、と思った。
「どげんでございもすか」
源藤は上目使いで探るように平馬に尋ねた。
「たまげた。儂も戦場で印字撃ちは仰山見てきたが、おはん程の腕前の印字撃ちは見た事がなか。見事なもんじゃ」
「恐れ入りもす」
源藤は両手を擦り合わせながら笑った。
「印字撃ちでこれ程の腕前なら、申し分のなか戦働きが出来っち思うが、鉄砲を習いたか訳は何や」
「へえ、旦那様がおいに『源藤の印字撃ちの腕なら鉄砲もさぞかし上手く当てがなるやろ。試しに鉄砲を習うちみろ。鉄砲の技を習得すれば、事と次第によっては侍にしても良かど』ち言われもして」
「なるほど。おはんも侍になりたかな」
「へえ、侍になるちゅうことは知行取りになる訳じゃひで。田んぼと畑が持てれば有難えこっで」
(確かに士分になれば反別の大小はあれど農地を手に出来る。尤もな理由だな)、と平馬は思った。
「そいで、おはんな今まで鉄砲を撃った事はあっとや」
「無かひが」
「ふむ、では始むかいな」
「へえ」
平馬は源藤から鉄砲を受け取ると、銃の各部の名称や発射までの手順を説明した。
「そいから、こいが火薬入れで、こいが弾入れじゃ」
平馬が装具類の説明をしていると、袖からどんぐり弾が転がり落ちてきた。
(しもた。殿の使いが来やった時に、うっかり袖に入れたどんぐり弾じゃ)
平馬は、はっとした顔でどんぐり弾を拾い上げた。
「こいも弾でごわすか。見慣れん形じゃひな」
源藤は、平馬の掌で鈍く光るどんぐり弾を興味津々に見詰めて尋ねた。
「こいは…、出来損ないじゃ。鋳型から零れた鉛じゃ」
平馬は平静を装って答えた。
「へえ、出来損ないでごわひか。ぴかぴかして綺麗か。出来損ないなら貰うはなりもはんか」
源藤は、物欲しげである。
「い、いや、呉れはならん。また鋳つぶして丸か弾にすっとじゃ」
平馬はどんぐり弾を、再び袖に収めた。
「そうでごわすか」
源藤は残念そうだった。
平馬は、源藤に構わず射撃準備を始めた。
「そんなら、儂が撃って見せる。構えはこうじゃ」
平馬は立ち撃ちの姿勢を取った。
「おはんが当てた松の枝の幹側を狙うど。こげんして元目当てと先目当てと的に目線に揃えて撃つ。外しても笑うな」
「へえ、勿論でございもす」
「バンッ」
源藤の返答が終わり切らない内に、銃声が響いた。
と同時に、バキッと松の枝が裂ける音がした。
「お見事でございもす」
「うむ。では今度はおはんがやってみやい」
平馬は銃を源藤に渡した。
「ところで、おはんの印字撃ちはどげな風に狙いを付けるとや」
「へえ、目見当で狙いもす。後は石の重さで加減しもす」
「石の重さで加減すっとか…ふーむ、そいでどういう工夫で的に当つっとや」
「へえ、石の重さと腕の力加減、あとは印字を離す時の指の…こう何ち言うか、曲げ加減でございもす」
源藤は受け取った銃を一旦地面に置いて、石を投げる仕草を演じた。
「ふむ。手を止めて済まんな。続けちくれ」
「へえ」
源藤は、教えられた通りに銃腔の清掃、火薬と弾込めを終えて、火蓋を切った。
「淵脇様、先ほどの松の幹を狙うても良かひか」
「うむ、初めて撃つには遠か気がするが、おはんが撃ちたければ撃ちやい」
「へえ」
源藤は引き金を引いた。
バンッ、と銃声が響いた。源藤は少しよろめいた。
松の木には何の変化もなかった。
「やっぱ、初めて撃つには遠いかったな」
「へえ、思うた以上に鉄砲の跳ね返りが来もした」
「そうじゃろ、弓も矢を放った時に反動が少しはあるが、鉄砲の反動は弓の比じゃなかくらい強かで狙いが狂いやすか。それを抑えるのにコツが要るど」
「へえ、分かいもした。もう一回撃ってもよろしゅごわひか」
「良かど。良う狙うて撃てよ」
「へえ」
源藤は、立ち撃ちの姿勢で銃身の先をやや左下に向けると、右肩を軸に斜め上に振り上げながら引き金を引いた。
バンッと言う射撃音とビシッという松の木の命中音がほぼ同時に響いた。
平馬は、息を呑んだ。
「今の撃ち方は」
「へえ、淵脇様の良く狙えち言われたお教えに、印字撃ちのやり方を合わせて試しもした」
銃身を小さく振りながらの撃ち方は、若かりし頃に次右衛門が都於郡城で見せた射撃法と同じであった。
平馬は、次右衛門と瓜二つの源藤の横顔をまじまじと見つめた。
「大したもんじゃ」
平馬は素直に舌を巻いた。
「よし、じゃれば今の松の右奥にある枝が傘んごと広がった松を狙うてみやれ」
「へえ」
源藤は、今度は右から左方向に銃身を振りながら引き金を引いた。
またもや命中した。
平馬は、さらに三回の射撃を命じたが、源藤は悉く命中させた。
「おはんは、まこち鉄砲を撃つのは初めてや」
「へえ、今日が初めてごわひが」
源藤はきょとんとした顔で答えた。
「筒先を振る工夫は何ごて思いついたとや」
「印字撃ちは元来縄を石に括り付けて投げもすが、そん時は縄を引っ張る加減で狙いを合わせもす」
「ふむ」
「鉄砲は、鉛弾がこん筒ん中を通るから筒を振ることで狙うた所へ飛ばせる、ち踏みもした。もしかして間違うちょりもすか」
源藤は探るような目つきで尋ねた。
「いや、鉄砲も印字撃ちも同じこと。要は当たれば良か。いや、当たらにゃいかんとじゃから、おはんはおはんの撃ち方で良かど」
「へえ、有難ございもす」
「では…」
平馬は辺りを見回した。
今まで的にしていた松林の更に遠くにひと際高く聳えている一本松が目についた。
およそ四十間の距離である。
「源藤、あの一本松を狙うてみやい」
「へえ、高さはどこでごわすか」
「うむ、下から最初の枝分かれにしようか」
「へえ、では」
源藤は、銃身を一本松に向けて静止した状態から僅かに銃身を先を下げながら引き金を引いた。
バンッと銃声が鳴り、ビシッと命中音が響いた。
「当たったな、しかし此処からはよう見えん」
平馬は一本松に向かった。源藤も後に続いた。
鉛弾が最初の枝にめり込んでいた。
「当たった。おはんは、生まれついての鉄砲名人じゃ。今のはどげな工夫をしたとか」
「へえ、この遠さじゃっと弾が下がるち思うて筒先を縦に…」
「縦に振り下げて、弾を上向きに飛ばした」平馬は、源藤の言葉を継いだ。
「へえ、ただ思うたより左に一尺ずれもした」
「この距離なら、そん位は外れるのが普通じゃっど。源藤、もうおはんに教えることは何もなか。腕を落とさんように稽古しやい」
「へえ、有難うございもした」
源藤は、対面の時と同じくぺこりと頭を下げた。
「おーい」
その時、遠くから声が聞こえてきた。
二人は声の方角に振り向いた。
近づいてきたのは川上忠兄であった。
「淵脇殿、挨拶が遅れもした。川上忠兄でごわす。此度は我が家来柏木源藤への鉄砲御指南を賜り厚く御礼申し上げもす」
「これはこれは川上様、ご丁寧なご挨拶を頂き忝のうございもす」
初対面の二人は挨拶を交わした。平馬は三十歳、忠兄は二歳上であった。
「淵脇殿、実は本陣より火急の知らせがありもして、駆けつけた次第でごわす」
「はい、何事でございもすか」
「それが、重大事項につき直に貴殿の主から聞いて貰いたか」
「分かいもした。では、拙者はこれにて」
「あっ、お帰りになる前に、どげんでごわすか源藤の鉄砲撃ちは…その使い物にないもひか」
帰りかけた平馬を忠兄は慌てて呼び止めた。
「これはこれは、おいが方こそ迂闊なこっで。川上様、おいが十年以上掛けて会得した射撃の技をこの源藤は僅か数発の射撃で到達しもした。もはや我が技の域にありもすど」
「えっ、おはんのような名人と同格…、いくら何でも度を越えた褒め過ぎではごわはんか」
忠兄は怪訝な顔をした。
「いや、決して褒め過ぎではごわはん。源藤は天性の鉄砲名人でごわす。まっこち柏木源藤は味方で宜しゅごはした。敵にしたらおいでも敵わんかも知れもはん。忠兄様は良かご家来をお持ちでごわす」
平馬は、にこりともせずに答えた。
「ま、まこち、そげな腕前じゃひか」
忠兄は驚いて聞き返した。
源藤は神妙な顔で立っている。
「はい。真でございもす。では」
平馬は頭を下げると、急いで陣屋へ向かった。
陣屋の手前に造成された馬場に、豊久の率いる将兵が参集した。
およそ八百名の将兵を引き連れて渡海した豊久だったが、一年の戦役でおよそ百名が戦病死していた。
残り七百名の将兵を前に豊久は口を開いた。
「戦陣じゃ、身分の大小は問わぬ。皆、近う寄れ」
豊久は、遠巻きに囲む将兵を近くへ寄せた。
「皆の者、この一年慣れぬ異国でよう戦うてくれた。豊久、厚く礼を言う。此度の唐入りの戦じゃが、我が日本軍の勢いに押された明、朝鮮の軍勢はついに降参を言うてきおった。一応、戦は止めじゃ」
豊久は話を一旦止めて将兵を見渡した。
「おおー」
「遂に勝った」
一瞬の間をおいて、どよめきが起きた。
ひとしきりのどよめきが収まると、豊久は両手を挙げて静粛を促した。
「戦は止めたが、明の出方を確かめるために我ら日本軍はこの釜山一帯に暫く在陣する」
「ち言う事は、おいどん達は…」
豊久の傍らの兵がぼそぼそと口を開いた。
「すまんが、暫くは日向には帰れん」
豊久はその兵に語りかけた。
将兵の間に沈鬱な空気が漂った。
「何の、大いに結構でごわす。人間至る処青山あり、朝鮮も住めば都じゃ」
白髪の庄左衛門が沈みかけた空気を打ち消すように発言した。
「庄左衛門様の言わるい通りじゃ。住めば都、住めば都じゃ」
一人の兵が声を上げた。
「じゃあな、くよくよしてんしょうが無か」
誰かが賛意を示した。
「じゃっどじゃっど、朝鮮の酒も食い物も、女子も慣れれば悪うはなかど」
兵の一人がおどけた声を上げた。
「こらっ、おい達は遊びに来たとじゃねど」
庄左衛門がその兵を怒鳴りつけた。
一同がどっと笑った。
「悪か知らせもある」
豊久の重々しい声に、七百名の将兵は再び緊張に包まれた。
「島津の次のご当主と目されちょった久保様が、先日身罷れやった。長らく病に臥せておられたが残念なことじゃ。じゃっで、今夜は喪に服してくれ」
「ははっ」
豊久を囲む将兵は頭を垂れ、合掌した。
合掌し瞑目した平馬は、未だ病床に臥せている次右衛門を思った。
昨年の朝鮮半島への渡海以降、久保や次右衛門に限らず、発熱性の疾患にかかる者が多い。
気候の違い、特に冬場の寒冷は南国生まれの島津兵には耐えがたい寒さであり、気管支の疾患になる者が多かった。
「義兄者、戦が止まったど」
宿舎の病床で平馬は次右衛門に語り掛けた。
「戦が止まった…、そやどげな意味や。日本が勝ったとか」
「おお、おい達が勝ったど。明が降参してきたげな」
「そうか、ついに明が降参したか。確かに戦の度に敵は簡単にひん逃ぐいばっかいじゃったしな」
「おお、ほんなこつ。物足らん敵じゃった」
「ところで平馬、どげんじゃったな川上忠兄様のとこの足軽は鉄砲撃ちになれそうや」
「おお、それがな義兄者、そん柏木源藤は義兄者に似て…」
平馬は、口澱んだ。源藤が次右衛門と瓜二つの風貌であることを話そうと勢い込んだが、心の奥でもう一人の自分が躊躇し黙り込んだ。
「おいに似て、どげんした」
「あ、義兄者に似て、生まれながらの鉄砲撃ちの名人じゃった」
「ほお、そりゃまた」
平馬は藁茣蓙の寝床から身を乗り出して訊いて来る次右衛門に、源藤の射撃の技量を詳しく報告した。