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5.日向根白坂

 戸次川の勝利の翌天正十五年(1587年)三月、豊後方面の守りに就いていた義弘と家久は、小倉から南下してきた大納言秀長の率いる軍勢に圧倒され、豊後と日向を分ける宗太郎峠を越えて日向へと兵を引いた。

 多方面から侵攻されやすい豊後で迎え撃つよりも、思い切って兵を引き海岸沿いしか大軍を進められない日向で撃退しようとの思惑である。

 耳川の戦いで大友軍を崩壊させた島津氏であったが、あっという間に豊後を席巻したわけではない。戦いを左右するのは兵の数だが、その兵士の大集団である軍勢は大量の食糧や物資を必要とする。

 短期間の食料は兵士各自の持参が基本とした当時であったが、戦陣が長引けば兵士の食料を準備するのは大名の役割である。大名が獲得したばかりの領地で、苛烈な収奪を行えば刀槍の類は普通に所持している農民の反発を買い治安の悪化を招くので限度がある。

 また元の領主を追い払っても現地の武将が恭順すれば、その領地で採れるコメを全て取り上げる訳にはいかない。さらに言えば、軍勢の大多数を占める兵士も言わば兵士と農民の兼業である。彼らは農繁期は国元へ帰らねばならないし、戦役の度ごとに自前の食糧を携えて出征する。

 恭順した地侍を配下に加えても同様である。また現地調達は略奪ではなく、売買が基本であった。そのような経緯なので、敵地への侵攻は一足飛びには行かず島津氏は豊後攻めに七年を要した。

 大概の人間は、物事の判断基準は経験を元にする。義久をはじめとする島津兄弟もみな、同じ発想をした。

「上方勢二十万、二手に分かれて片方は十万。十万の兵、ましてや上方の者たちだ。かの者どもにとって九州は僻遠の地である。我らが日向の半ばまで兵を引けば、そこへ至るには三年、早くても二年はかかるじゃろう。その間に我らは高城を要として十万の軍勢でも押し返せる陣を設ける」

 義久は都於郡城に重臣を集め、秀吉軍の迎撃方針を披露した。

「豊後や縣(日向北部)を手放したのは惜しい気もしたが、兄上の建てた策なら確実に上方勢を打ち返しがなっど。要は九年前の耳川の戦を再びやれば良か訳よ。向こうは地理不案内のよそ者、我らに勝てぬ道理はなかど」と、義弘。

「歳久、忠棟は、何か申したかことはなかか」

「肥後方面の備えはどげんしもすか」沈鬱な顔で歳久は尋ねた。「肥後は秀吉への撒き餌じゃ。秀長の軍勢を確実に打ち破れば、九州各地の土豪は再び我らに靡く。そうなれば秀吉の軍勢など雲散霧消じゃ」

「分かり申した」歳久は深く頷いた。

「拙者も殿の御説に従うまで」

 筆頭家老の忠棟もそう述べ、衆議は決まった。

 いざ、戦いが始まれば、前回の耳川合戦と同様に、高城の守りを固くして敵勢を攻城陣形に持ち込む。次に、囮の救援部隊を義久が率いて攻囲軍に攻め掛かり、十分に敵の逆襲勢を引き付けながら偽りの敗走に移る。敗走する囮部隊を追う敵勢が攻囲陣との間に空隙を作った機に、埋伏していた忠棟の軍勢が敵勢を背後から襲う。当然、敵攻囲軍の一部は追撃勢を救援に向かう。

 その時、城方の山田有信勢が撃って出ると同時に、最後まで埋伏していた主力の義弘勢が敵主力を撃砕する。作戦方針は決まり、高城は元の堀をさらに深く掘り、土手を盛り射撃拠点の増設工事に取り掛かった。また、義久、義弘は城の周囲を改めて見分し戦域の想定と作戦の立案を練った。


 さて、予想戦場の整備に今から取り掛かろうとしていた矢先の四月半ばの深夜、都於郡城の義久に耳を疑う知らせが届いた。

「高城が、上方勢に囲まれもした」

「何ちいっ」

 夜陰の寝所で飛び起きた義久は、義弘や主だった重臣を集めた。

「上方勢が高城を囲んだげな。我らは急ぎその囲いを突っ破っせ有信を救出せにゃならん」

 義久は動揺を隠しつつ、ゆっくりと話した。

「上方勢が小倉に上陸したのは先月半ばではなかか。わずか一月でどげんすれば十万の軍勢をここまで動かしがなっとじゃろか」

 義弘は言葉を失った。

 道路網の発達した今日と違い、当時の道路は農地をくねくねと縫うあぜ道と急峻で狭隘な山道の連続である。川には大軍の渡河に叶う橋は無い。

 そのような七十里(280キロ)の杣道を秀長軍はいくら十万の軍勢とはいえ、一旦は島津に服属した豪族たちを帰服させながらひと月で踏破したのだ。

 そもそも、秀長軍が受け持った九州東部は山地が多く、当然ながら大小の河川も多数存在する。単純な移動も楽ではない。さらに軍勢を養う食料も膨大な量だ。当時は兵士一人が一日五合のコメを消費する。十万人では一日で消費するコメはおよそ千五百俵となる。そのひと月分は四万俵を超える。今日の重量換算では二千五百トンとなるが、戦場には食料だけでなく武器や馬匹の餌、陣の構築材、工具などを含めたらその物量は義久、義弘の想像を超えていた。

 島津兄弟や家臣たちには、十万の兵士が膨大な兵站を維持して降って湧いたように目の前に現れたことが理解できなかった。それを可能としたのは、石田三成や小西行長の立案した綿密な兵站計画であり、実行したのは秀吉政権配下の毛利や九鬼、村上水軍による海上輸送であった。個人担送や牛馬の荷駄を基本とする島津軍には発想すら無いこの兵站は、秀吉政権の最大最強の戦略システムであった。

 また、織田信長の立案した傭兵を常備軍兵士として確立した事も軍事力の増強につながっていた。

 それらの情報を持ち合わせていなかった義久は、彼の優れた智謀を発揮しようもなく闇雲に山田有信の守る高城へ救援の兵を進める以外手立てはなかった。

 それでも、知恵を絞った義久は奇襲戦法の一つである夜襲を決断した。

 夜襲は地の利のある側には有利な作戦であるし、義久はさらに島津軍の得意とする伏撃も作戦に加え、その担当を忠棟とした。

 四月十七日の丑の刻(午前2時)、義久、義弘率いる島津軍は四里(16キロ)北方の高城救出の軍勢三万五千を率いて都於郡城を出撃した。十七夜の月はまだ明るい。敵に悟られるのを避けるため、足元を照らす松明は持たずに軍勢は静かに進んだ。

 高城まで、あと半里という地点に根白坂がある。坂といっても道の『坂』ではない。高城を東北方向に臨む台地を下る緩斜面である。斜面一帯には灌木林がある。

 そして、その灌木の中に秀長配下の宮部継潤の率いる鉄砲隊が埋伏しているのを島津勢は知らなかった。継潤は島津勢が通るであろう根白坂の緩斜面を事前に調査して、鉄砲隊の埋伏とその防御のための丸太柵を手早く設置していた。

 島津勢はこの根白坂を駆け下れば、城の手前に広がる小丸川の川原に軍勢を展開できるのだが、その坂は継潤の準備した大掛かりな罠となっていた。

その大掛かりな罠など露ほども疑はなかった義久は、背後の兄弟や武将に目配せし采配を振った。

『ワーっ』と言う大喚声とともに二万の突撃勢は根白坂を駆け下った。

 しかし、それは勝利への喚声とはならなかった。

 宮部継潤は、島津勢が坂を駆け下るのを確認すると右手の采を大きく振って、それまで灌木の中に伏せていた丸太製の柵をひきおこし、島津兵の突入を側面から射撃する体制を整えた。

 二万余の島津勢は、もはや追い込み猟の獲物同然となっていた。

 義久が高城救出軍の集結に要する数日の間は官兵衛も無為に過ごさず、島津軍の侵攻路を予想し迎撃軍の配置と戦術を練り上げていたのだ。

 島津軍は完璧な奇襲のつもりで坂を駆け下ったが、そこには兵力で倍する軍勢が待ち構えていた。島津軍の兵士は継潤率いる大量の鉄砲勢に散々に撃ち込まれ、兵士はバタバタと斃れていった。

 見込み違いの敵方の攻撃に、島津の兵達は驚き慌てふためき、恐れた。

 恐怖心は瞬く間に島津兵を伝播した。多くの兵が槍を捨て、弓を手離し箙を脱いだ。戦意を失った多くの兵が今下ったばかりの坂の上へと逃げ出した。

「引くな、馬鹿たれが」

 組頭の多くが逃げ惑う兵士の襟首をつかんで引き戻している。

 こうなると、敵を罠に誘い込む偽の退却どころではなくなった。

 義久と義弘は、すでに坂を下りきっていた。浮足立っている軍勢の中で、義久は慌てて退却しようとはせず、後続して坂を下る味方の軍勢が下り終わるのを待った。

「兄上、どげんするや」

 互いに馬を降り、身をかがめている義久に義弘は指示を仰いだ。

 秀長軍の大量の発砲音や喚声に負けないよう互いに大声での会話である。

「忠棟が坂を下れば、損失はちっとは減っとじゃが…」

 義久は駆け下ったばかりの坂の上を振り返り、義弘もつられて見上げた。

 退却戦に欠かせぬ反撃勢の発動を期待したのだ。忠棟の率いる反撃勢が坂を下れば、自分たちの退却の時間稼ぎとなってくれる。

 戦慣れした忠棟にも彼ら兄弟の認識は浮かんだはずであった。

だが、その淡い期待は一向に実現しない。組頭たちの制止を振り切って坂の上へ逃げ出す兵は増える一方である。その組頭の中にも兵士同様に逃げ出す者がいた。

 突然、義弘の兜にガンッと不快な金属音とともに衝撃が襲った。

「儂らを狙うちょるな。義弘、おはんの兜の前立てが飛んだど」

 低い姿勢からさらに身を屈めて義久は弟に言うと、義弘は義久の目線の先の我が兜をなぞった。二人のすぐ脇の地面に、ブスブスと銃弾のめり込む音がする。

 島津兄弟を狙ったのは継潤直卒の鉄砲隊だった。二人は、ほの白い月明かりを恨めしく仰いだ。

「頃合い良し。敵勢は総崩れだ、兜首を狙え」

 継潤はそう怒鳴ると、鉄砲隊の銃列体型を変えようと采配を振り上げた、その時。

「ブンッ」と、継潤の直ぐ目の前を熊蜂の羽音が響いた。

「ビシッ」

 鈍い音と強烈な振動が継潤の采配を持つ右手を襲い、継潤はたまらず采配を離した。

 地面に落ちた采配は、柄の半ばから上は一間先に転がっている。

「ブンッ」

と、再び熊蜂の羽音がする。

 銃弾がすぐ脇を通過する擦過音である。

 継潤は、倒れるように地面に伏せた。

「殿っ」

「ガンッ」

 思はず駆け寄った鉄砲組頭の兜を銃弾が撃ち抜いた。

 組頭は糸の切れた人形のように斃れた。

「おのれっ」

 継潤は歯ぎしりをした。あと一歩で島津軍の大将首を獲れるのだが、少しでも身を起こせば我が命が危うい状況である。

「ブンッ」と、再び羽音がする。

 何度聞いても、肝が冷える悪魔の羽ばたきである。

(戦機が過ぎて行く)と継潤はうつ伏せで息を吐いた。

「はあっ」

 継潤は、全身の力を抜いて薄明るい東の空を見上げた。


 一方、坂の上の忠棟は眼下の一方的な味方惨敗に気を飲まれた。

「ど、どげんした…何が起きたとか」

 これまで幾度となく成功を収めてきた島津逆襲戦法が、その端緒に破たんし味方は一方的な虐殺にあっている。

「お味方を救わにゃいかん」

「前へ…」

 と言う言葉が出かかったとき、坂でのさらなる虐殺が始まった。

 坂を引き返し始めた島津勢に向かって、突然、その左右から数十発の銃声が轟音を轟かせた。義弘、義久配下の兵士たちが次々と斃れていく。

 忠棟は、沈みかけた兵士の士気を奮い立たせようと背後の軍勢を振り返った。

その時、「あぁ」とも「わあ」ともつかぬ声が兵士たちから一斉に上がり、その表情は驚愕と恐怖に満ちていた。

 忠棟は背後が明るくなるのを感じ、再び眼下の戦場を見下ろした。

「あっ」

 その光景に、忠棟は声を失った。

 そこは、一面が光の海だった。

 頃合い良しと見た官兵衛が、あらかじめ用意していた数万の松明に点火を命じたのだ。数千数万の松明は、坂の下の島津勢を囲み遠く高城の麓まで続いている。月明かりの薄ぼんやりとした小丸川の両岸のすすき川原を、無数の松明で延々と眩い光の海に変えていた。

(あの光の海へ飛び込まねばならんとか…、正しく飛んで火にいる夏の虫…)

 そんな思いが忠棟の脳裏に浮かんだ。

「坂を下りもすか」

 宿老の一人が忠棟に声をかけた。

「…」

「殿」

 無言の忠棟に、宿老は再度声を掛けた。

(このままでは義久様、義弘様の軍勢が総崩れになる。じゃっどん我が軍勢を敵方へ突進して損ねるよりは、極力温存した方が先々の防衛戦に役立つ…、こげん思うとはおいが怖気づいたとじゃろか…)

 様々な思いが忠棟の頭に浮かび消えた。

「こ、ここで敵を防ぎ、お味方をお救い申す」

 忠棟は引きつった声で命令を発した。

「鉄砲隊、坂の途中の敵鉄砲隊へ撃ちこめ」

 宿老の怒鳴り声に我に返った兵士たちは銃を抱えて散開した。

 こうして、忠棟は根白坂を下らなかった。

 敗走の兵士の群れが、続々と根白坂を両手両足で這うようによじ登ってくる。どの兵士も軍装は乱れ、まともに武器を携えた者は殆どいない。騎馬武者の多くも徒士姿である。

 義久、義弘兄弟も重い足取りで歩いて坂を上ってきた。

 忠棟は馬を降りて、兄弟に辞儀をした。

 義久と義弘は、着崩れ、泥にまみれた鎧姿である。忠棟は出陣前の磨き上げられたままの鎧兜である。

忠棟は、義久、義弘と目線を交わし軽く会釈した。互いに無言である。言葉は交わさずとも、互いの意思は通じている。二人は一人を蔑み哀れみ、一人は二人に対して恥じ入った。

 義弘は忠棟に『死ぬな』と言おうかと、立ち止まった。

 弟の意思を察した義久は、すかさず義弘の肩をたたき首を横に振った。

『死ぬな』は『死ね』と同じである。義久の眼はそう語った。

 こうして忠棟は筆頭家老でありながら、主の島津一族と大きな溝を作ってしまった。そして、その三者の深く暗いわだかまりは忠棟の後継者忠真が死ぬまで残った。

 一方、根白坂の戦の詳細を後に聞いた秀吉は、弟秀長の軍勢に歯向かわなかった忠棟を心にとどめ奇貨とした。

 根白坂で大敗を喫した島津勢はもはや日向に防御線を築く余裕はなく本拠地の薩摩へ退却した。義久、義弘兄弟は豊臣軍の規模の大きさや経済力の自身のそれとの隔絶を遅まきながら嫌というほど思い知らされた。思慮深い義久は、本拠地で徹底抗戦することの無意味さも悟った。

 それを行えば一族は抹殺され家臣は追放され、剝奪された土地は豊臣配下の武将の領地となるまでである。思えば十年の歳月をかけてコツコツとその版図を拡げ続け、ほぼ九州全域を我が物と掴みかけた島津氏だが、元来の領地どころか一族の存続すら危うい状況となってしまった。

 義久は当主のとして一族存続を第一に考えて頭を丸めて出家し竜伯と名を改め、川内の泰平寺で秀吉と会見した。

 会見で、義久は恭順を許され秀吉に薩摩、大隅、そして日向の諸県地方を安堵されたが、豊臣政権との連絡調整役の武将を差し出すよう求められた。

 誰にしようかと思案の義久に、秀吉は口を開いた。

「わしは、忠棟がふさわしいと思うがの」

 秀吉は、義久に付き従って背後に控えている忠棟を扇子で指した。

「えっ」

 竜伯は忠棟を振り仰いだ。

 確かに忠棟は筆頭家老であり、その立場であれば相応しい職ではある。

 しかし、根白坂での敗戦以降、忠棟は極端に口数が少なくなり、義久とは意思の疎通はないに等しい関係になっていた。

 義久に見つめられた忠棟も口を半開きにして驚きを隠さなかった。

「いかがじゃ竜伯」

「ははっ、関白殿下の仰せのままに」

 竜伯は頭を低くし、忠棟も習った。

「さらにじゃ、忠棟の領地は儂が一旦竜伯から召し上げて儂から宛がうが異存はないの」

 秀吉は頭を下げたままの竜伯に畳みかけた。

「異存ござりもはん」

 竜伯は、秀吉に下げた頭を更に低くした。

 こうして、忠棟は島津氏の豊臣政権駐在大使となり秀吉の直臣大名ともなった。


 さて、そのやり取りを窺い知った若者が苦々しい思いに駆られていた。その若者は義弘次男の久保である。久保は長兄が夭折したため、嫡男となり根白坂の戦いでは都於郡城で留守居であった。そのため初陣を飾ることは叶わなかった。

「おのれ、忠棟んワロ〈悪郎〉は根白坂では怖気づいて逃げたかと思ちょったが、さては秀長に調略されちょったな。じゃから坂を下らんかった」

 十五歳の久保はこの時代、自他ともに認める立派な若武者である。

「口を慎まんか、久保。何処に豊臣方の間者がおるか分からんど」

 義弘は久保を叱った。

 泰平寺近くの武家屋敷を義弘親子の宿舎にあてがわれ、親子は一升徳利の芋焼酎を煽っている。

 二人の傍らには、久保の弟で元服前の米菊丸が父と兄のやり取りを聞いていた。その顔は二人の会話の内容を何とか理解しようと真剣である。

「伊集院家は、我らが祖父の忠良公が窮状に陥っても忠義を尽くした家柄じゃ。そいを忘れちゃいかんど」

「忠棟の先祖は忠義に篤い者であったかも知れもはんが、根白坂での腰抜けた振る舞いは忠義の表れとは思いもはんが」

 義弘の戒めに反論する久保の口調は、皮肉たっぷりである。

「言っても甲斐の無かことを口にすんな。久保」

「じゃっどん、父上」

 久保は、盃を置いた。

「何じゃ」

「あの根白坂で、何故豊臣方の追撃は無かったのでごわしょうか」

「そいか。聞くところによると、家久の家来に鉄砲の名人がおるげな」

「左様で。その者が何か」

「いや、一人ではない。二人じゃ」

「二人でごわすか」

「その鉄砲名人の二人が、秀長様麾下の鉄砲方大将の宮部継潤を狙った」

「見事、撃ち倒した訳で」

 今度は、盃を煽った。

「うんにゃ、わざと外したごたる」

「わざと外した…。何故」

「その継潤の気を奪うたのよ。至近弾に気を削がれ我を失うた大将の下では、士卒は死兵同様じゃ」

「では、その鉄砲名人の二人は大将首よりも、敵の軍勢の勢いを止める事を先んじたのでごわすか」

「そのようじゃ」

「ふーむ。そこずい考えっせ狙い撃ちしたとでごわすか。大したもんじゃ、その者共は何ち名でございもすか」

「確か…、押川次右衛門と淵脇平馬」

「押川次右衛門と淵脇平馬。父上、父上から叔父上に話して儂の手元に置きゃないもはんか」

「おいおい、無茶を言うな。その二人の者はそもそもが家久が見出して組下にしたち聞いちょっど。なんぼ、儂が家久の兄じゃからち無理強いは出来ん。諦めよ」

「叔父上の組下でごわすか…」

 久保は、格子の天井を見上げ叔父をうらやんだ。

 米菊丸も三歳上の兄に習って、ぼんやりと天井を見上げ自分なりに父と兄の会話を解釈した。

(伊集院忠棟、根白坂、豊臣家)

 十一歳の米菊丸の脳裏に、それらの単語が自分たち一族に仇なす忌み言葉のように刻まれた。


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