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4.関ヶ原回想

 慶長五年(1600年)九月一五日早朝の関ヶ原、濃霧は日が昇るにつれて晴れて行く。島津義弘は朝もやの中の幾筋もの炊煙を見下ろしながら、供の者の手を借りて鎧を身に着けていた。

「少ねな…」

「何が、でございもすか」と、近習が尋ねた。

(炊事の煙よ。こげんしてみると我が陣の人数の少なかこつ)と、思ったがその言葉が口から飛び出すのをぐっとこらえた。

「いや、何でもなか」

 おおよそ半里(2キロ)四方の草原のそこかしこに、東西に分かれた諸大名の幟旗が林立し炊爨の煙が新たな霧のように立ち上っている。軍勢の多い陣の煙は勢いが盛んであるが、島津の陣のそれはとても少なく薄く思えた。

「はあ」

 近習は、返答に困った。

 軍勢の多寡は勝敗に大きく影響し、寡勢の軍は死傷者が増える傾向にある。だから、これから始まる戦闘において麾下の軍勢に多くの死傷者が出るのは分かり切っている。だが、その愁いを呟いた自分を呪った。

 かつては、九州をほぼ丸ごと手中にした島津氏だが天下を二分するこの戦場に僅か千名の兵しか揃わなかった。それも主だった侍大将は長寿院盛淳、甥の島津豊久、高城の山田有栄、川上忠兄くらい、殆どの兵は自主的に義弘の窮地を救わんがために国元から遥々駆けつけた者ばかりである。

 何故、このような事態になったか。それは昨年、筆頭家老の伊集院忠棟の嫡男忠真が八万石の領地で十二の支城を盾に反乱を起こしたからだ。

 数か月続いた反乱は、徳川家康の仲裁で和解した。それは半年前のことである。敵味方に分かれて戦った者同士が、いくら元は同じ家中とは言え、停戦して半年では蟠りは解けてはいない。

 領国内が情勢不穏な内乱で疲弊した経済状況では、いくら天下分け目の大戦であろうとも大規模動員は無理な話である。

 では何故、忠真は反乱を起こしたか。それは、一昨年の三月に義弘の息子の忠恒が忠真の父忠棟を伏見の島津屋敷にて誅殺したからである。

 島津氏の筆頭家老でありながら、秀吉にも仕える忠棟は義久、義弘兄弟にとっては複雑な存在であった。伊集院家は忠棟の父忠倉の代から義久、義弘兄弟の父である島津貴久の苦難に満ちた生涯を支えた忠臣であった。それ故、島津兄弟への発言も遠慮がなく、父への恩義を思えば兄弟としても無碍には出来なかった。

 義弘は、その忠棟を息子の忠恒が斬殺した理由を物語る十四年前の日々を振り返った。


 島津氏は元亀三年(1572年)の木崎原の戦いで三千の日向伊東氏に三百の寡勢での勝利を皮切りに、九州各地の諸大名との戦いに勝利を重ね、足掛け十三年をかけて九州の完全制覇までもう一歩の段階にこぎつけていた。

 一方、日向の伊東義佑が島津氏の侵略を逃れて庇護を求めた先は、日向の北に位置する豊後の大名大友宗麟であった。

 大友氏はその最盛期は北部九州から長門地方までを支配し、毛利氏と瀬戸内海西部の制海権を争うほどの大大名であった。室町幕府の九州探題職を務めていた宗麟は、鎌倉以来の名門伊東氏を降した島津氏を僥倖に恵まれた格下の田舎豪族と見下していた。

 そして、宗麟にとって義佑に縋りつかれたことは、日向に攻め入る立派な口実とり、田舎侍の島津氏など名将揃いの大友氏には鎧袖一触、と宗麟は戦う前から勝利を決めつけていた。

 義佑を追い出した島津氏を、逆に日向から追い払うことは容易いことと決めていた宗麟であったが、島津氏を追い払った後の日向を義佑にそっくり返すつもりは無論ない。

 南蛮文化と文明に陶酔していた宗麟はキリスト教の洗礼を受け、島津氏を撃退した後の日向にキリスト教の理想郷を作ろうと夢想していた。

 南蛮人の奏でるその楽器の音と旋律に魅了された宗麟は、ポルトガル語のMUSICAの発音から取った『無鹿』という地名を日向の北部に名付け、キリスト教国となる日向の拠点にしようと決めた。

 天正六年(1578年)、宗麟は四万の軍勢を率い島津撃退の軍を日向に進めたが、当の本人はその無鹿の町づくりに取り掛かり、軍勢は百戦錬磨の麾下武将たちに任せていた。

 島津の戦力は我が方の半数との情報から、宗麟は島津軍は戦わずに退却するのではないか、もし戦っても兵力に勝る我が方の勝ちは揺るがないだろうと決めていた。

 さて、最高指揮官不在の大友軍は島津軍の山田有信の守る高城に攻城戦を仕掛けた。

 大友軍はポルトガルから輸入した重さ数百キロの青銅のカートリッジ式大砲に、『国崩し』と名付け、その重量物を海路と陸路を延々と戦場に運び決戦兵器とした。

 『国崩し』は、砲身と別体のカートリッジに砲弾と火薬を装填し、そのカートリッジを砲身にはめ込んで発射する仕組みである。

 次発は、別のカートリッジを事前に準備して差し替える、もしくは初発のカートリッジの発射加熱が冷めてから砲身から取り出して再度火薬と砲丸を再装填、という手順である。

 その威力だが、カートリッジと砲身にはわずかながら間隙があるから発射ガスがそこから漏れる分は威力が減衰される。結果、射程はガス漏れの無い火縄銃より効率が劣り短くなる。

 直径約五センチ、重さ五〇〇グラム程度の弾丸の有効射程は、発射ガスの無効分を差し引くと火縄銃の有効射程一〇〇メートル程度であった。

 大友軍は、日本史上初お目見えの大砲で攻城戦の切り札としたかったが、高城は平山城であり射撃姿勢は仰角となる。その分の重力相殺が、ただでさえ効率の悪い砲弾の威力をさらに減衰させ期待した威力はなかった。

 『国崩し』の発射時の轟音は敵方の肝を冷やしたが、撃ち出す鉄球の弾丸は城壁の手前に着弾して鈍く重い音で地面をえぐるだけで、当然ながら破裂はしない。

 直撃しない限り被害をもたらさず、やがて敵味方が慌ただしく駆け巡る戦場で重さ数百キロの秘密兵器は、移動がままならずに放置され、ついには島津軍に鹵獲されてしまった。

 最高指揮官のいない大友軍は、島津勢の巧みな駆け引きに翻弄されて、後に耳川の戦いと称されたこの戦いで有能な武将を幾人も失い瓦解した。

 こうして、戦う前に勝利を決めつけていた大友宗麟は、思いもせぬ惨敗に理想郷つくりどころではなくなり慌てて本拠地の豊後へと撤退した。

 兵数で勝り秘密兵器まで投入して勝利間違いなしの思い込みが脆くも崩れ去り、日向から亡命してきた伊東氏の二の舞を恐れた宗麟は、自分を頼った伊東義佑のように慌てて頼るよすがを探した。日向の伊東氏は隣国の宗麟を頼ってきたが、宗麟は隣国の竜造寺氏、毛利氏とは領土争いの真最中である。

 また、自分を九州探題に任命した室町将軍足利義昭は、数年前に今は亡き織田信長によって京を追われて毛利に逃れ有名無実の存在となっている。

(そうだ、信長公の後継者である羽柴秀吉公を頼ろう)

 そう思い至った宗麟は、使者を立てるのではなく自身が秀吉の大坂城へ赴いた。 

 このことは、自らが足を運んだ宗麟の必死さを物語り、秀吉としても直接は見知らぬ大名、しかも鎌倉以来の名門である大友氏の当主が直々に自分を頼ってきたのだから気分良からぬはずがない。

 秀吉は、尾張小牧の陣で徳川家康とにらみ合っている最中にもかかわらず、宗麟をわざわざ大坂城に迎えてその窮状に耳を傾けた。秀吉は宗麟を大坂城を自ら案内して回り、そのけた外れの巨城に度肝を抜く宗麟を見て上機嫌になり、秀吉政権の構造なども説明した。

 秀吉は、宗麟の話を自分の得ている九州地方の情報とすり合わせ、弟の秀長や黒田官兵衛などの参謀と九州対策を協議した。

 出した結論は、このままでは二百万石以上になろうかという島津氏は存続させないということに至った。そこで、秀吉は宗麟と義久双方に文書を送り、その領土紛争を止めるよう釘を刺した。宗麟は、待ってましたと素直に従い対島津防衛戦をしている兵を一旦は引いた。

 だが、拡大成長に夢中になっている島津兄弟は、秀吉の存在を完全に見誤っていた。

 天正十三年(1585年)、佐土原城に秀吉の停戦命令を受けた島津兄弟と重臣が集まって、秀吉への対応策が検討された。

 戦名人を自他ともに認める義弘は、自信満々である。

「おい達のご先祖、忠久公はかの頼朝公のご落胤じゃっど。百姓の小せがれの妄言を、何でまともに受け合わんないかんとな。本来の身分から言えば、我が名門島津に指図するなど不遜不敬の極みじゃ。そもそも秀吉は今まさに徳川との戦に手を焼いちょいがな。おいが見立てでは徳川の勝ちじゃっど。もちっとで博多を手に入れがなっ時に、何で戦を止めんなならんな」

 兄弟、重臣の緊急集会の席上、義弘の力説に出席者は皆々目を輝かせて聞き入った。

「おお、じゃっどじゃっど」、と強い同意を示す言葉があちこちから上がった。

「いや、兄上はそう言われるが、おいはそうは思いもはん」

 義弘の発言に賛意を示すざわめきが収まるのを待ち、声を上げたのは弟の歳久だった。

「何ごてか」

 猛将だが、度量の大きい義弘は自分の反対意見にいちいち目くじらは立てない。歳久に穏やかに問いかけた。

「今は戦の世でごわすが、とは言え日本国の中心は京の都。その京の都を抑え、かの織田信長公の跡を継いだに等しい秀吉公が、低き身分より成り上がり大規模な軍勢を率いておる。その才覚から徳川に容易く負けるとは思いもはん。しかし、負けるかもしれん。徳川、羽柴の戦の行方が定まらぬ今、我が島津は上方の趨勢を見極めるまで、兵を止めるが得策ではございもはんか。いずれ、秀吉公、家康公の何れかに形勢傾きもそ、その時に勝った方と誼を結んで島津の進む道を決めればよろしい。今は待つべきと心得もす」

 一瞬静まり返ったその座の空気が、またざわめきだした。そのざわめきを、上座の義久が右手を上げて制した。

「歳久の言、もっともな事。じゃっどん、今や我が薩摩は戦をすれば必ず勝つ。振り返れば、元亀三年に木崎原で三千の伊東勢を義弘は手勢わずか三百で打ち破った。あれから十二年も立ってしもたが、あん時、わしは思うたぞ『戦の勝敗を決するのは、兵の多寡じゃあなか。無論、多いに越したことはなかが、それより事前の準備と必勝の信念じゃ』とな、現に我らのこれまでの戦、耳川、沖田畷、我らは寡勢ながら兵法で敵を打ち破ってきたがな。そいもこいも、我が兄弟一同、各地の武将、日新斎様以降付き従ってきた家臣たちの力あればこそじゃった。我らが今まで出来たことがこれから出来んごとなるとはわしには思えんが、どげんや歳久」

 弟二人の意見を黙って聞いていた義久の口調に嫌味はない。賢人の誉れ高い義久の統率のもと、彼ら兄弟の仲は良い。

 しかし、歳久は義久の単純明快な論旨に素直に賛同は出来ない。

(確かに、秀吉は家康との長陣に手こずってはいる、しかし負けてはいないのだ。持久戦は兵力はもちろんだが、地の利と富の力が勝敗を左右する。

 地の利は、国家中枢の京を抑える秀吉にある。富も従う大名の石高や国際貿易港の堺を有する秀吉にある。つまり、勝負はついている戦をしている。そのことを、秀吉はもちろん家康とて分かって陣を構えているのではないか。)

 はっと、歳久は天を仰いだ。

(秀吉の狙いは、勝ち負けではなか、家康の屈服を待っちょっとじゃ)

 周りを見渡すと興奮収まらぬ出席者の中で自分一人しか、その一点に思い至るものはいないようだった。歳久は寂しげに首を左右に振った。

 義久は経験則で発言し、歳久は客観性を重視した。

 これまで犠牲も大きかったが、日向の伊東氏、豊後の大友氏、肥前の竜造寺氏、肥後の阿蘇氏等々、ことごとく打ち破ってきた勢いに兄弟、重臣の全てが自らの実力に酔いしれていた。歳久の論理に同調する者はいなかった。

「恐れながら」

 声の主は、家老筆頭の伊集院忠棟だった。

「忠棟、如何した」

「拙者義、歳久様の先ほどのお発言、また殿のお言葉によくよく思いを馳せ申した。じゃっどん…」

「じゃっどん…、何じゃ」

「じゃっどん、歳久さまのお言葉こそが道理に叶うち存じもす」

 俯き加減の忠棟は、顔を上げて義久を見つめた。

「何ちや」

 義久は、当主である自分の考えに反対する、と明確に言明した忠棟に驚き言葉を失った。

「拙者は手慰みに歌詠みをいたしもすが、その伝手で京の都にも幾人かの同好の士、師匠筋がございもす。その方々との便りのやり取りも幾つかございもす。方々の伝では、秀吉公の指揮能うる兵力、三十万との由」

「何じゃっち」

「三十万…、まさか」

 忠棟のもたらす新情報に、一座はざわついた。

「秀吉公は京大坂、北陸、四国を抑えもしたが、京の押さえと徳川への備えに十万は必要でごわんそ。じゃっどん、残り二十万が我が方へ攻め掛かればまともに太刀打ちできもすかな」

 一座は静まり返った。

(島津の総力では、どげん頑張ってん三万から四万が精々)

 義久は、黙考した。

(兵力差が隔絶しちょっな。今ずいの勝ち戦んごと兵法で勝ちを得るのは無理じゃなかかな)と。

「待っちゃんせ」

 沈黙を破って、義弘が立ち上がった。

「忠棟の話は、真実じゃかも知れん…」

 義弘は、一呼吸置いた。

「兄上が申されたが、今を去ること十二年前。飯野において我が手勢三百は伊東方三千の敵兵を散々に打ち破っせ三里向こうの三山まで追いやった。三百で三千を打ち破ったのじゃ、島津の精兵三万で二十万を打ち破れぬと、決めつけるのは如何じゃろかい。ましてや対するは上方の弱卒じゃ、今ずい戦うてきた日向や豊後の兵より士気は劣るち、わしは見る。勝っがなっど。上方勢など所詮は烏合の衆じゃ、恐れるに足らぬ。どげんじゃ、兄上、皆の衆」

 沈みかけた空気が一気に明るくなった。義弘の反論の内容は論理的とは言い難いが、薩摩人は辛気臭い発想は嫌いである。陽気で景気の良い話に染まるのが好きだ。

「そうじゃな、忠棟どんの言わるっとももっともな話じゃが、慎重に当たれば勝てぬ相手とはわしも思いもはん」

 今まで発言しなかった末弟の家久の言葉が、論争の集約を見た。

「どげんじゃ、歳久、忠棟。おぬしらの意見はもっともじゃ、じゃっどん上方勢を追い払うのは難儀はあろうが、出来ぬ事とはわしは思わぬが」

 義久は諭すように言った。

 一座は、再び沈黙した。

「兄上がそげん仰るのであれば、わしも喜んで戦場で散るまで」

 歳久が、沈黙を破りさっぱりとした口調で答えた。

「そうか、分かっちくれたか歳久、礼を言うぞ。忠棟は如何じゃ」

「拙者も、殿のご一存に従うまででごわひど」と、忠棟も澱みなく答えた。

「良う申してくれた、忠棟」

 歳久、忠棟以外は、意気衝天の集団陶酔状態である。その陶酔の海に、当主の義久も溺れていた。

「皆に申し渡す。豊後攻めは続くっど。秀吉の申し状は無視する」

 義久は、立ち上がり高らかに宣言した。

 こうして、秀吉の警告を無視して足掛け二年間は破竹の進撃を続けた島津氏だったが、天正十四年(1586年)暮れに豊後の戸次川で秀吉派遣の軍勢を迎撃することとなる。

 同年、秀吉は、対徳川戦で家康と和議を結び、いよいよ本格的政権の樹立を終えると、再度拝謁した宗麟へ急ぎ遠征軍を派遣すると約束した。配下の仙谷秀久に、長曾我部元親、信親親子、宗麟の嫡子義統、十河在保が従い二万の軍勢は瀬戸内海を渡り、豊後の戸次川に布陣した。

 迎える家久率いる島津軍一万は倍する敵軍に臆することなく、得意の釣り野伏せ戦法で秀吉派遣の仙谷秀久軍を完膚なきまでに撃破した。

 緒戦で島津軍得意の偽装退却に釣られて勝利に逸る秀久は暴走し、島津得意の逆襲戦法に殲滅されたのだ。その結果、秀吉派遣軍は長曾我部信親、十河在保という二人の大名を戦死させてしまった。

「秀吉、何するものぞ」

 その勝利の宴で、意気軒高の陶酔の海に溺れ声高に叫んだ自分を、義弘は苦々しく振り返り朝もやの関ヶ原へ意識を引き戻した。

 あの勝ち戦が、島津氏の瓦解を招いたのだ。

「勝った、勝った。上方勢を打っ払うた。話にならぬ弱兵ぞろいじゃ。やっぱ我らは無敵じゃっど」

 戸次川での勝利を祝う臼杵城での宴で、普段は口数の少ない家久すら興奮していた。

 耳川で戦う前の大友軍に似た、勝ち誇った空気が島津兄弟と家臣一同に漂った。

「兄上、あの秀吉の停戦命令に従うか黙殺かは、話し合うまでもなかったのお。家久も沖田畷に続きまたもや大軍を打ち破った。島津の名を一段と上げたぞ」と、義弘。

「うむ、我が島津の本領を発揮した見事な戦ぶりじゃった。あのように見事に打ち負かされては上方勢もしばらくは手を出せんじゃろ」

 普段は感情の起伏を人前では見せない義久が、上気を抑えきれぬ顔で答えた。

 ところが、秀吉にとっては初めて派遣した遠征軍が完敗したのだから、敵にも味方にも猛烈に怒った。

 秀吉は、これから天下に覇権を広げようとする矢先に、最初の派遣軍が脆くも撃破されてしまい事の重大さに沈思した。この秀吉軍の遠征は、家康の臣従を待ちかねて即座に発動したのだが、その無様な敗戦と島津軍の戦巧者ぶりに秀吉は頭を抱えた。

(毛利氏を服属させ、次に我が妹や母親を人質にしてまで家康を臣従させたが、これから先は島津、次は東に転じて小田原北条、さらには奥州伊達と名だたる大名を屈服させねば念願の天下統一にはならないのだ。その端緒の遠征で惨敗したことは看過できない)

 そう思った秀吉は、直ぐに次の遠征軍を仕立てて完膚なきまでに島津氏を打ち破らないと、以降の地方大名撃破計画は不可能に、いや政権自体が存続の危機に陥る、と焦った。

 焦燥に駆られた秀吉が、官兵衛や秀長と相談して出した結論は島津氏の短期徹底撃破であった。

 秀吉は、自らの出自を蔑視しているであろう島津や北条、伊達に対して講和はあり得ないと結論付けていた。力で抑え込んで屈服させねばならないし、それを可能にする財力も軍事力も個人的資質も備えている。その自負があればこそ、戸次川での敗戦は受け入れられる結果ではなかった。

(おのれ、島津め。滅ぼしてくれようぞ)

 と、経済官僚筆頭の石田三成に島津征伐への戦略物資備蓄を命じたのは、戸次川敗戦の数日後であり、三成は三カ月で二十万の軍勢が一年に渡って行動できる食料や軍事物資を集積してしまった。また、それらを戦地まで運ぶ馬匹や水運の手配も綿密を極めた。

 戸次川合戦の三月後には秀吉は小倉に上陸し、弟の秀長、参謀格の黒田官兵衛らと談義を重ねた。

「島津の戦ぶりは、木崎原、耳川、沖田畷、そして戸次川、何れもが寡兵でありながら、多勢を頼む敵を伏撃で打ち破っております」

 官兵衛は、島津軍の戦法の分析結果を報告した。

「言わば、信長公の田楽狭間の戦ぶりを何度も重ねておるに等しいのか」

「田楽狭間の勝利は僥倖に近うございますが、島津の家中には孫子に詳しいものがおるやもしれませぬな。緒戦を敵に勝たせて勢いに乗る敵を誘い出し、埋伏した味方に逆襲させて勝利した戦が目立ちまする」

 秀長の問いかけに、官兵衛は答えた。

「なるほどの、埋伏の計か。理屈では容易いが、わざと敗走するのはそう容易いことではないわの。兵に怖気が付いたら本当に敗走するものじゃ。しかも、埋伏する兵も肝が据わらねば務まらぬ」

 秀吉はまばらな顎髭を撫でながら語った。

「御意」

「では、島津退治はどう手立てするんじゃ」

 秀吉は詰まらなさげに問いかけた。

「策は無用でござる」

「無用…」

 秀吉は横目で官兵衛を見た。

「九州の東西それぞれの街道を、殿下と大納言秀長様、それぞれ十万の軍勢が下れば事は終わる。殿下は左様お考えでは」

「うむ、官兵衛には敵わぬのう」

 秀吉は、律儀に見詰める官兵衛ににやりと笑って言葉を続けた。

「大勢で小勢を囲む、それ以上の上策は無いわの。わしは西を下るぞ。成政に肥後を宛がう積もりゆえ、その見分を兼ねようぞ」

 成政とは、佐々成政である。秀吉が信長公に仕え始めた頃、すでに信長の母衣武者を務めていたエリートであり、藤吉郎時代の秀吉には口もきけない見上げる存在であった。

 その当時の身分関係が見る見る逆転していった現実を受け入れられなかった成政は、北陸の大名に取り立ててくれた秀吉に歯向かい、返り討ちにあって領地を棒に振った。

 それでも、成政に再びチャンスを与えようとする秀吉には、家康のように地縁血縁の譜代の家臣を持たぬ自分の家来を何としても増やしたい切実な事情があった。

「小一郎は、日向路を行け。油断すな。無理すなよ。薩人は奇策が上手い故」

 秀吉は、自分と違い大柄で実直な弟を頼もしく見つめた。

「お任せ下され」

 秀長は、秀吉にかしこまって頭を下げた。


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