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3.沖田畷

 さて、都於郡城で一夜を過ごした次右衛門は、平馬を連れて穆佐の我が家に連れて行った。

平馬は佐土原島津家に仕官は叶ったが、落ち着き先が決まるまでは次右衛門の屋敷の一角に寝泊まりすることと二人は決めた。

 一泊した翌日、二人は綾の鍜治場へと連れ立った。

「おぉ、これがあの堀川国広殿の鍜治場でごわすか。玉鋼もこげん残っちょる。たたらの向きも場所も使い勝手が良かろな。水は、この川から汲めば良か訳じゃな」

 平馬は目を輝かせて鍜治場を見回している。

「どげんや、良か鍜治場じゃろう。国広様が工夫を凝らして作られた鍜治場じゃから、物凄う動きやすか。お師匠様が国を出られ兄弟子たちもいなくなり、正直おい一人では鉄砲の工夫どころか鉄を打つことも出来ん。じゃっどん、平馬と二人なら思い通りに鉄を打てる。この本庄川の源流は山が深けから、年中水が豊富じゃ」

 次右衛門は説明に熱がこもった。

「兄上、まるで自分でこの鍜治場をこさえたような物言いじゃひな」

 二人がその声に振り向くと、次右衛門のすぐ下の妹のなつが筒袖姿で鍜治場の脇の河原に立っている。さらには、なつの下の弟小次郎、まき、そしてあざみの姿もあった。

「えっ…なつ、いつの間に。そいに、お前は一人でここまで来たとか。危なかど」

「何を言われもすか。なつは気の利かん兄に代わっておまき様とあざみ様を連れて来もした。そいに私は一人じゃございもはんど」

 なつが小次郎を見やると、小次郎は腰の小脇差を左手で叩いた。

「兄上、なつ姉には小次郎がついちょりもす」

前髪姿の弟は真剣な顔である。

「次右衛門。島津様への仕官はいかがでござりもしたか」

「内方様。ここの淵脇平馬殿ともども仕官は叶いもした」

 平馬は、にこっと笑うとまきに一礼した。

「淵脇平馬にございもす」

「まきでござります。これは娘のあざみでございもす」

 まきも頭を下げた。

 平馬はあざみの可憐な佇まいに見とれた。

「平馬様、あざみ様は手遅れでございもすど」

 なつがすかさず平馬にちゃちゃを入れた。

「手遅れ…」

「あざみ様は、お前様の隣ののんき者が我が嫁女にするお積り」

 平馬は次右衛門を振り向いた。

「こら、なつ、兄をおちょくる〈からかう〉な」

 次右衛門は、幼少期から兄の自分に遠慮のない妹を叱った。

「そいに、平馬様にはあたしがおりもすど」

 次右衛門が、そして平馬が気を抜かれた表情になった。

 さて、一旦は次右衛門の物となりかけた鍜治場は平馬が譲り受ける形となり、しばらくして次右衛門はあざみを嫁に迎え、なつは平馬に嫁いだ。

 おまきは、平馬夫婦と血は繋がらない義理親子となった。


 その頃、豊臣秀吉は織田信長の命で中国の毛利氏を攻め、信長を暗殺した明智光秀討伐、そして柴田勝家と信長の後継者争いの真最中であり、戦国の世は未だ渾沌としていた。

 義久は、家久の日向統治が落ち着くのを六年待ってから肥後方面の攻略を開始した。

島津氏は伊東氏を追い出して九州東側の日向を手中に収め、豊後の大友氏を撃破したが、今度の進出方向は九州西側である。

 九州はその中心線を九州山地が南北に貫き、南端は錦江湾を挟んで西には薩摩国、東には大隅国がある。九州中央の東に位置する日向は大友氏を破った島津氏の領地となったが、九州の西側には竜造寺氏が覇権を握る肥前、肥後がある。

 竜造寺隆信は小さな国人領主の子として生まれて出家や還俗、生家の滅亡や命の危険を何度も切り抜け、一代で肥前の国主となった梟雄である。

 隆信はその生い立ちからか、疑い深くて人を出し抜き裏切ることに長けていた。

 耳川で大敗した大友氏の窮地を好機と見た隆信は、空かさず付け入ってその領地を蚕食し、次に肥後へ侵攻を開始した。隆信の動員兵力に敵わぬと見た肥後の国人領主は次々に隆信の麾下に付いたが、そうなると、島原半島の小大名有馬晴信は北の隆信に降るか南の島津氏を頼るかの選択をしなければならない。

 そして、晴信は猜疑心の強い隆信を嫌い島津氏に救援を求めた。

 晴信からの救援要請を受けた義久であるが、肥後方面でにらみ合いの最中の竜造寺勢への抑えに義久、義弘の率いる主力を配置しているため手一杯である。肥後南部の相良氏を始めとする国人領主を服属させたばかりなので、主力から兵を引き抜けば彼らに動揺を招きかねない。

 義久としては、竜造寺隆信の主力が島原を南下するのか、それとも肥後方面への攻勢を強めるのか分からないが、晴信に救いを求められれば助けに行かない訳にはいかない。

 そこで、義久は日向での地盤固めを終えた家久へ有馬氏救援を命じた。

次右衛門と平馬は、それぞれ身を固めて六年が過ぎていた。

 小さいながらも家の当主となった次右衛門は地所田畑の管理に追われ、家久の差配する領内の城勤めも果たさねばならない。そうなると、かねてからの思いである鉄砲の改良も遅々として進まなかった。

 綾で鍜治場を復活した平馬も次右衛門と同じような状況であった。

 鉄砲鍛冶であるため、家久差配の鉄砲衆の所持する鉄砲、刀剣類の修理は当然であるが、近隣の百姓衆が申し訳なさそうに持ち込む鍬や鋤、欠けた鍋や包丁の修理も穀物や獣肉と引き換えに笑顔で引き受けている。

 その働きぶりを妻のなつは大きなおなかを抱え、幼児を背負い笑顔で支えている。

 そんなある日、次右衛門は裏山に設えたお手製の射撃場で久しぶりに火縄銃の射撃練習を始めた。

 父に家督と鉄砲を譲られてから七年が過ぎていた。父から譲り受けた火縄銃は、着弾が僅かに左に逸れる癖は如何ともしようがなかったが、ついに平馬の手で新しい銃が出来上がった。

 その銃は、平馬の工夫で銃身を一寸伸ばし、かつ重心が前に偏らないよう銃口付近の肉厚は薄く仕上げられた。その銃の試し撃ちである。

 三十間(54m)先の的板には直径五寸(15㎝)の黒丸が描かれている。

Y字型の枝を地面に突き刺して銃身を乗せ、的板の黒丸に狙いを定めゆっくりと引き金を引いた。

「ばんっ」

 銃声が響いた。

 次右衛門は的板まで歩いて着弾位置を確認した。的板の黒丸の下に鉛弾がめり込んでいた。それを確認した次右衛門は、射撃位置に戻り先ほどと同様に黒丸に狙いを付け銃を発射した。確認すると、やはり黒丸の下に着弾している。

 結局、五度の射撃の結果の全てが左右一尺の範囲で黒丸の下方に着弾していた。

浮かぬ顔の次右衛門は射撃位置に戻り、もう一度射撃姿勢を取った。

 それまでと同じく元目当てと先目当てを視線に重ねて、さらにその先に的の黒丸を重ねた。先ほどまでと狙いは変わらない。

「あっ」

 次右衛門の頭に何かが閃いた。

 次右衛門は火縄を外して鉄砲を足元に置くと、手近の小石を拾った。その石を、的めがけてなるべく水平に飛ぶよう力を込めて投げた。

 小石は最初は一直線に飛んで行くが、すぐに緩やかな下降線を引いて草むらに落ちて行った。

 それを確認した次右衛門は、再び銃を取り上げて構え今度は黒丸の少し上目の位置を狙って引き金を引いた。

「ばんっ」

銃声が響き、的板に着弾した。

 急ぎ足で的を確認した。

 今度は、黒丸の中心に着弾していた。

 次右衛門は射撃位置に戻り、再び足元の小石を斜め上方向に投げた。小石は先ほどの落下地点よりは遠くの草むらに落ちて行った。

 また、小石を投げた。

「義兄者―」

 七度目に小石を放った次右衛門は、声のする方へ振り向いた。

 平馬がにこやかに笑っている。

「干し鮎がずばっ出来たで、持って来たど」

 平馬は、懐から二尾の干し鮎を取り出し一つを次右衛門に渡した。

「三十匹くらいは、さっきあざみ様に」

「そりゃ、忝けなか」

 次右衛門は礼を言い、干し鮎を頭からかじった。

「ところで、義兄者はさっきから何ごっな。鉄砲が思うごと当たらんから印字撃ち(投石手)に宗旨替えでごわすか」

 平馬は笑顔で尋ねた。

「じゃねど」

 次右衛門は平馬につられてにやりとしたが、すぐに真顔に戻った。

「良かな、平馬。こげんして小石を真っすぐ投げても、小石はやがて地べたに落ちる」

 次右衛門は、足元の小石を拾って投げて見せた。

「そいがどげんしやった」

「どれだけ、力を入れて真っすぐ投げてん…小石は地べたに落ちる」

「そりゃそうじゃな」

「何ごてかな…」

「そや、義兄者どん。何の物でん空に投げれば地べたに落ちるからな」

「じゃよな。平馬、一緒き行って的を見てくいやい」

 次右衛門は平馬を誘って、三十間先の的まで移動した。

「平馬、こいを見てくいやい。この黒丸の下の五発は確かにこの黒丸を狙うた。五発ともじゃ」

「うむ。この黒丸を狙うたとじゃひか…」

 平馬は黒丸の下位置の五発の弾着を見つめた。

「そして、この黒丸に当たった弾は黒丸の上を狙うた」

 次右衛門は、黒丸に着弾した跡を指で示した。

「あっ」

 平馬は、目を丸くして次右衛門を見つめた。

「おはんも分かったな…」

「分かいもした」

「小石も鉄砲の弾も同じことじゃ。どしこ遠くへ飛んでん段々と地べたに近づいてやがて落ちていく。それを言いたかとじゃな、義兄者は」

「じゃっど、平馬」

 次右衛門はそう言うと、また干し鮎をかじった。

 射撃位置に戻りながら、二人は話し込んだ。

「じゃから、三十間先は狙いを高うせんにゃ的には当たらん。しかし、筒先を上げると的が筒先に隠れて見えんとよなあ…。さっきの黒丸に当てた弾は黒丸を狙ってから上向きに狙いを上げて、目線から黒丸が消えた時に撃った。それは前もって弾の落ち加減が分かっちょるから出来た。じゃっどん、戦場ではどん位上を狙えば良かか確かめようがなかど」

 次右衛門は、実際に銃を手に取って的を狙いながら呟いた。

「そうじゃな。的が見えんと狙えんから元も子も無かな」

 今度は、平馬が銃を借りて狙ってみた。

「あっ」

 銃を狙いながら、平馬は声を上げた。

「どげんした、平馬」

「的は狙ったまま元目当てを下げれば、弾は上向きに飛ぶで狙いより上に当たっとじゃねかひか」

「おおー、そうじゃなあ。じゃっどん…その元目当ての下げ加減はどげんするや」

「元目当てを、仮に一寸、いや二寸(5㎝)高うして…」

 平馬は顎に手を当てて思案した。

「元目当てを高うしてか…、あー分かった。その元目当てを高うした鉄砲を撃って、的の離れ具合でどの位鉄砲の手元側を下げれば良かか確かめて、元目当てに刻みを入れれば良かとじゃ」

 次右衛門は、平馬と目を合わせ興奮して声を上げた。

「うむ、待てよ」

「義兄者、まだ何か合点が行きもはんか」

「平馬、元目当てが高さ二寸ち言うのは鉄砲の扱いには、邪魔じゃなかかな」

 平馬は、銃を左手に持つと元目当ての横に右手の人差し指を立てて見た。

「確かに、邪魔じゃな。そいに何かの拍子に折れるかも知れん」

 平馬は、人差し指を倒してそう言った。

「困ったな…。遠くの的に当てる工面が出来たち思うたとに」

 次右衛門は、途方に暮れた顔で空を見上げた。

 平馬は、黙って元目当ての脇の人差し指を立てたり倒したりを繰り返した。

「これじゃ、義兄どん。元目当てを立てたり寝かしたりすれば良か。使わん時は寝かしちょって、いざと言う時には起こせば良か訳じゃ」

「そげな事が出来っとな」

「儂は、鉄砲鍛冶の名人じゃっど義兄者。わははは」

 平馬は豪快に笑って次右衛門の肩を叩いた。


 数日後、平馬は起倒式の元目当てを付けた次右衛門の銃を持って次右衛門を訪ねた。

「義兄者―、出来たど」

 田植えの準備で苗床に種籾を播いていた次右衛門に、畦道の上から平馬が声を上げた。

 両手で次右衛門と平馬のそれぞれの火縄銃を掲げて笑っている。

 次右衛門は、種籾の入った桶を家人頭の伍作に預けて用水路で手を洗った。

「おう、とうとう出来たや、どれどれ」

 平馬は、右手に掴んだ火縄銃をぐいっと次右衛門に差しだした。

 起倒式の元目当ては根元に小さな穴が穿たれて差し込まれた鉄の軸で銃身に固定されていた。

 元目当ては前向きに倒されているが、その状態では中心の三角の突起が先目当てと重なる工夫があった。

 次右衛門は元目当てを起こしてみた。カチリと音がして根元が銃身に掘られた溝に篏合して固定した。

「元目当ての根元を斜めにして、銃身もそれに合わせて削ったとじゃひど。ぐらつきはせんやろ」

「うむ、がっちり噛みこんじょる。起こしてん倒してんぐらつかん。良かな」

 次右衛門は射撃姿勢を取って、起倒式の元目当てを起こして動作の確実さに感心した。

「うむ…」

 次右衛門は起こした元目当てを改めて見つめて、もの言いたげに平馬を振り返った。

「どげんかしやったな」

「平馬、距離を合わせる刻みがなかど」

 傷一つない元目当てを触って次右衛門はそう言った。

「義兄者、兄さんも気が早えな。そいは兄さんとおいで今から始むっど」

 平馬は懐から小さな鏨と金槌を出して見せて笑った。

「あ、そうか。そら、おいの気が早かった」

 次右衛門は、苦笑して頭をかいた。

「伍作、後を頼んど」

「へい」

 次右衛門は伍作に後の農作業を託した。

 二人は次右衛門の射撃場に移動した。

「さて、まずは的までの離れ具合を測らにゃいかんよな」

 次右衛門は、徐に平馬特製の元目当てを起こして銃を構えた。

「義兄者、おいは考えたのじゃが…」

「うむ」

「まずは元目当ての右側に、二十間(36m)先、三十間(54m)先、四十間(72m)先の人の高さを刻む。それで的までの離れ具合がわかる」

「なるほど」

「次に元目当ての左側に、二十間先三十間先四十間先の弾の落ち具合を刻む。そん両脇の刻みを線で繋ぐ」

「おー、そいなら右の刻みで的が何間先か分かって、左の刻みで元目当ての下げ具合がわかるちゅう訳か…」

「どげんじゃな」

「名案じゃ。そいで行こう」

 次右衛門は構えた銃を下ろして笑った。

 さっそく、二人は距離の測定と弾着の落下具合を元目当てに刻む作業を始めた。

 数日が過ぎた。

 出陣の陣触れが来た。

 背中に十文字の旗指物をして全身に泥を浴びた騎馬の伝令が、土埃と汗にまみれた顔で屋敷の木戸口で大声でがなり立てた。

「陣触れでごわす。仔細は地頭屋敷の高札を読まれよ」

「承りもした」

 次右衛門の父、與一郎は玄関を出て式体をした。

「御免」

 騎馬武者は、馬首を巡らし一礼して駆けて行く。

 次右衛門の押川家は、出陣の陣触れを聞いたその日から出陣の準備を始めた。

食料は三日分を持参するのが習わしである。あざみは糒、干した芋がら、梅干し、味噌などを準備し、次右衛門も父と、干した猪肉、鹿肉、鮎を荷造りした。

出立の日が来た。

與一郎は、支給された火薬を瓢箪に詰め、その口を竹の棒で蓋をし、さらに溶かした蜜蝋で封印し油紙にくるんだ。

「こいで、雨に濡れても安心じゃ」

 與一郎はそう言って、次右衛門に瓢箪を渡した。

 次右衛門は父譲りの鎧を身に着け、諸々の保存食、着替えや手ぬぐい等の日用品を収めた具足櫃を背負い、替えの草鞋などを腰に纏う。

 次右衛門は右袖を引かれる気配に振り返った。

「お父上…」

 次右衛門は五歳になる息子の辰之助を、軽々と抱き上げた。

「辰之助、父の留守の間はお爺様と母の言うことをちゃんと聞けよ」

「はい」

 辰之助は真剣な表情で頷いた。

「兄上…」

 弟の小次郎は二年前に元服を済ませ前髪を落としている。

 農繁期なので、根こそぎ動員ではない。次右衛門のような徒士武者は、家長のみに出陣が課された。

 小次郎は次右衛門に鉄砲を渡した。

「小次郎、父上を、皆を頼んど」

「はっ、任せやんせ。兄上は存分にお働きを」

「うむ」

 次右衛門にとっては初陣である。これまで、北の国境で大友氏の軍勢との小競り合いに遭遇したことはあるが、正式な戦は初めてだ。

「旦那様…」

 あざみが涙をこらえて、袖で抱えた刀を渡した。

 先年に母が他界し、一家を切り盛りするのはあざみである。

「あざみ、田植え前の戦じゃからそげんな長引かんじゃろ。おいが帰るまで一時の辛抱じゃ」

「はい、ご武運をお祈りしもす」

「うむ」

 刀を腰に差した次右衛門は、あざみの両肩をぽんと叩くと踵を返し門を出て行った。

 次右衛門は高岡の地頭屋敷で、在郷の足軽や侍身分の者たちと合流した。その中には平馬もいる。

 三十名ほどの集団は騎馬の地頭の先導で西に向かい、その日のうちに最終集結地の紙屋城に入った。紙屋城は三の丸が広大で大軍の集結に適した構えである。元来は伊東氏が島津氏の侵攻に備えての城であった。

 家久の率いる全軍勢が揃うのに、さらに三日を要した。

 次右衛門と平馬が、家久に呼び出されたのはいよいよ肥後へ向けて出立する前夜のことであった。

「さて、次右衛門、平馬。久しいが健在じゃったか」

城の本丸には簡素な屋敷が建てられ、縁の下に畏まる二人に家久はにこやかに声をかけた。

「はっ、殿。お久しゅうござりもす」

「さて、二人には改めて申すまでもなかが、儂はこの日向の正式な領主ではなか。あくまで仮の差配をしておるまで。兄としては儂の才覚を見極めてから領主に据えるか据えまいか、決める腹積もりじゃろう。無論、儂も島津兄弟の端くれじゃから当然、一国の主になりたか。そしてこの日向をもっと豊かな国にしたか。そいが儂の夢じゃ。かつて宗麟公が日向に理想郷を作ろうとして我が島津にその夢を打ち砕かれたが、この日に向かう国はまだまだ豊かになっど。そげんは思わぬか」

「思いもす」

 平馬が答えた。

「拙者の生まれ故郷の宮之城に比ぶっと、陽の温もりがよう伝わりもす。冬の天気の良か日は何とも言えず気持ち良うごわす。作物の太りも早か。真に日向は良か国でございもす。是非とも殿さまがお治めくだされ」

「うむ。そこでじゃ、おはんたちにはどげんしてん一働きして貰いたか」

「何なりと」

「実は、儂が若い頃に京都見物をしたことがある。そん帰りに肥前で竜造寺隆信の饗応を受けてな」

「さようでございもすか。で、隆信公の人となりはどげなお方でごわすか」

 平馬は興味津々に尋ねた。

「まあ、剛毅な男じゃった。ただ、目つきが何と無う卑しかった。実際、兄義久が放った諜者の調べでは、隆信は猜疑心の強か男ちゅう話じゃ。それもかなりの」

「はあ」

「これが意味することは何か分かるか」

「分かいもはん。何でございもす」

「きゃつは戦の極め時には前に出てくる」

次右衛門の問いかけに家久は力強く答えた。

「前に出て来る…、何故でございもすか」

「疑い深か人間は家来を信用せん。じゃから必ず戦況を確かめに前へ出て来る。恐らく鉄砲で狙える所まで」

 家久は、言葉を止めて二人をじっと見つめた。

「畏まりもした。その時がおい達の出番でございもすな」

 勘の鋭い平馬は家久を見詰めて答えた。

「じゃっど。次右衛門、平馬」

 家久は大きく頷いた。

「ところで、おはんたちは二人とも初陣じゃな」

「左様でござりもす」

「戦場では迷いは捨てよ。煩悩も忘るっっとじゃ、妻も子も家も土地も忘れて眼前の敵を倒せ。それが戦場で勝ち残る秘訣じゃ。死中に活有りじゃ」

「ははっ、肝に銘じもす」

 次右衛門は、力強く答えた。

 朝になった。

 冷涼な風の中で、炊爨と食事を慌ただしく済ませた軍勢は整列して大将の家久の閲兵を受けた。

 采配を大きく振る馬上の家久に従い、軍勢は西に向かった。

 家久の率いる千五百の軍勢は、途中で伊集院忠棟や新納忠元などの軍勢と合流する手はずである。

 大口城で新納忠元等の軍勢を吸収した軍勢は三千となり、渡し場の出水に着いたのは紙屋城を出立して五日目の夕刻であった。

 家久を総大将とする三千の軍勢が海路を渡り、有馬晴信が一日千秋の思いで待つ森岳城に着いたのは、天正十二年(1584年)三月二十二日であった。

「お待ち申し上げましたばい。家久殿」

「晴信殿、薩摩勢三千、ただいま着到いたしもした。長らくお待たせいたしもした」

 城の表屋敷で二人の大将は対面した。

 初顔合わせである。

 有馬氏の当主晴信は十八歳の若武者だが、眉間に刻まれた皺が今の苦境を物語っている。

自分が十八の時はこれほど威厳があったかな、と二十歳ほど若い晴信を見て家久は思った。

 若いとはいえ大名当主である、自ずと威厳がついた晴信はおもむろに口を開いた。

「ところで、家久殿。残りの軍勢はいつ頃到着でござすか」

「残り…、残りはございもはん。島津の軍勢は儂の率いる三千でござる」

「えっ、竜造寺勢は二万、いや二万五千でござすばい。そして我が有馬は六千…」

「なるほど、薩摩勢を合わせても一万に届きもはんな」

「せめて、一万は来てくださるかと思うとりましたばい」

「我が薩摩は、肥後においては竜造寺になびく土豪衆、日向においては豊後の大友、それぞれ備えておりもす」

「つまり、手一杯でござるか」

「左様」

「困り申した。合戦の予定地は沖田と申して海沿いに広がる水田地帯ばい。田植え前の用水を入れる頃合いばってん、大軍が自在に動けるよう敢えて水を止めとりますばい」

「田んぼでごわすか、なあるほど。ところで、その沖田の絵図はござらぬか」

「有りますばい。誰か」

 すかさず晴信の小姓が島原半島の絵図を持ってきた。絵図には、島原半島東岸の主な地名が記入してある。

「ここが我が森岳城、北に広がるのが沖田の水田ですたい。そして隆信はこの島原城におりますばい」

 ふむ、と頷いて家久は地図を凝視した。

「こん田んぼの真ん中の細い線は何でごわすか」

「こいは畷道たい。つまり沖田畷」

「では、水田の北を東西に海に向かう筋は」

「そいは、田んぼの用水となる中尾川ですばい」

「…沖田畷、田んぼ…、中尾川…」

 家久は地図をじっと見つめ、ぼそぼそ呟いた。

「晴信殿、この畷道の両脇の田んぼの水はけはいかがでごわすか」

「何分、平地故かなり水はけが悪かばい。元来が湿地でござすから」

「水はけの悪か田んぼに、水を大量に注いだらどげんなりもすか」

「かなりの湿田になりますばい。水を入れ過ぎると、歩くのも難渋して田植えが出来んけん、百姓衆はそのような失態は犯さんばってん」

 地図を食い入るように見つめて畳み掛ける家久の問いに、晴信は答えた。

「歩くのも難渋…、牟田でごわすな」

「ムタ」

 晴信が意味を問うた。

「牟田、歩くのが難渋な泥濘の田んぼでごわす」

 家久は、顔を上げて晴信を見据えた。

 晴信は、はっと目を見開いた。

「あっ、今の中尾川は折からの大雨で増水しておるけん、全ての用水口を開けば立ちどころに家久殿の仰るムタになりますばい」

 晴信の目が輝いた。

「晴信殿、明日の夜陰に用水を開き、沖田畷の入り口に大木戸を設け廻りに頑丈な柵を打ち込むことは出来もすか」

「出来ますばい」

「隆信の軍勢に悟られずにでごわすぞ」

「出来るやろ…、いややりますたい」

「晴信殿、我が手勢にも黒鍬者がおりもすが」

「家久殿、この仕事は土地の者にお任せあれ。それよりも、家久殿には兵法の達人と専らの評判。そちらの工夫をお願いいたしたか」

「承知しもした。ところで隆信はどのような武者姿でごわすかの。実は拙者が若輩の頃に上京した帰りに平戸にて隆信の饗応を受けもしたが、何分九年も前であれば」

「家久殿、隆信は九年前とは容姿がかなり変わり申したばい」

「いかようにでごわすか。家来に目印を伝えねば。兜や鎧、陣羽織はいかなる装いでござりもすか」

「鎧、兜は身に着けておりまっしぇんばい」

「何と…、家来を鼓舞するためでごわすか」

「いやあ、身に着けられんとたい」

「何故」

「肥え過ぎたい。自ら肥前の熊と称するは真に笑止たい。あまりの肥満に鎧の着用は能わず、騎乗のかなわぬ隆信は戦場においては、相撲取り六人担ぎの輿に乗ってうろちょろするばい」

「何、六人担ぎの輿に…左様でごわすか。そこまで肥え太りもしたか。九年前は頑健そのものでごわしたが。じゃっどん、それではとっさの移動には難儀するのではございもはんか」

「仰る通りばい」

「…晴信殿、この戦必ず勝ちもすど」

 沈思していた家久の眼が輝いた。

「確かに」

 二人は勢いよく立ち上がり、一礼して別れた。

 二十四日になった。

 夜明けを待たずに有馬・島津連合軍は沖田畷に布陣を終えていた。海岸線には伊集院忠棟、森岳城外前面には新納忠元、そして家久の軍勢は竜造寺軍からは死角になる城の背後に待機した。 

 次右衛門と平馬は、命により家久の声の届く位置にいる。家久の隣には見慣れぬ若武者が手槍を携えていた。鎧も兜も真新しく日の光を反射している。

「平馬、あれは誰じゃろかい」

 次右衛門に尋ねられた平馬はその若武者をじっと見つめた。

「ありゃ、豊寿丸様じゃっど」

「何ち、豊寿丸様…、豊寿丸様なら元服前じゃっど」

「やあ、気づいたか。此度の戦が終われば元服させるからそれまで待てち言うたが、どうしても連れて行けち、聞かんで連れてきたとよ」

 二人のやり取りに家久が苦笑交じりに答えた。

 次右衛門は、都於郡城で家久が軽々と抱え上げた八歳の豊寿丸を思い出した。あの時は利発な男の子に見えたが、六年の歳月は十四歳の目元涼しい若者へ変えていた。

 その豊寿丸は、次右衛門と平馬ににこりと歯を見せ、また正面の戦場を見据えた。

「おい、次右衛門義兄。珍しか家紋があるぞ」

 不意に声をかけてきた平馬の目線の先には黒地に白十文字を描いた旗を背に差した徒士武者がいた。島津家の白地に黒で丸に十の字とは逆の配色である。

 視線を感じたのか、振り向いたその武者と目を合わせた次右衛門はあいさつした。

「押川次右衛門でごわす」

 徒士武者が近づいて、一礼した。

「川上忠堅。義久様の命により参陣いたしもした。ところで鉄砲衆の持ち場は向こうではごわはんのか」

「家久様の直々の命でお側におりもす。拙者は淵脇平馬」

「左様でごわすか。腕を見込まれてでごわすな」

 三人のやり取りを聞いていた家久が振り向いた。

「忠堅、そこにおったか。鉄砲武者は乱戦になれば刀槍の餌食になりやすか。二人をそれらから防いでくれ」

「承知いたしもした」

 三人は、改めて目礼した。

 横幅二間ほどの畔道を完全武装した晴信の軍勢がゆっくりと北上を開始した。


 隆信は、沖田畷を見下ろす小高い前山からその様子を見ている。

「何じゃ、晴信は島津の加勢を足してもあれだけか。えらい細か蟻の群れじゃな」

 遠目には、畷を進む兵士の列は真っ黒い蟻の行列に見える。

「しかし、蟻の群れじゃからと放うちょきゃならんばい。者ども、攻めかかれ」

 隆信は特注の大きな床几から立ち上がり采配を大きく振った。

 隆信の軍勢は、川沿いの道を下りて水田地帯に展開しようと足を踏み入れた。

しかし、二日前までは田植え前の固く乾いていた田んぼが泥濘となっていた。

有馬氏の兵達が夜間に取水した効果である。

「しもた。こらよう行かんばい。田んぼに水が張っちょる」

「駄目じゃ、泥濘に足ば取られて進みゃならんばい」

 泥濘んだ田んぼに足を取られる兵士達は口々に怒鳴りながら畦道に引き返そうとするが、状況を知らぬ後続の兵士は畦道を前へ前へと押し寄せ、たちまち大混乱となった。

「何ばしよる。一たん引き返さんか」

 武将たちが声を張り上げて、事態を収拾しようと後退の指示をした時は、すでに後続の軍勢が畷道の出口近くまで押し寄せていた。

 隆信配下の武将たちは素早く集まって協議を開いた。

「あの柵と大木戸が邪魔をして、畷しか進みゃならんぞ」

「どのみち、泥濘の中は通れんばい」

「敵も畷道しか進んで来られんたい。数では我が方が遥かに多か。数に物言わしゃ押し切れるやろ」

「そぎゃんしよ」

 こうして、陣形を整えた隆信の軍勢は畷道を閉ざす大木戸を開き、槍隊を先頭に早足で進んだ。

 隆信の軍勢は体制を整えて槍隊を先頭に繰り出して、有馬の槍隊と激突した。

緒戦は、長槍どうしの叩き合いで始まった。

 兵士の上げる怒号、いくつもの槍同士がぶつかる爆ぜるような音が十町離れた次右衛門たちにも聞こえてくる。

「始まりもしたな」

 忠堅は落ち着き払った声で、二人に声をかけた。次右衛門は黙ってうなづいた。

 槍合戦はどっちも引かぬかと思えたが、有馬勢はじりじりと後退を始めた。

「よおし、その意気じゃ。行け行け」

 前山から見下ろす隆信は、有馬勢の後退が偽装とは露知らずに立ち上がり声を張り上げた。

 隆信の眼には、細道を左から続く密集した我が方の蟻の行列が遥かに疎らな右の蟻の行列を追い返しているように見える。

「誰か、おらんか」

「はっ」

 太陽を図案化した旗を差した馬周りの一人が畏まった。

「今ん勢いで敵を晴信の森岳城まで責め立つるばい。二陣三陣も繰り出すごと言うちゃれ」

 こうして隆信の軍勢は密集の度合いを増して、晴信の軍勢をどんどん押し返した。

 沖田の泥濘は取水口から離れた森高城近くはそれほどぬかるんではいないのだが、水が張っているのに変りはないので竜造寺軍の兵士は気づかず律儀に畔道を進んでいる。有馬軍の兵士たちも敢えて畔道を下がっている。 

 じりじりと後退する有馬軍の槍隊の組頭は道脇の水田に足を入れてみた。

水を張って間もない土壌は草鞋越しに固い感触を返した。

頃合い良し、と判断した槍組頭は傍らの兵士の背に差してある旗を引き抜くと大きく左右に振った。

 有馬家の紋章の黒地に白の瓜紋が青々とした空に映えた。

「それぇ、打ち掛かれぇ」

 森高城の城外に背を低くして隠れていた新納忠元がその合図を確認すると、がばりと立ち上がり声を限りに叫んだ。

 ほら貝が特有の低音で大きく唸った。

 わーっともおおーっとも付かぬ怒号が地響きのように沸き上がった。

 それまで姿勢を低くして隠れていた忠元率いる逆襲部隊は鉄砲隊、弓隊を先頭に田んぼに大きく展開して前進を開始した。

 隆信の軍勢はそれまで有馬軍をどんどん押し込んでいたため、後続の軍勢も空隙を作るのを嫌って前進の勢いが止まらなかった。

 隆信の軍勢は畷道を前進を続けて、堅い水田地帯に広がる忠元軍に包囲されていく形となった。

 そして、竜造寺軍の最前列の兵士たちは忠元軍の狙いすました弓矢と銃弾にバタバタと斃れていく。

目前に倒れる仲間たちを目の当たりにして、竜造寺軍の先頭の兵士たちは怯えて立ちすくんだ。

その様子を知らない後続の軍勢は前進の勢いを止めない。竜造寺軍は大混乱となった。

「止まれ、止まれ」

 最前列の兵士たちが口々に叫び、各々が振り返り後続へ手を振って停止を求めるが、その声は戦場の喚声にかき消され、手を振るさまは後続に前進を促すように見えた。

 数で遥かに勝る軍勢が何故、前進をやめたのか戦場を見下ろす隆信には理解できなかった。

「あの者共は何ばしよるかっ。誰か様子ば見っこい」

「はっ」

 隆信の前に出てきた母衣武者の一人吉田清内は、隆信の前に片膝をつくと素早く馬に跨り駆け去った。

「儂も行く。ここで押し切れば勝てるばい。輿をこれへ」

 その声に、近習が陣幕を捲って消えた。

 入れ違いに長大な輿が出てきた。神社の祭りに使う神輿に似ているが、中央はまっ平である。六人の屈強な足軽が軽々と担いでいる。

 肥え過ぎて騎乗の出来ない隆信専用の乗り物だ。

どかりと中央に鎮座した隆信は、設えてある手すりを手綱よろしく握った。

「大木戸に我が手の者を揃えい。前方の小競り合いが終われば、最後の一押しで決着がつくばい」

 六人の足軽は「せーぃ」、と声を揃えて隆信の乗り込んだ輿を担ぎ上げると、「えっほ、えっほ」と調子を揃えて前山を下り畷道の入り口の大木戸に向かった。

 さて、清内は味方の軍勢がごった返す中で、兵士たちを掻き分け掻き分けて前進部隊の部将に近づき声をかけた。

「貴様ら、一体何ばしよるか。御屋形様は、押し切れば勝てるとを何をもたもたしとるか、ちご不快ばい」

 現場を仕切る自分に、殿様近くに使える若者から、非難とも受け取れる言葉を掛けられその部将はむっとした。

 盲目的に前進を続ける後続を、どうにか押しとどめるのに苦心しているのを貶されては遣り切れない。

 その部将は右手の采を高々と掲げて前へ振り下ろした。

「前えーっ」

 法螺貝を口にした兵士が力の限り吹鳴した。法螺貝の音色に釣られたように、やけくそになった軍勢が再び前進を開始した。

 竜造寺軍は狭い畷道をしゃにむに前進を続け、それを固い地盤の水田に展開した忠元軍が押し包み、弓矢と火縄銃をどんどん撃ち込んだ。

 竜造寺軍は、味方の兵士がバタバタ斃れるのを踏み越え踏み越え前進を続けていく。

 後方の隆信は、実際は虐殺的に味方の兵士たちが消耗しているとは露とも知らず、曲がりなりにも我が軍勢がじりじりと前進してゆく事に偽りの勝機を感じた。

「良か良か。今こそ最後の一押しばい。行け行け、おまいどんも後に続け」

 隆信は後ろに控える直属の軍勢にそう怒鳴ると、左手で手すりをぐっと握り右手の鉄扇で手すりを激しく叩いた。

「行くぞっ」

「おおーっ」

 六人の屈強な足軽たちが腰を担いで声を揃えて立ち上がり、早足で前進を開始した。

 隆信は必ず最前線に出てくると予想していた家久は、森岳城の北面の櫓に遠目の利く兵を一名おいていた。

 眼下に広がる青々と空色に染まった湿地帯の真ん中の一本道の蟻の押し合いは、混乱の度合いを深めている。

その一本道の蟻の群れを掻き分けながら巨大な甲虫が、槍でバチバチと叩き合う最前線へ六本足でじりじりと近づいているのが物見の兵に見えた。

 物見兵は、足元の大筒を砂嚢に固定し鉄砲狭間から澄み切った春の大空へ撃ち放った。

従来の火縄銃を大柄にして両手でやっと握れるほどの太い銃身には、銃弾の代わりに油を染み込ませたぼろ布が詰められ、それは「ズドンッ」と轟音ととともに青空に飛び出し橙色の炎の竜となった。

 事前に打ち合わせた隆信の接近を知らせる合図である。

「殿」

 近習の指す大空に、炎の竜を見上げた家久は采を振り上げ、怒鳴った。

「鐘じゃーっ」

 戦場のすさまじい喧騒の中を、金槌で半鐘を叩く甲高くけたたましい音が響いた。

 その音に反応したのは隆信の軍勢と槍の叩き合いを繰り広げている槍隊だった。

槍隊は鐘の音に反応して槍を手放し地面に突っ伏した。それと同時に鐘の音が止んだ。

 槍隊の背後で待ち構えていた弓隊は、鐘の音の段階で満々と弦を引き絞っていた。

「太鼓―っ」

 家久が再び怒鳴った。

「ドドーン」

 大太鼓の威勢の良い打音が鳴り響いた。

 太鼓の音を合図に、家久の弓隊の射撃が始まった。

 呆気にとられた隆信の槍隊は、眼前の開けた視界から飛んでくる無数の矢に目を奪われた。

隆信は、家久が槍隊の背後に弓隊を距離を詰めて配置していたことは露知らなかった。

隆信は眼前の自分の軍勢がバタバタと斃れて行く様を呆然と見つめた。

「ひ、引け、引け」

我に返った隆信は輿を担ぐ足軽たちに裏返った声で命じた。

輿を担ぐ六名の足軽は斃れた兵や狼狽した兵のごった返す中で、輿の方向転換に難渋した。

「次右衛門、平馬、忠堅。今じゃっど」

 家久はすぐ脇に控える三名に声をかけた。

「参る」

 忠堅は、腰の刀のこじりを上げて中腰でするすると駆け出した。

 次右衛門と平馬は、銃の火蓋を開き、隆信の座上する輿に狙いを付けた。

 二人は平馬特製の起倒式元目当てを起こした。

 身長五尺五寸の次右衛門が、二十間先から十間刻みで見える高さが刻まれている。

 隆信の座上する輿を担ぐ足軽は三十間の刻みに一致した。

「誰を狙うや、義兄者」

 平馬の問いに、次右衛門は輿の上で世話しなく動き回る隆信を見詰めた。

「隆信は動き回るから難しど、輿を担ぐ足軽じゃ」

「分かった、距離は…三十間じゃな」

「じゃっど」

 二人はそれぞれ照準から目をそらさず、冷静に射撃距離を確認した。

 方向転換にもたつく輿は左側面を前線に晒している。

「おいは真ん中の足軽、おはんな前。良かな」

「宜しゅごわんど」

 次右衛門の提案に平馬は即答した。

「必ず当てにゃならんから胴に当つっど」

「うむ」

 次右衛門は、足軽の桶胴へ狙いを付けた。

「ババーンッ」

 二人の銃は同時に発射された。

 平馬特製のどんぐり弾が焔の矢を引いて行く。

「とん」

 輿の左前方の足軽は、腹部を小槌で叩かれたような衝撃に何だろうと俯き、左手で腹部をさすった。見ると、左手が噴き出す血潮で赤く染まっている。

「ううむ」

 ふと背後の足軽を振り返った。その足軽は気の抜けた顔で膝を崩した。

 輿の重みが圧し掛かってきた前方の足軽は踏ん張ろうとしたが、銃弾を受けた腰から力が抜けた。

 六人で担ぐ輿は左側面の二人が倒れて、どおっと前のめりに倒れた。

「わあっ」

 隆信は地面にころりと投げ出された。

 隆信の肥満体は仰向けに転がり、とっさに起き上がる事が出来なかった。

 そこへ忠堅が、戦死者や重軽傷者の散乱する畷道をすいすいと掻き分け掻き分け駆け寄った。

「隆信殿、首を頂戴仕る」

 忠堅は躊躇なく隆信の顔を踏みつけ刀で首を落とした。

 その時、忠堅は背後でバサッと薪を割ったような音を聞き振り返った。

 隆信の近習が自分の胴を貫いた槍先を見つめたまま、忠堅に届かなかった刀を振り上げた状態でドウと倒れた。

 手槍で隆信の近習を斃したのは豊寿丸であった。

 豊寿丸は、槍を放して呆然と立ち尽くしている。

「お見事。さあ首を獲いやんせ」

 緊張と高揚の入れ混じった目で自ら斃した兵士を見つめる豊寿丸に、忠堅は声をかけた。

 こうして、沖田畷の戦いは終わった。


 不知火海を望む八代麦島城に、家久の軍勢が入ったのは戦いの翌々日だった。

 次右衛門と平馬は、家久の使いに呼ばれ奥屋敷の庭先に畏まった。

「次右衛門、平馬、見事な狙撃じゃった。礼を申すど。こげな際の褒美は脇差が決まり物じゃが、おはんら刀鍛冶にはそいはあまり嬉しくなかろう。じゃっでこれを授ける」

 家久は、何かの草で編まれた巻物を各々に渡した。


 次右衛門と平馬が数日の旅程を経て故郷に帰りついたのは、田植えの前の日であった。

 囲炉裏の自在鉤には雑炊が入った鍋が湯気を上げている。

「こいがイ草の茣蓙か…」

「家久様より直々の賜り物でごわす。何でも肥後八代の名産じゃそうで、身分の高か人の使う畳の上張りと聞きもした」

 與一郎は、息子の渡したイ草の茣蓙を珍し気に見つめ、すべすべとした手触りを楽しんだ。

「父上、これに寝ると気持ちがよろしゅごわんど。稲藁ん茣蓙んごとちくちく肌を刺しもはん」

「わしが使うても良かとか」

「はい。勿論でごわす。あざみ、代わりをくれ」

 次右衛門は、あぐらに座り込んだ辰之助を横に置いて木椀をあざみに差しだした。

「はい」

 あざみは次右衛門の差し出した木椀に雑炊を注いだ。

 互いの指先が触れた。

 あざみの指先の柔らかい感触に次右衛門は帰郷を実感した。

 夜になった。

 満月を五日ほど過ぎた月明かりが、少し開けられた蔀戸から淡く差している。

 家族が寝静まった家の中はしんと静まっている。

 ほの明るい部屋の中で、次右衛門に襟を拡げられたあざみの肌が白磁のように浮き上がった。

 次右衛門は、藁茣蓙の寝床であざみの肌を撫でた。

「ちくちくしもはんか」

 あざみが微笑みながら冗談ぽく尋ねた。

「すべすべじゃ、おいはイ草よりあざみが良か」

「あたしは、敷物じゃごわはんど。旦那様」

 笑いながら抱き着いてくるあざみの眼は見る見るうちに潤んでいる。

「良くぞご無事で」

「うむ。心配かけた」

 次右衛門はあざみを全身で抱きしめた。

 それから平穏な日々が三年続いた。


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