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12.狙撃

 慶長五年(1600年)の年末が近づいていた。

九州南部では、牛馬の餌槽は丸太を縦に割り、さらに中を刳り抜いた物を使う。その形状からフネと呼ぶ。

 あざみは牛舎のフネに干し草を投げ入れた。

 黒牛はボリボリと干し草を貪り、時おりキュッキュツと歯を鳴らす。それらの音がいかにも美味そうに聞こえるので、あざみはその音が好きだった。

 嫁に来るまでは、牛には近づくことも触ることもなかったあざみだが無心に干し草を貪るさまに愛着を感じて、黒牛の鼻筋を叩くように撫でた。黒牛が顔を上げて小刻みに鼻を上下に動かした。水を求めている。

 その時、背後に人の気配を感じた。見なくても雰囲気でわかる。息子の新右衛門である。

「新右衛門、すんもはんが水を汲んで来て…」

 そう言いながら振り返ると、そこには新右衛門ではなく次右衛門が立っていた。

「あっ」

 あざみは言葉を失い、膝から力が抜けて頽れた。

「今、帰ったど」

 次右衛門はあざみの両肩を支えて笑った。

 やがて、野良仕事を終えた新右衛門も帰って来た。

 囲炉裏に炭火を起こし、雑炊の鍋が吊るされた。

 次右衛門はぽつりぽつりと半年前の上京から関ヶ原までの出来事や豊久との別れ、その後の脱出行を話した。

 あざみも新右衛門も黙って聞き入っている。

 時おり炭火が爆ぜる音と鍋がぐつぐつと煮える音のみが響いている。

 土間で雑炊を啜っていた伍作が、ぺこりと頭を下げて作人小屋へと下がった。

「旦那様、鉄砲はどげんされもしたか」

 あざみは次右衛門が帰宅時に火縄銃を所持していないのが気になっていた。

「鉄砲は元目当ての仕掛けを外して、大坂で武具屋に売った。路銀が要ったでな」

「平馬どんもじゃひか」

「うむ」

「では、平馬叔父とまた鉄砲を拵えもすか」

「うんにゃ。作る積りはなか」

 次右衛門が新右衛門の問いに首を振った。

「何ごてじゃひか。鉄砲武者には鉄砲がなかといかんとじゃごわはんか」

「おいの寄り親の豊久様が討ち死にされて、佐土原島津家がこいからどげんなっとか見当がつかん。我が押川家は穆佐郷の他の侍のごと地頭どんの下に付くかもな」

「そげんなっても、鉄砲は要っとじゃなかひか」

「うむ。まあ、古か鉄砲があるからそいで良か」

 次右衛門は、床の間に置かれた火縄銃を見やった。

「実は家督を新右衛門に譲ろうち考えちょる」

「えっ」

「おいも今年で四十じゃ。沖田畷、根白坂、朝鮮、そして関ヶ原。我ながらよう生きて来た。そいに今度の戦で天下はいよいよ落ち着くじゃろ。そうなれば新右衛門、おまいに安心して家督を継がせがなる」

「そん時は、おいは鉄砲組になっとじゃなかひか」

「そん時にならんと分からん。じゃから慌てんで良か」

「はい」

「長い間、ご苦労様でございもした」

 あざみは焼酎の徳利を傾けた。

「うむ。留守ばっかいの亭主でおまいにも難儀の掛け放題じゃったな」

 次右衛門はあざみに頷いて、木椀に受けた焼酎を口にした。

「そげん言えば、家督を譲るちなると新右衛門は嫁女を貰わんないかんな。何処かに良か女子はおらんか」

「あたしに聞かんでも、新右衛門には当てがあっとじゃなかですか」

「何ごて」

「何ごても何も、晩方はお出掛けが多かで。家の跡取りどんは」

 あざみは横目で新右衛門を睨んで笑った。

「ほどほどにせえよ」

 次右衛門は新右衛門を窘めた。

「血筋じゃごわはんか」

「ごほっ」

 あざみの一言に、次右衛門は焼酎をむせ返した。


 さて、出陣時の人員の九割を失い、かろうじて薩摩へ帰って来た義弘主従は、島津氏本拠地の鹿児島ではなく義弘の領地の帖佐に帰着した。

 今回、反徳川の西軍に付いたのは当主の義久の関与はなく義弘の独断である、義弘はその独断の反省の意味で領地で謹慎と言う体裁を保つ工夫である。

 今後の対応策検討は義久と義弘の直談ではなく、手紙や使者の往来でのやり取りにしようとの義久の判断である。なので、二人の意思疎通は非常に煩雑であった。

 しかも、家康方からは問罪や呼び出しの書状が幾つも届き、それへの返答をしなければならない。

 律義者で通っている家康のたっての頼みであった伏見城加勢を、城主の鳥居元忠の拒絶とは言え反故にしてその城攻めに加わり、その後の関ヶ原まで家康率いる東軍と戦ったのである。

 家康自身は島津氏の事情は理解しているかも知れないが、味方に付いた大名や家臣一同にとっては、敵対した島津の事情など何の判断材料にもならない。

 戦って負けた大名の領地は没収され、勝った側の大名の報奨となる。それが当然とされる時代である。

至極当然の主張であるから、家康も味方に付いた大名や家臣たちの『島津処分すべし』の声を抑えはしなかった。

 義久と義弘は互いの意思の疎通と方針の統一を使者のやり取りで地道にこなしながら、対応策を練った。

 家康の家臣の井伊直政が『自分は島津家家来の銃撃で負傷したが、我が東軍の軍勢を突き破った勇猛果敢な島津の戦振り、真に天晴れである。ついては武勇の誉れ高い島津家には特にお咎めが無いよう取り計らったので、安心して上京されるように』との文面で義久の上京を促す書状を送って来た。

 義弘はその文面を素直に受け取った。

『直政は島津の家来に銃撃されて重傷を負わされたが故に、島津の武勇に一目置いたのであろう』と、直政の文面を解釈して義久に伝えた。

 義久の解釈は真逆であった。

『戦場で手傷を負うて引き返すのは武士の恥である。その恥を雪ぐ機会を得んが為に、儂の上京を促している。恐らく本多正信の入れ知恵であろう』

 そのようなやり取りをしていると、のこのこと上坂した毛利氏が八か国一二〇万石から二か国三七万石に減封された、との知らせが届いた。上杉景勝も、百二十万石が三十万石に減封された。

 それらを島津氏に当てはめると減封後の石高は二十万石にも届かなくなる。

 義久は毛利処分の実情をさらに調べ上げ、毛利輝元は徳川四天王の連署による領地安堵状を信じて上京し、面談した家康に『それは家臣の勝手な振舞いである。儂は知らぬ』と突き放して減封処分を言い渡したことを突き止めた。

 義弘は義久から毛利氏の処分内容を知らされ、言葉を失い兄の慧眼を見直した。

 そして、家康の謀臣本多正信に引けを取らない義久の智将振りが発揮された。

 家康や正信は、よもや毛利処分の手の内は島津氏には気付かれていまいと楽観していたが、義久の諜報網は徳川家内部にも各地の主な大名家にも入り込んでいた。

 そこで、義久は義弘と協議して直政の書状の内容を言質とする返書を送った。

 即ち、直政の書状の内容が本当なら念のため家康署名で同じ内容の書状を送って欲しいとの内容である。

 直政の義久を上京させるための罠に即した要求であるので、直政に嘘でしたとは言わせない策略である。

こうして、家康が義久を謁見した上で『領地の安堵など家来の勝手な振舞いだから、知らない』とシラを切る目論見は破綻した。

ついに家康が領地安堵の確約を記した書状を花押付きで義久に送ったのは、関ヶ原の戦役から二年後の夏であった。

「いやあ、長かった長かった。足掛け三年も掛かるちは思いもせんかったど、兄上」

 義久と義弘は久々に鹿児島城で顔を合わせた。次期当主の忠恒も同席している。

「まこち、長かった。おはんが大和の平等寺に匿われておる頃には肥後の加藤が国境に兵を寄こして、直ぐにでも攻め掛かっ来い勢いじゃったど」

「兄上には、大層な難儀をお掛けしもした」

 人望の厚い義弘も実兄の前では幼時と変わらず、従順であり謙虚である。

「父上や伯父上にこげんも難儀を掛けさせて、まっこち伊集院親子は我が島津家の疫病神でごわんな」

 忠恒は吐き捨てるように二人の会話に割って入った。

「忠恒、忠真は武士の意地を貫いての謀反じゃっど。そいに謀反は内府公のご仲裁で終わった話じゃ、蒸し返すな」

 義弘はうんざりした顔で忠恒を窘めた。

 そもそも、忠恒が独断で伊集院忠棟をいきなり斬殺しなければ、今日の事態は発生しなかったのである。

 しかし、六十有余年の人生で数多くの修羅場を潜り抜けて来た義弘は、『たられば』の発想はしない性格であり、兄の義久も同様である。

「忠恒、おはんは儂の名代として内府公に領地安堵の御礼言上に大坂へ行たっくれ」

 義久は忠恒の伊集院親子の悪口を無視して、上坂を命じた。

「大坂でごわすか」

「うむ。内府公は豊臣家の切盛りの為に大坂城西の丸に居いやる。儂は老いて病い勝ち。義弘は関ヶ原の戦で東軍方の大名をだいぶ痛めつけたで、闇撃ちを喰らう恐れがある。じゃっで、おはんが大坂に上っせ御礼言上をすっとじゃ」

「分かいもした。謹んでお受けしもす」

 思わぬ重責を負わされ、忠恒はぎこちなく頭を下げた。

「良かな。儂の名代ではあるが次期当主としての振舞いを心掛くっとじゃっど」

 義久は、忠恒に地位に付随する責任の自覚を促したかったが、忠恒はある謀を思いつき口角が上がった。

「承知致しもした。では共回りは拙者の一存で決めてもよろしゅございもすか」

「無論じゃ。誰か連れて行きたか者がおるか」

「はい。忠真を連れて行きもす」

「…」

「…」

 義久と義弘は思わず顔を見合わせた。

「な何故、忠真を連れて行くとや」

「はい。此度の上坂は内府公に領地安堵の御礼言上でごわすが、やはり忠真謀反の仲裁を頂いた御礼もせんにゃいかんとじゃなかひか」

 義久の問いに忠恒はすらすらと答えた。

「確かに、おはんの言う通りじゃな」

 義久も同意せざるを得ない。

「そうなれば、謀反人、いや元謀反人の忠真も内府公に御礼を言上せんにゃいかんち思いもすが」

「ふむ、おはんの言いようは尤もじゃ。忠真も同道させやい」

「忠恒、念のため申しておくが義理の弟じゃからな、忠真は。妙な考えはしちょらんよな」

 義弘は、忠恒をじっと見据えて念押しした。

「父上、何を今さら。忠真はおいのむぞか妹の亭主でごわんど。そいに謀反は終わった事でごわす。先ほど、左様に言われもしたが」

 忠恒はにこやかに答えた。

 こうして、忠恒の謀は父と伯父を騙して始まった。自邸に戻った忠恒は、さっそく短文の書状をしたため使いに託した。

 書状の送り先は、道中に立ち寄る予定の日向野尻城主福永佑友である。

 内容は誰かに盗み見されても不信感を抱かせない内容であった。

『大坂参覲途上の野尻において鹿狩りを催す故、鉄砲名人を一人か二人用意せよ』

 それだけだった。


 数日が立ち、出立を間近にした忠恒を家老の平田増宗が嫡男の新四郎を連れて訪ねて来た。

「これはこれは、増宗。どげんかしたや」

 忠恒は予期せぬ訪問者に少し驚いた。

「若殿に置かれましては、大殿のご名代で大坂の内大臣様へのご参覲、家臣として真に有難きお勤め。厚く御礼申し上げもす」

「うむ。わざわざそれを言いに来たとや」

 忠恒は平伏する増宗を訝しむように見下ろした。

「実は、お願いに来もした」

「何じゃ」

「はい、此度のご参覲に倅を共に加えて貰いはないもはんか」

「ふーん、まあ一人くらい増えてん構わんどん。何か理由があっとや」

「はっ、倅に道中や上方の様子を見聞させて見識を深め、後々お家のお役に立つ武士にさせとうございもす。実はどげんしてんお供に加えて頂きとうて急いで前髪を落としもした」

「何ち、儂の供になりたいばかりに急いで元服したとや。中々立派な心掛けじゃな。良かど、おはんの倅を共に加える」

 忠恒は増宗親子の意気込みに少し驚いた。

「有難き幸せ。これ、新四郎、お礼を述べよ」

「平田新四郎宗次でございもす」

 それまで、増宗の後ろで顔を伏せていた新四郎が顔を上げた。

「…」

 忠恒は新四郎の顔立ちを目の当りにして息を呑んだ。

 平田家の家系は美男が多く、増宗も目鼻立ちの整った顔であるが、元服直後の新四郎の肌は透き通るように白く輝き、涼しい目元からすっとした鼻筋は気品があり唇は濡れたように艶があった。膝前に揃えられた手の白く細長い指は少し反り返り、艶めく薄桃色の爪は桜貝のようである。

 青年になり切っていない身体は華奢である事が衣服の上からも伝わってきた。

 正に美少年である。

「よ、良か二才にせじゃな」

 忠恒は息を呑んだ。

 『良か二才』とは、衆道的意味での美少年を褒め称える表現である。

 新四郎は忠恒の誉め言葉に上気した笑みで見上げた。

 忠恒は改めて増宗を見た。増宗もにこやかである。

(つまり、わしへの献上品か)

 忠恒は息子を旅の共に加えたい増宗の意図を察した。

 武将の嗜みとして少年を抱く行為は、忠恒も嫌いではない。いや、亡き兄の年上後家を正室に宛がわれた事に鬱屈している忠恒は従来に増して衆道に熱中していた。そこに、今まで見た事のない美少年が自分の物になるのだ。忠恒は嬉しさに胸が高鳴るのを覚えた。

「じゃれば、今宵から城に泊まるが良か」

「有難うございまする。じゃっどん、出来ますれば出立前日にお願いしとうございもす。支度をさせもすので」

「左様か。支度があればそげんしやれ」

 忠恒は少し残念だったが、数日の我慢だと自分に言い聞かせた。

「よろしくお願いいたしもす」

 新四郎は鈴虫のような声で答えた。

 出立前日となり、新四郎は髪を整え見事に染め上がった藍の肩衣と袴姿で現れた。自分をどう見せるかを計算した装いで着到の挨拶をする新四郎に忠恒は見惚れた。

 夜になり、新四郎は忠恒の寝所に呼ばれた。

 障子を開けると、燭台の蠟燭が灯り、真っ白い羽二重の布団が敷いてある。

 作法通り障子を丁寧に開け閉めして、お辞儀をした新四郎は顔を上げて驚いた。

「あっ」

 布団の上には忠恒が俯いた侍女を侍らせて、にやりと笑っていた。

「来よ来よ、新四郎」

 忠恒は侍女の肩に手をやり、もう片方の手で手招きした。

「女子と一緒でございもすか」

 新四郎は血の気の引いた顔になった。

「一興、一興じゃ。良かじゃろ」

 恥ずかし気に下を向く侍女の脇で忠恒は上機嫌である。

 新四郎には、男として慈しみあい歓びを交わす行為に女性を加えるのはとても不純で獣じみた行いに思えて、湧き立つ気持ちが一気に醒めてしまった。

 新四郎は『女子と一緒は嫌でございもす』と、言ってその場を去りたい思いをぐっと我慢した。今まで女性と同時に抱かれた事など無い。しかし、新四郎はこの場であからさまな拒絶は自分だけでなく父の立場も危うくすることを理解している。

「灯りを消して欲しゅうございもす」

「いかんいかん。せっかくの良か二才を眺めがならんやろ」

 にやにや笑いながら、忠恒は荒々しく新四郎の袖を掴んで引き倒した。


 新四郎が屈辱に満ちた夜を過ごした翌朝、忠恒一行は鹿児島を立ち、義弘の住まう加治木に向かった。

 義弘の居館に着いたのは夕刻であった。

 表座敷には、義弘と忠真が待っていた。

 忠真の新たな領地、帖佐は加治木の目と鼻の先である。

「忠恒、よう参られた」

 義弘が他人行儀な口調なのは、下座で控えている忠真への気遣いであろうと忠恒は悟った。

「父上、いよいよ上方へ参りもす」

「うむ、おはんの下知に従って忠真も参上したど」

「中納言様、お久しゅうござりもす」

 忠恒の背後から端然とした忠真が挨拶した。

「おいを官位で呼ぶな、忠真。義兄上で良か」

 忠恒はにこやかな笑顔で、父の斜め後ろの忠真に振り向いた。

 二人の対面は、謀反終結後の降伏会見以来である。

「いや、それは恐れ多か事でごわす」

「まあ、無理強いはせんどんな。ところで、おしたとは仲良うやっちょるや。おいのむぞか妹ぞ可愛がれよ」

「はい、おいには勿体なかくらい尽くしてくれもす」

「そりゃそうじゃろ。小まか頃から留守勝ちの父上に代わって、おいが色々仕込んだでな」

「はっ、厚くお礼申し上げもす」

「子は出来たや」

「あいにく、まだでございもす」

「そやいかんな、励めよ」

「ははっ」

 二人の会話は淀みが無いようだが、互いに会話が途切れないように必死にやり取りしているのが手に取るようである。

「さてさて、二人の仲の良かこっで祝着。儂も一安心じゃ」

 会話が途切れて気まずい空気に包まれる前に義弘が割り込んできた。

「忠真、下がって良かど」

「はっ」

 忠真は義弘と忠恒に深々と頭を下げて退室した。

 義弘は堂々とした挙措の忠真を見詰める忠恒の冷淡な視線を見逃さなかった。


 その夜、義弘の館で勢揃いした忠恒一行の旅立ちを祝う宴が催された。

 新四郎は初めて目にする忠真の期待以上の容姿や仕草に心を奪われた。

 新四郎の目に映る忠真は、主君筋のお手打ちとは言え、父を斬殺されて悲憤の叛乱を起こし半年に渡り一歩も引かなかった英雄である。

 薩摩地方の若者は、卑怯者を侮蔑し木強な振舞いこそが薩摩隼人の真骨頂、と言う価値観に染まっている。新四郎も同じ価値観の持ち主である。

 忠真の朝鮮半島における数々の武勇伝、目元涼やかな容貌と堂々とした体躯は、薩摩隼人の理想像を具現化している。

 胸板厚くがっしりとした体格で周りの者を引き込むような笑顔で話す様に、新四郎はときめきを覚えた。

「忠真様、平田新四郎宗次にござりまする」

 座が砕けた隙に、新四郎は忠真の前に座り瓶子を傾けた。

「おお、増宗殿の…」

 新四郎は盃を出した忠真の手をさり気なく触って、盃を満たした。

「新四郎ち呼びやんせ」

「分かった」

 新四郎は忠真の目を見詰め一礼して去った。

 二人の意思疎通はそれで十分だった。やがて、宴はお開きとなり夫々が寝所へと消えて行った。

 義弘は寝所へ戻ると、すぐに近習を呼んだ。

「済まんが、忠兄を呼んでくれ。誰にも気付かれんようにな」

 川上忠兄は参覲に加わってはいないが、見送り側の一人として宴に出席していた。

「川上忠兄、参りもした」

「夜更けに済まんな」

 義弘はさっそく部屋に招き入れると、用件を話し始めた。

「実は、他言無用で難しか頼みがある」

「はい」

「このままでは忠真は殺さるる」

 忠兄の返事が終わるや否や、義弘はボソッと呟いた。

「えっ、誰にでございもすか」

 忠兄は、思わず目を丸くした。

「倅によ」

「まさか。謀反は手打ちになっせ、お二人とも内府様に仲良う御礼の言上に行かるっ途中でごわんど」

 今度は眉を顰めて困惑した。

「旅の途中じゃからこそ、忠恒はやる積りじゃ」

「本な事でごわすか」

「うむ、忠恒はどげんしてでん伊集院家を滅ぼす積りじゃ。間違いなか」

「分かいもした。殿がそこまで言わるっとなら、家来が主人にあれこれ尋ぬっとは止めもす」

「そこでじゃ、おはんには忠真が討たるっとをどげんしてでん止めて欲しか」

「つまり、中納言様を説き伏せて思いとどませよ、ち言われもすか」

「そいは儂にも無理じゃ。そもそもに忠恒は『忠真を討つ』ちはおくびにも出しておらん」

「じゃれば…、一つだけ教えて欲しか事が有いもす」

「何じゃ」

「忠真様のお命をお救いしたか殿の本意は何でございもすか」

「忠真は知勇に長けた男惚れのする侍じゃ、儂が一番むぞか娘を嫁にやるくらいな。これからもきっと我が島津に役立つ漢じゃ。じゃから死なせる訳にはいかん。この答えじゃ不服か」

「滅相もごわはん。確かに忠真様は真の薩摩隼人、おいも同意しもす。絶対にお救いしもす」

 忠兄は、義弘を見詰めて答えた。

「うむ、頼むど」

「じゃっどん、旅の間ずーっと見張るのは無理がありもすが」

「忠恒は恐らく野尻郷でやる」

「野尻…、日向諸県の郷村でごわすな」

「うむ。明日は霧島神宮で参覲成就祈願を執り行っせ泊まる。翌日は野尻、そん次の日は都於郡、さらに佐土原に泊まっせ船出じゃ。霧島は神域じゃから殺生は出来ん。都於郡は町屋が多く人目に付く。佐土原に着けば船出の支度で余裕はなか。やるなら野尻じゃ」

「なるほど、合点が行きもす」

「野尻では恐らく旅の無聊を慰めるとか言うて、狩りを催すじゃろ。忠恒は狩場に弓矢か鉄砲の達者を隠して、その者に忠真を討たせる。儂の見立てはこげんじゃ」

「じゃれば、拙者は野尻に先回りして弓撃ちか鉄砲撃ちを斃せば宜しゅごわすか」

「そうじゃ。そこでじゃが、おはんの家来に鉄砲名人がおったな。伊勢街道を逃げ帰る途中で井伊直政を撃ちとった…名は…」

「柏木源藤でごわすな」

「そうじゃ、源藤じゃ。あれに一働きさすっとが良か。忠恒の用意する刺客を源藤が射止めれば事は済む」

「確かに、源藤は朝鮮の船戦で敵の大将を射殺して、さらには伊勢街道でも井伊の殿様を撃って落馬させもした。腕は確かでごわす」

「うむ。頼むど」

「殿…」

「何じゃ」

「忠恒様の動きを全て読み切るのは無理がごわすが…」

「忠恒の刺客を必ず討ち取るちは言い切れんか」

「申し上げにくうございもすが、左様で」

「…うむ。そん時は忠真の命運が尽きた、ち思うこととしよう」

 忠兄の念押しに、義弘は観念した表情で答えた。

「分かりもした。では、さっそく手配いたしもす」

 忠兄は平伏して退室した。


 その頃、新四郎の部屋を忠恒の侍女が訪ねて来た。

「若殿さまがお呼びでございもす」

「今宵は腹痛で体調が勝れぬ故、ご遠慮申し上げもす」

 障子越しの囁きに新四郎は用意していた回答で答えた。

 一拍の沈黙の後、侍女は来た時同様に静かに去った。

 新四郎は燭台の灯りを吹き消すと、そっと障子を開けて忠真の部屋に向かった。

 忠真は背を向けて端座していた。

 広い肩は何も言わないが、新四郎を待っていた事を物語っていた。

 新四郎も黙って忠真の背中にしな垂れかかった。

「お待たせいたしもした」

 新四郎が忠真の耳元で囁くと、振り向いた忠真は黙って新四郎の背に手を回して抱きしめた。

 新四郎は忠真に身体を締め付けられる喜びに酔い痴れた。


 翌日、一同は屋敷の門前で馬首を揃えた。

 ひと際目を引くのが忠真の白馬である。

 忠恒の栗毛も筋肉が盛り上がり堂々の体躯であるが、忠真の白馬には見劣りがした。

「見事な白馬じゃな、忠真。これが南蛮馬か」

 鞍上の忠真を見て義弘が感嘆した。

「亡き父の祝言祝いでごわす」

 忠真のさらりとした説明に、父を斬殺された嫌味は無い。

「…」

 忠恒は忠真の乗り馬を冷ややかに見詰めた。

 新四郎は、無邪気に忠真の白馬に見惚れている。

 一瞬であるが、新四郎と忠真の目線が絡み合った。その様子に気付いた忠恒は、新四郎のうっとりとした表情が身内を誇るように見え、昨夜の拒絶の理由を邪推した。

(さては、昨夜は忠真と…。まあ今夜、新四郎を呼んであやつが来れば儂の思い過ごし)

「では、行きもす。父上、留守を頼みもす」

 忠恒は邪念を振り払うように義弘に一礼して馬首を翻し、一同もそれに倣った。

 忠恒一行は、昼に霧島神宮に着き旅装を解いた。

 島津氏の尊崇する霧島神宮は、これまでの遠征や様々な行事を行う度に神意を尋ね、禊を受けてきた。

 その日は参覲の無事を祈る神事が執り行われ、専用の宿舎で一夜を明かした。

 その夜も新四郎は忠恒の誘いを体調不良を理由に断った。

「おのれ、忠真め。儂のお気に入りの稚児を横取りしおって」

 忠恒は嫉妬で歯噛みした。

「殿、野尻城の福永様より書状が届きもした」

 悔しさに顔をゆがめた忠恒であったが、近習の声でふと正気に戻った。

(もちっとの辛抱じゃ。忠真亡き後は新四郎は儂のものじゃ)

 手紙を手に取った忠恒は、自分に言い聞かせた。

 日向伊東氏の連枝にあたる福永佑友は二十数年前から、薩摩との国境近い野尻城の城主であった。

 当時、伊東氏の家臣であった佑友は飯野城主であった義弘の盛んな攻勢に危機感を抱き再三再四、主君義佑に警告を発した。

 しかし、義佑は中々取り合わず、とうとう三千の伊東軍は飯野の木崎原で義弘の僅か三百の手勢に大敗した。

 そのような危機的状態にも後詰を出さない義佑にしびれを切らした佑友は、ついに義弘に寝返り、その事は島津氏の日向侵攻の大きな足掛かりとなった。

 佑友の功績を大いに認めた義久は、島津氏に仕えた後も佑友を野尻城主としていた。

 島津氏に寝返った当時の佑友は二十代半ばの若き城主であったが、今は五十を過ぎた老人である。


 八月十五日、黄色く色づいた稲穂が風に揺れながら日の光を跳ね返している。

 畔草刈りに精を出していた次右衛門は、腰を伸ばした姿勢で稲穂の海をうっとりと眺めていた。

「旦那さまー、お茶でごわんど」

 声の方へ振り向くと、裏庭の合歓の木の下からあざみが土瓶を両手で掲げていた。緑陰の下であざみの笑顔が輝いた。

 二人は合歓の根元に並んで腰かけて、土瓶の白湯を啜った。

「この合歓も太うなった」

「はい、本庄川の畔で旦那様が枝を取りもしたな。あれから…」

「二十年は経った。思えばあっという間じゃったな」

 二人はしみじみと合歓の木を見上げた。

 次右衛門はあざみの目じりの皺に目を止めた。頭を覆う被り物の下には幾筋もの白髪がある。

「おはんも歳を重ねたの」

「すんもはん、四十の婆様になりもした」

 あざみは笑みを湛えたままいたずらっぽく頭を下げた。

「いやいや、おはんを貶してはおらんど。儂こそ四十二の白髪頭で遠目しか利かん年寄りじゃ。何ち言うか、おはんを嫁に貰うてからあっち言う間に年が過ぎた。早かった」

 次右衛門は空を見上げた。

「はい、旦那様があの草原で鉄砲の稽古をされとる時も、こげな青々した空と真白か雲が幾つもありもしたな」

 あざみもにこやかに空を見上げた。

「ああ、じゃった、じゃった。あん時、おはんはシマヘビを怖じせして、おいに掴みさがってきた」

 次右衛門は笑って、あざみを振り向いた。

「そげな事を言うて。好かん」

 あざみはぷいと横を向いた。

「思えば、おはんを嫁女に貰うてから戦働きばっかいじゃったな。留守勝ちで難儀ばっかい掛けたが、よう家を守っちくれた」

「改まっせ、そげな事を言わるっと気色が悪か。どこか具合が悪かひか」

 あざみは楽しそうに次右衛門の顔を覗き込んだ。

「どこもどげんも無か。亭主が嫁女を褒めたらいかんか。おはんは、おいには勿体無か良か嫁女じゃ」

「旦那様も長い間ご苦労様でございもした」

笑っているあざみの目が潤んできた。

 次右衛門は、あざみの両肩を抱き寄せ、あざみは子犬のように次右衛門の懐に抱かれて夫の匂いを鼻腔に満たした。

「そげん言えば、新右衛門は何をしよる」

 押川家の現当主は新右衛門である。次右衛門はそっとあざみの体を起こして尋ねた。

「はい、先ほど地頭屋敷から役人が来られて相手しちょいもんど」

「ふーん。どれ、続きを始めんないかん」

 腰を上げた次右衛門が鎌を手にしたとき、新右衛門が駆け足で近づく姿が目に飛び込んで来た。

「父上―」

「どげんした」

「地頭どんより、お達しでございもす」

 新右衛門は息を切らしながら話し出した。

「儂にか」

「はい。只今、若殿様が大坂参覲の途上じゃそうで、その途中で鹿狩りを催されるそうでごわす」

「鹿狩り…。そいで、儂に何の用かの」

「ついては鉄砲名人二名を射ち手に準備せよち、若殿様直々の命でごわすげな」

「鉄砲名人二名、二名ちは…」

「はい、父上と叔父上がご指名されもした」

 息を整えた新右衛門は答えた。

「で、いつ何処に行くとや」

「明日の丑の刻までに野尻郷の戸崎城に来て一晩泊まって狩りは明後日、ちお達しでございもした」

「えらい急な話じゃな」

「大丈夫でございもすか」

 困惑気味の次右衛門をあざみは不安げに見詰めた。

「何、鹿狩りの加勢じゃ。大した事はなか。明日の朝立って明後日の日暮れ前には帰る」

「はい…」

 あざみは胸騒ぎの収まらない様子である。

「おいおい、戦じゃなか。ただの鹿狩りじゃ、明後日は鹿肉を担いで帰って来っど。楽しみに待っちょけ」

 次右衛門は笑いながらあざみの肩をそっと叩いた。


 翌日の朝、次右衛門は身支度を整え草鞋に足を通した。

 父の代からの火縄銃は前日に手入れは済ませていた。

 右足を結び、左足の紐を結ぶとぷつりと切れてしまった。

「あっ」

 あざみは不安そうに次右衛門を見詰めた。

「ちょしもた。力が入り過ぎた。ははは」

「大丈夫でございもすか」

 次右衛門は笑っているが、あざみは心配そうに次右衛門を見詰めている。

「おいおい、此度は戦じゃなか鹿狩りじゃ。心配すんな。まあ用心はすっで」

 次右衛門はあざみの肩を軽く叩いて家を出た。

 庭には新右衛門が待っていた。

「新右衛門、留守を頼むど」

「はい、ふっとか鹿を待っちょります」

「おお、楽しみにしちょけ」

 次右衛門は、古い火縄銃を担いで朗らかに屋敷を後にした。


 戸崎城は野尻城の一里東に位置する小城で、戸崎川沿いの街道を見下ろす崖上の小さな要害である。

 天ヶ城で落ち合った平馬も、大坂で狙撃型の火縄銃を手放したので古い型の銃を持参していた。

 戸崎城では、福永佑友が次右衛門と平馬を待っていた。

「実は、参覲途中の中納言様が明日この地で鹿狩りを所望されやっせな。鉄砲名人を二人用意せいちお達しがあっての。鉄砲の名人ち言うたら、この辺りで押川次右衛門と淵脇平馬の名を知らん者はおらんから、一も二もなくおはん達に急な頼みをした次第よ」

「それは名誉なことでございもす。一所懸命務めもす」

 次右衛門は、笑顔の佑友に答えた。

「拙者も精いっぱいお努めしもす。ただ、鉄砲は永らく使うておりもはんので試し撃ちをしたかとごわすが…、のう義兄上」

 平馬の問い掛けに次右衛門は頷いた。

「おー、おはん達がこん仕事を受けてくれて儂も一安心じゃ。試し撃ちなら、南の馬場でしやれば良かど。弾と火薬も準備してあっど。そいと、おはん達はここに泊まってくいやんせ」

 佑友は胸をなでおろすと、また元の好々爺に戻って野尻城へ帰って行った。

 次右衛門と平馬はさっそく馬場に出向き、的となる丸太を見繕って銃の試し撃ちに取り掛かった。

 歩数で距離を測り、三十間の距離で射撃を始めた。

 次右衛門は立ち撃ちで狙いすまして引き金を引いた。

「バンッ」

 銃声が鳴ったが、的には何の変化もなかった。

「何処に飛んだや」

「左後ろの雑木林で音がした。三尺は外れたど」

「ふむ、では狙いをずらしてみる」

 次右衛門は五間近づいて、的から右に狙いをずらして引き金を引いた。

「バンッ」

「ありゃ、こんどは上に一尺じゃ」

 こうして距離を徐々に縮めて、最後に的の端に当たった所で次右衛門は銃を下ろした。

「二十間か、こりゃ話にならんな。関ヶ原で撃ってから鉄砲はご無沙汰じゃったから腕が落ちた。おはんの作った鉄砲でどんぐり弾が四十間で当たったのが不思議じゃ」

 次右衛門は今更ながらに平馬の鉄砲造りと弾丸の工夫に舌を巻いた。

「義兄者、気づくのが遅かど」

 平馬は苦笑した。

「済まん。さて、どげんするや。いざ鹿を狙うて外したら恥じゃっど」

「困ったのう。この鉄砲なら二十間、出来れば十五間は近寄らんと当たらんど」

「うーむ、鍜治場を探して出て来た三発は持って来たどん」

 平馬は懐を探った手を開いて見せた。

 三発のどんぐり弾が掌で鈍く光った。

「おー、これなら当たる」次右衛門は、目を輝かせた。

「菜種油は」

「あっど〈ある〉」

「じゃっどん三発か…、試し撃ちも出来んな」

「すんもはん」

「おいおい、責めちょらんど」

 次右衛門は苦笑した。

「まあ、この辺の鹿はのんきもんじゃから十五間くらい近づいても逃げはせんじゃろ」

「義兄者がそげん言えば、気が楽になった。では、義兄様には敬意を表して」

 平馬はどんぐり弾二発と菜種油を染み込ませた布切れを油紙に包んで、次右衛門に渡した。

「良かとか」

「義兄じゃからな」平馬は、笑った。

 二人は城へと戻った。


 その日の夕刻、二人の泊まる小屋の戸が鳴った。何事かと平馬が戸を引いて開けると、二人の人影がぬっと入って来た。一人は佑友、もう一人は絹服馬乗り袴で一目で位の高い人物であることが分かった。

 絹服の男は、土足で床を上り上座に座った。佑友は上がり框に端座した。

「中納言忠恒様である」

 佑友は神妙な顔で告げた。

「ははっ」

 二人は佑友の下座に畏まろうとしたが、小さな建屋は土間が狭くて収まりそうにないので、入り口の外に平伏した。

「直答許す。押川次右衛門、淵脇平馬、じゃいか」

 忠恒は、問い詰めるように質した。

「ははっ」

 二人は平伏したまま答えた。

「二人に上意討ちを命ずる。絶対に他言無用」

「…」

(鹿撃ちの筈では…)戸惑いを覚えた次右衛門と平馬は意味が分からず、思わず顔を上げた。佑友までもが同じ表情である。

「だ、誰を討てと仰っいもすか」

「伊集院源次郎忠真じゃ」

 次右衛門の問いに、忠恒は吐き捨てるように言った。

「明日、あんワロ〈野郎〉は鹿狩りに行く。狩場で撃ち殺せ。行縢を鹿と間違えたち言えば言い分が立つ。絶対仕損ずるな」

 そう言うと、忠恒は腰を上げた。

「い、伊集院様の目印は何か有りもすか」

 我に返った次右衛門が必死に問いかけた。

 忠恒は小屋を出て足を止めた。

「目印か…、あんワロは白馬に乗っちょる」

「ハクバ…」

「真っ白か馬じゃ。褒美は追って沙汰する」

 忠恒は苛ついた声で吐き捨てるように答えて、馬に乗った。

 上半身を起こした次右衛門と平馬は顔を見合わせたまま、呆然とした。

 騎乗の忠恒と佑友は、夕暮れの草原の細道を去って行った。

「どげんする…義兄者」

「困ったな」

「お断りは出来んかな」

「断れば切腹、お家は断絶やろ」

「やるしか無かとか…」

「うむ、やるしか無かな」

 悄然とした二人は、無理に決意を固めた。

 そこへ入れ替わるように勤番の侍が入ってきた。

「猪肉が焼けもした。焼酎も」

 侍が手に持つ杉枝に刺さった猪肉が、程よく焼けて香ばしい匂いがした。

小脇には一升徳利を挟んでニコニコ顔である。

「どげんかしもしたか」

 男は別棟の炊事場にいたので、先ほどのやり取りは気付いていなかった。

「ちぃっとお訊ねしもすが、ここ返で鹿狩りすると何処が良か場所な」

「鹿なら、北の山脈の麓が宜しゅごわんど。今は発情期じゃっでヒーンヒーンち鳴くから居場所はすぐ分かりもすど」

 次右衛門の問い掛けに、男はその方角を指した。

「どげな山で、麓はどげな地形でごわんどかい。川はいけんな」

 平馬が矢継ぎ早に質問を繰り出した。

「そうじゃひな」

 男は土間に棒きれで地形図を描いて見せた。

 二人は地形図を指して、不明点を何度も尋ねた結果、三角形の隘路状の地形が閃きを与えた。

「ここなら勢子を使うて鹿を追い詰むっとに良か場所じゃなかな、義兄者」

「うむ、ここじゃ。伊集院様もここで鹿狩りをされるやろ。ここは何ち言う所じゃひか」

「角内でごわすど」

「よし、平馬、角内で待ち伏せじゃ」

「分かりもした。さて猪肉を頂っど」

 気持ちの切り替えの済んだ二人は猪肉に齧り付いた。


 その頃、野尻城では忠恒が苛々しながら、侍女の差し出す焼酎を盃に受けていた。

 苛立ちの原因は新四郎である。

 新四郎は今夜も体調が優れぬ故、と忠恒の夜伽を断っていた。

 思い返せば、霧島神宮からここまでの道中も新四郎と忠真は度々馬首を並べて夢中に話し込んでいた。

 熱心に話しかける新四郎に向かって鷹揚に受け答えする忠真の態度は、謀反人の卑屈さは微塵も感じさせなかった。

 男同士で楽しい会話などしたことの無い忠恒は、忌々しさを堪えるのにかなりの忍耐を必要としてきた。

「じゃっどん、もう我慢は今日までじゃ」

 忠恒は盃を煽り、すかさず差し出した。

 瓶子を持つ侍女の白い手が、忠恒の脳裏に新四郎のしなやかな指を蘇らせた。

「おのれ、おのれ」

 忠恒はぐっと杯を干して差し出すと、侍女はおどおどしながら瓶子を傾けた。

「今頃、新四郎はあんワロと乳繰りおうておるのか」

 忠恒は鹿児島城でたった一度だけ味わった新四郎の肉体を思い出して嫉妬に狂った。

「そげん忠真が良かか、新四郎。じゃれば…、忠真とずーっと一緒に居れ」

 忠恒はふと閃いた企みに満足して冷笑した。

「来よ」

 忠恒は盃を置いて、侍女の手を引いた。


 朝になった。

 次右衛門と平馬は、日が昇るのが待ちきれないように城を出た。

 目指すは角内である。

 行ったことの無い場所で狙撃をするのだ。どうしても地形や地物を確かめて、狙撃場所を決めねばならない。

 何より、忠真一行の先回りをして身を隠す必要があった。


 次右衛門と平馬が戸崎城を出た一刻ほど後、野尻城の二の丸では狩り装束に身を包んだ忠真と新四郎が談笑しながら忠恒の現れるのを待っていた。

 やがて、現れた忠恒は平服姿であった。

「儂は気分が優んで、おはん達二人で行きやい。昨夜の焼酎が旨うてちぃっと過ぎた。そいに佑友の宛がうた女子も良かったど。がはは」

 忠恒は上機嫌である。

「じゃれば、行ってきもす」

 忠真が鐙に足を掛けた時、忠恒が止めた。

「忠真、待ちやい」

「はっ」

「おはんの自慢の白馬じゃが、折角の機会じゃ今日は新四郎に貸せてはどげんか」

 忠恒は朗らかに新四郎を見詰めた。

 新四郎は忠恒の思い掛けない配慮に喜び、忠真に振り向いた。

「殿の言われる通りでごわすな。今日は新四郎と乗り馬を替えもんそ」

 忠真は新四郎の嬉しそうな顔を見て、笑って愛馬の手綱を新四郎に渡した。

 綾藺笠に行縢、弓籠手姿の二人の騎馬姿は傍目には区別がつかない。狩衣と弓籠手の柄が違うから、どちらが忠真でどちらが新四郎か判別出来るが、それはこの場にいる者しか知らない事である。

「太か獲物を待っちょっど」

 忠恒は上機嫌で二人を見送った。

 忠真と新四郎の供が後に続き、一行は城門を出て行った。

 忠恒は自分を見詰める視線に気づき、振り向くと佑友が物言いたげな表情である。

「何か、佑友」

「乗り馬を替えさせたのは、不味くはございもはんか」

「おはんが用意した鉄砲撃ち次第じゃ。儂はおはんの人選を信用しちょっど。佑友」

 忠恒はニヤリと笑って屋敷に引き返した。


 次右衛門と平馬は、昨夜の賄の侍の助言を頼りに目指す狩場に徒歩で向かった。

 九州山地の南端に位置する野尻は緩やかな起伏の丘陵地帯で、谷あいの小川沿いや湧水を利用した水田が点在する長閑な山村である。

 時々出会う農夫に道を確認し、角内へ向かう二人だったが、杣道はなだらかな丘陵地帯を分け入っていた。丘陵はブナ、カシ、シイなどの樹林に包まれ、道はいつの間にか小川に沿っていた。

「うむ…」

 平馬は、ふと立ち止まった。

「どげんした」

「…」

 次右衛門の問いに、平馬は無言で耳に手を当てた。

「ヒーン」

次右衛門の耳にも微かな鹿の鳴き声が聞こえた。

(狩場が近い)

 二人は、無言で目くばせして火縄銃の装填を始めた。


 次右衛門と平馬が小川を遡って暫く経つと、忠真と新四郎の一行がさきほど二人が立ち止まった場所にたどり着いた。

 なだらかな丘陵は疎林に覆われ、小川の流れは緩やかである。

 秋の日差しが木々の枝越しに差してくる。

 小鳥のさえずりと涼しい風が何とも言えない風情を醸している。

「良か風が吹く、新四郎」

 忠真は馬首を並べる新四郎に笑った。

「本なこと、良か風が吹きもすな」

 新四郎はうっとりと忠真を見詰め返した。

 二人の従者たちは、そんな風情には無頓着でぺちゃくちゃと世間話に夢中である。

〈せっかくの遠乗りが、あの連中が一緒では気分が削がれる)

 新四郎はがやがやと雑談の声がする背後を振り向き、小さく舌打ちした。

「どげんかしたや、新四郎」

 忠真は新四郎を気遣った。

「忠真様、供の者たちは先に帰らせもんそ。連中がおっては鹿が逃げもす」

 そう訴える新四郎の濡れた瞳が忠真の気をそそった。

(二人きりになりたい)

 口にしなくても新四郎の瞳はそう訴えている。

「そうじゃな」

 忠真はそっと鐙を蹴って馬の行き足を止め、馬首を後ろへ向けた。

「おまいたちは先に帰っっせ、鹿鍋の準備をしちょけ」

「はい、分かりもした」

 供の者たちは、主の指示に従い今来た道をぞろぞろと引き返していった。


忠真と新四郎の従者たちが、ぞろぞろと杣道を控えしていくのを、木陰に蹲って見送った忠兄と源藤はのっそりと道に出た。

「あれは、誰の供でごわんそかい」

「忠真公と平田様の供じゃろうな」

忠兄は源藤の問いに答えた。

「お供だけが引き返すちは、忠真様はもう殺された後じゃなかひか」

「じゃれば、大慌てで走るじゃろから、まだじゃろ。じゃっどん、急げ」

「はっ」

 忠兄にせかされた源藤は急いで銃に装填し、火縄に点火した。

 源藤の射撃準備が終わると、二人は早足で杣道を進んだ。

 やがて、遠くに二人の騎馬武者が見えてきた。並み足でゆっくりと歩いている。

「間に合うた」

二人の騎馬武者は共に綾藺笠に弓籠手、行縢姿で遠目には区別がつかない。

 馬は栗毛と白馬である。

「火薬の匂いがしもす」

「火薬の匂いなら、おまいの鉄砲からずっと匂うちょるが」

「違いもす。風上からでごわす」

「いかん、急っど」二人は全速で駆けた。

 二人の騎馬武者に声が届きそうな距離に詰まってきた。

「危な…」

「バンッ」

正に、忠兄が声を上げると同時に銃声が響いた。

「し、しもた」忠兄は思わず声を上げた。

 どさりと白馬の武者が落馬して道に頽れた。

 杣道沿いの小川の向こうの疎林にうっすらと煙が見えた。

 忠兄が源藤を振り向くと、源藤はすでに膝撃ちの姿勢を取っていた。

「見ゆいか」

「探しもす」

源藤は、落ち着き払った声で答えた。


「新右衛門っ」

 栗毛の武者は悲痛な声で叫んで下馬した。新右衛門は胸を直撃されて事切れていたが、それでも忠真は必死に新右衛門を抱えて揺すった。

 その声を聴いて、疎林の中の次右衛門と平馬は顔を見合わせた。

「おいが撃ったとは、忠真公ではなかとか」

 次右衛門は思わぬ展開に息を呑んだ。

「とにかく、上意は果たさにゃいきもはん。栗毛の方が忠真公じゃれば、おいが撃ちもす」

平馬はそう言うと、銃の狙いを介抱している武者に向けた。

「バシィ」

平馬のではない銃声が響いた。

「あっ」

 平馬は、左上腕に受けた衝撃に声を上げた。

 次右衛門が目を遣ると、平馬の左腕はだらりとぶら下がっている。

 小川を挟んだ向こうの疎林に一筋の煙が見えた。鉄砲を構えた男が見えた。

「あれは柏木源藤じゃ。義兄者は忠真公を撃ち取りやんせ。おいは源藤を殺りもす」

「平馬、そん腕でか」

「早う」

「分かった」

 平馬は、次右衛門を急かすと右腕で銃と被弾した左腕を抱えて一間ほど離れた先の岩に転がって行った。 

 次右衛門は急いで銃腔の清掃と再装填に取り掛かった。

 平馬は右腕で銃身を岩に乗せて、銃口を煙が上がった場所に向けた。しかし、そこには誰もいなかい。

「源藤、おはんも馬鹿じゃなかな」

 平馬はそう呟くと、銃口をゆっくり振りながら源藤を探した。


「忠真様っ」

 忠兄は駆け足で忠真に近づきながら声を張り上げた。

「誰じゃ」忠真は新四郎を抱えたまま後ろを振り向いた。

「維新様に仕える川上忠兄でございもす。忠真様、鉄砲に狙われておりもす。お逃げ…」

「バンッ」

乾いた銃声と共に、忠真は新四郎にばたりと被さった。

「あっ」

忠兄は、膝から下の力が抜けてへたり込んだ。


 平馬は銃口で覗くように対岸の疎林を探った。視線の端が一瞬光った。銃身の反射光だ。銃口を向けると、にやけた源藤がこちらに狙いを定めていた。巨済島で、源藤に鉄砲術を教えた時が蘇った。(源藤は、おいがうっかり見せたどんぐり弾を欲しがったな)

「源藤、欲しがったどんぐり弾をくれちゃる」

「バンッ」

「バンッ」

二発の銃声が重なった。


「ガサッ」

 忠真を抱え起こした忠兄の背後で物音がした。振り返ると牡鹿が誰何するように、忠兄を見据えていた。牡鹿は忠兄をじっと見詰めてからぷいと顔を背けると、森へ駆けて行った。

「押川次右衛門でごわす」

 声に気付いて見上げると、新四郎と忠真の死体のそばに鉄砲を抱えた男が立っていた。

「おはんが押川次右衛門か。おいは…」

「川上忠兄様でごわすな。先ほどの名乗りが聞こえもした」

「おいは、維新様の密命でおはんの上意討ちを止めに来たが間に合わんかった」

「さようでございもしたか」

「あっ」

 顔を上げた次右衛門の顔を改めて凝視した忠兄は言葉を失った。関ヶ原での井伊直政の狙撃を思い出したのだ。

「何か」

「おはんは、関ヶ原で井伊直政公を鉄砲で狙撃した男じゃなかな」

「左様でございもす」

「おはんにも聞こえた筈じゃが」

「何が聞こえたとでございもすか」

「柏木源藤が井伊直政公を狙撃した話よ」

「はい、そん噂は聞きもした」

「じゃったら、何で黙っちょった。おはんの手柄を横取りした源藤はそん時の手柄で石高を増やしたど。もっとも、源藤が横取りしたとでは無くて、おいがおはんを源藤に見間違うて横取りさせたとじゃっどん」

「我が主の豊久様を失うてしまえば、あれは手柄じゃごわはん。柏木とかいうお人の手柄になれば、そいはそいで良かち思いもした」

 次右衛門は、忠兄の問いに淡々と答えた。

「おはんの無欲には呆るっど」忠兄は拍子抜けした顔になった。

 二人は暫く見詰め合ったが、不思議と敵意は湧かなかった。

「ところで、川上様。ひとつ、合点が行きもはん」

「おはんは、中納言様に上意討ちを命ぜられて忠真様を狙うたじゃろ」

「はい、忠真様は白馬に騎乗しやるち言われもした」

「やっぱいな、おはんが始めに撃ち倒した武者は平田新四郎じゃ」

「平田…」

「ご家老の跡取りじゃ」

「えっ、では白馬は平田様の馬でございもしたか」

「うんにゃ、白馬は忠真公の馬じゃ」

「じゃれば、何で乗り手が入れ替わったとでございもすか」

「おいの見立てでは、馬を乗り換えさせたのは中納言様の謀じゃ」

「中納言様…、何ごてでございもすか」

「恐らく、良か二才を忠真公に取られた腹いせじゃろ」

「そげな…、男の嫉妬で…」

 次右衛門は自分が撃ち果たした新四郎を見詰め、虚しい思いで首を振った。

「ところで、おはんの狙撃場所は何処じゃいか」

「あの合歓の木の陰でございもす」

「何処じゃ…えっ、あん合歓の木か」

「はい」

「偉い遠かな…三十間いや、まだ遠かな」

「四十間でございもす」

「四十間、恐ろしか腕前じゃ」

 忠兄は、次右衛門の全身を舐めまわすように見詰めた。

「為すべきを為したまでの事でございもす」

 次右衛門は関ヶ原で自刃した豊久の最後の言葉を思い出して、そう答えた。

「互いの連れの安否が気になるな」

 忠兄の提案で、二人は源藤と平馬の元へむかった。

 源藤は心臓を直撃されていた。

「あっ確かにおいと瓜二つでごわすな」

 次右衛門は、源藤の相貌が自分に酷似していることに改めて驚愕した。

 平馬は、岩にもたれるように斃れていた。顔を起こすと、目を見開いたまま額を撃ち抜かれていた。

「平馬、おはんもおいも為すべきを為した。お互い、ようやった。直ぐに再会じゃ」

 次右衛門は平馬の見開いた瞼をそっと閉じた。

 次右衛門に何故か悲しみの感情は湧いてこなかった。達成感で高揚している自分を感じている。平馬も同じだろうと思った。

「川上様、おいは中納言様の命で上意討ちを果たしもした。じゃっどん殺さんでよか人を殺し、川上様が維新様から受けた密命を邪魔しもした。我が首を差し上げて詫びといたしもす。介錯をお願いいたしもす」

 次右衛門は平馬の側に端座して、腹を寛げて脇差を抜いた。

 忠兄は黙って次右衛門を見詰め、深く頷いた。


 夕刻、忠真の白馬に跨った忠兄は新四郎の栗毛を引いて野尻城の城門に現れた。

 門番の知らせで忠恒と佑友は急いで出て来た。

「若殿、福永殿。川上忠兄でござる」

 すでに馬を降りていた忠兄は、編み笠を脱いで片膝をついて挨拶した。

「あっ、忠兄。何ごてここへ来た」

 忠恒は思わぬ人物の出現に驚いた。

「維新様の命でございもす」

「父の…、あっ、こや何や」

 忠恒は問い掛けの途中で、栗毛に乗せられた二つの死体に気付いて驚いた。

「一つは伊集院忠真様のご遺体、もう一つは平田新四郎様のご遺体でごわす」

「ええっ」

 忠恒も佑友も驚いて声を上げた。

「た、忠兄がやったとか」

「違いもす。二人を撃ち果たしたのは穆佐住人押川次右衛門でごわす」

「押川がやったか」

 佑友は目を見開いた。

「じゃっどん、おいは忠真を殺れちは言うたが、新四郎まで殺せちは命じちゃおらんど」

 忠恒は怒っている。

「次右衛門は、『殿に白馬の武者を撃て、ち命じられ、そうしたところ、何故か人が入れ替わっており、すかさず栗毛の武者を撃ち果たした』、そげん申しておりもした」

 忠兄は淡々と応じた。

「ふーん、何ごて乗り馬を替えたとじゃろかい。さては新四郎がねだったか」

「…」

 忠恒の平然とした口ぶりに、佑友は何か言いたげな顔であった。

「佑友はどげん思うや」

 忠恒は佑友をじろりと見詰めた。

「そげんじゃったとでございましょうな」

 佑友は引きつった顔で答えた。

「ま、佑友がそげん言うのなら二人が語り合うて乗り換えたとじゃろ。じゃっどん、こいは困った。新四郎の父の増宗には詫びのしようが無かど。そもそも、新四郎を誤射した押川とやらは、何でここにおらんとや」

 今度は問い詰めるように忠兄に尋ねた。

「連れてきておりもす」

 忠兄は、白馬の鞍壺を示した。

 そこには次右衛門が着ていたであろう小袖の包みが結わい付けられていた。

 その大きさは中身が首であることを物語っていた。

「誤射に気付いた次右衛門は忠真公を撃ち果たした後、すぐさま自裁しもした。あっぱれ武士の鑑でございもす」

「ふむ。下手人が首を差し出したのなら増宗も納得してくれるじゃろ」

 傍らの佑友は、忠真、新四郎と次右衛門の身に起きた事に深く同情し、今にも泣きそうな顔でその包みを見詰めた。

「ところで、忠兄は父上の命で来たち言うたが、儂には訳が分からんど」

 忠恒は猜疑心を顔に出して尋ねた。

「維新様に置かれもしては、中納言様の決意は予想されちょりもした。拙者は中納言様の企てが見事成就されるよう、密かに検分と場合によっては加勢致すよう、維新様に命ぜられた次第でございもす」

 忠兄は澄み切った瞳で見返して答えた。

「何、父上が儂の企ての成就を願うておいやったとか。まことか、嬉しかど。今まで父上と伯父上には何かち言えば、小言ばっかい言われ続けてうんざりしちょったが。遂に父上も儂をお認めになられたか。あー嬉しか。忠兄からも父上へ儂が嬉しがっちょった、お礼を言うた、ち伝えてくれ」

 忠恒の顔は、一転喜びに満ち溢れた。

「それは出来もはん」

 忠兄は首を横に振った。

「えっ、何ごてか」

「此度の件は、上意討ちとは言え建前は鹿狩りの誤射の筈、それを維新様や大殿様が事前に知っておったでは辻褄が合いもはん。今日の出来事は、あくまで突然の誤射じゃから中納言様も維新様も大殿様も何も知らぬ存ぜぬ。そういう事でございもす」

「なるほど、確かにそうじゃ。危うく上手の手から水が漏るとこじゃった。はははは」

 忠兄の説明に、忠恒は納得し愉快に答えた。

「ところで、押川の連れの淵脇平馬はどげんした」

 佑友は心配そうに尋ねた。

「あの者も次右衛門と連座して自裁しもした」

「左様か。とにかく、忠兄の手配りの良さはまっこち見事じゃ。父上が頼りにする筈じゃ」

 忠恒は感心しきりで何度も頷いた。

「恐縮に存じもす」

「これで儂も心置きなく大坂へ参覲できる。佑友、忠兄、ご苦労であった。礼を言うぞ」

 こうして、忠恒は大坂への旅を続けた。

 後日、大坂城において、家康への拝謁を無事に終えて次期当主のお墨付きを得た忠恒は、暫く後に薩摩藩初代藩主家久となった。


 次右衛門の突然の死から二年目が近づいてきた。

 その日、あざみとなつの二人は草原の一角で一心に野菊を摘んでいた。

 あざみはここ二年で白髪も増え、表情も乏しくなった。

 それまで、何度、戦に赴いても必ず生きて帰って来た夫が、鹿狩りに出掛けて死んで帰って来た、という現実に打ちひしがれ立ち直れないのだ。それは、傍らのなつも同じである。あざみはなつの存在を心の支えにし、なつはなつであざみを頼りとしていた。

 あざみとなつが次右衛門の墓前に野菊を供えて裏門から帰宅すると、編み笠を被った一人の男が合歓の木を見上げていた。傍らには新右衛門が立っている。

 男は近づくあざみとなつに気付くと、ゆっくりと編み笠を脱いだ。

「おいの墓参りは済んだか」

 満面の笑みを浮かべた次右衛門は二人に問いかけた。

「旦那さま…」

「兄上…」

 あざみとなつに驚きと喜びの感情の大波が襲った。


 囲炉裏を囲んだ三人は、次右衛門の話す内容に改めて驚いた。

「父上、では平田新四郎様を誤射した責めを負うて首を差し出したのは」

「そう、おいと瓜二つの柏木源藤と言うお方じゃ。源藤は川上忠兄様の命でおいと平馬を返り討ちにする筈が、平馬と相撃ちで死んでしもた。相撃ちとは言え、平馬は不意撃ちを左腕に受けた上でじゃ。並みの鉄砲撃ちなら右腕だけでを源藤を撃ち果たすのは無理な話じゃ」

 なつは頬を伝う涙を拭うことなく、兄の言葉を聞き入っていた。

「おいがこうして生き永らえる事が出来たのは、平馬が源藤を撃ち果たしてくれたからじゃ。なつ、すまんのお」

「何の、兄上がこうして生きて帰って来れたのじゃから家の主人も本望でごわすぞ。草葉の陰できっと喜んでおりもす」なつは目を潤ませて答えた。

「では、父上は二年の間は柏木源藤の屋敷に居ったのでごわすか。じゃれば、どしこ瓜二つでも周囲の者に怪しまれた、ち思いもすが」

「実は、源藤は川上様の命を受けた時に、『これまで鉄砲で討ち果たした人々を供養に廻る』ち、言う名目で屋敷を出た。川上様の知恵とお力で柏木源藤となったおいは未だ帰郷せずに旅の途中じゃ」

 次右衛門は新右衛門の問いに答えた。

「じゃっどん、これからは元の押川次右衛門に戻りがなっとでごわしょ」

 あざみは期待を込めて尋ねた。

「いや、そう言う訳にはいかん。押川次右衛門は慶長七年八月十七日に死んだからの」

 次右衛門は寂しそうに答えた。

「じゃれば、これからはどげんされもすか。また、お一人で旅に出られもすか」

 あざみは必死の表情である。

「柏木源藤は、早くに嫁を亡くして独り者じゃ」

 次右衛門は、あざみの瞳をじっと見つめた。

「はい」

「そこでじゃ、おはんを後添えに欲しか」

「えっ」

「どげんじゃ、嫁に来てくれるや。ただし、旅暮らしになっど」

「行きもす」

 あざみは抱き付きたい気持ちを抑えて答えた。


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