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序章

 慶長七年(1602年)秋、一艘の大船が折からの西風を帆に受けて、ゆったりと大坂湾の波を切っている。

 順風に膨らんだ帆を背にして、大船の舳先に立った島津忠恒は街並みの奥に聳える大坂城を眼前にして、その異様な姿に度肝を抜かれて思わず叫んだ。

「何じゃあ、天守閣が二つあっど」

 二年前の関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、その時点では豊臣政権内紛の一方の代表だったのだが、関ヶ原で勝利を収めた今は豊臣政権の最高執行権者となった。

 家康はそれを広く世間に知らしめるために、それまで大坂城西の丸の主であった北政所に立ち退きを求めて居座り、小さいながらも天守閣を立てたのである。

 しかし、小さいとはいえその天守閣は大坂城の主が豊臣秀吉の息子秀頼と、家康の二人いることを如実に表していた。


「正信。やっとこさ島津が来るのお」

 家康は、西の丸の天守閣最上階から陽光をキラキラと照り返す大坂湾を望んでいる。

「ははっ。脅し透かしで足掛け三年でございましたが、ようやく」

 正信とは、家康の最側近の本多正信である。

 関ヶ原の戦いに敵方の西軍として参戦した島津氏に対し、家康は島津当主の義久の出頭を求めたり、九州の諸大名に島津討伐軍を編成させたりした。 

 家康は島津氏をあわよくば改易、それが困難なら減封して召し上げた領地を自分に味方した大名に褒賞として宛がう腹積りであった。

 がしかし、家康に負けず劣らず戦国の荒波の中で生き延び老練な戦国大名となった義久は種々弁明し、家康が次々と繰り出す島津処分策を遂に跳ね返しきった。

「まったく、百二十万石から三十七万石に簡単に削らせた輝元とはえらい違いじゃったの」

「生まれながらの大大名の毛利輝元と違い、義久は敵地を切り取り切り取り領地を拡げてきた男でありますれば、殿の如くにかなりの苦労人。それに、義弘という戦名人の弟がおります」

「ふむ。確かに義久は儂に似た所もあるな。で、義久の名代が来るのじゃったな」

「はっ、当主義久に男子なく義弘の子である忠恒に家督を譲るとのことで、その忠恒が」

「忠恒か…」

 家康は左手で顎髭をいじりながら空を見上げた。

「忠恒がどうかされもうしたか」

「四年前に伏見の島津屋敷で、豊臣、島津両属の伊集院忠棟を誅殺した者であるな」

「左様でござる。その後、忠棟の嫡男忠真が九州の領地庄内で謀反を起こし、殿が仲裁した次第で」

「そうよ、そうよ。あれで島津に恩を売って、さる東西の戦も我が方に付く手配もしたのに」

 忌々し気に右手の扇子を左手に叩き付けながら、家康は歯噛みした。

「そう言えば、その謀反人の忠真も仲裁の礼を申しに同行しておるのじゃな」

「それが、忠恒は忠真を此度の上洛の道すがら手討ちにしたと…」

「何っ」

 家康は正信を振り返った。

「つまり、忠恒は伊集院の親子ともども殺したという訳か」

「左様でござります。忠真は未だ謀反の志し有り、と忠恒の上意討ちでござる」

「おのれ、忠恒め。儂の仲裁を反故にしおって」

 家康は、とうとう扇子を両手でへし折ってしまった。


 大坂に着いた忠恒は、旅装を改めて大坂城西の丸の家康のもとへ出頭した。

「忠恒。さる日向庄内の乱の折じゃが、儂が仲裁して忠真を減知したに、何故上意討ちにしたか」

 家康は、忠恒の伺候の挨拶と領地安堵の謝礼が済むや舌鋒鋭く叱責した。

「ははっ。恐れながら申し上げもす。忠真につきましては依然として謀反の志しを捨てず、国を預かる者として止むを得ず上意討ちいたしもした」

 弁明する忠恒の背筋を下る汗を秋風が冷やした。

「何、詳しく申してみよ」

 家康は語気鋭く追及した。

「忠真は去る慶長四年の謀反の折、恐れ多くも内府様にご仲裁賜り二万石を与えて和議といたしもした。そこで、此度の上洛において忠真にも拙者同様に御礼言上にと同道を命じもした。じゃっどん、隣国の飫肥伊東、肥後加藤と文を交わしており、未だに謀反を謀っちょることが露見しもした。内府様のお骨折りの仲裁を反故にする企みが露見した上には、已む無く上意討ちを決断した次第でございもす。そこで道中催した鹿狩りにおいて、鉄砲武者に射殺を命じもした」

 忠恒は平伏しながらも、すらすら答えた。

 しかし、内心では全く違う考えであった。

(忠真の父忠棟は秀吉に取り入り、子の忠真は家康に取り入り、それぞれ島津家に獅子身中の虫として上方の隠れた手先に利用されておった。おいはその親子虫を退治したまでの事じゃ)と。

「鉄砲…」

 家康は毒殺や不意打ちによる斬殺とは違い、鉄砲の狙撃という手段に興味を持った。

「して、その鉄砲撃ちはどれ程の離れ業をみせたのじゃ」

「どれ程ちは」

 忠恒は家康の問いの意味が分からず、思わず顔を上げた。

 家康は、そんな忠恒に苛つきを覚えた。

「忠恒、元亀元年(1570年)にはそちゃ幾つじゃ」

「拙者、天正六年(1578年)の生まれ故まだ生まれておりもはんが」

「左様か、思えば随分と立つの。元亀元年五月十九日、朝倉攻めにしくじった信長公は越前から急ぎ本拠地の岐阜へと引き返しておられた。途中の美濃千草峠において、伊賀者で鉄砲名人の杉谷善住坊に狙い撃ちに遭われた。そちは知らぬか」

「はっ、何とのうは聞いちょるような」

「今の若者は、故事に疎くて頼りないのう」

「申し訳ございもはん」

 忠恒は平伏した。

「で、どうなったと思う」

 家康はちらと、忠恒に目線を向けた。

「信長公はご無事であった、ち聞き及びもすが」

「左様じゃ。善住坊は二発弾を放ちながら二発とも信長公には当たらなかった」

「はっ」

「そこでじゃ」

「はっ」

「善住坊はいか程の距離で信長公を狙ったか、そちは存じおるか」

 忠恒は杉谷善住坊の信長狙撃事件は何となく知ってはいたが、その狙撃距離など全く考えが及ばなかった。

「恥ずかしながら、存じもはん」

「十二間(21m)、十二間じゃ」

「十二間、でございもすか」

「その十二間の距離を外した善住坊の腕が大したことがなかったのか、それとも信長公の運が良かったのか。それは儂にも分からん」

「御意」

「ところで、忠真の狙撃の距離はいか程じゃ」

「検分した者の話では、確か四十間(72m)ち聞きもした」

「何っ、四十間じゃと。四十間で当てたと申すか」

 家康は驚いて忠恒を凝視した。

「はっ」

「正信、我が家中におるか。鉄砲を射て四十間先の人に当てられる者がおるか」

 今度は、傍らの正信に問いかけた。

「ははは、まさか。善住坊の使いし鉄砲と今の鉄砲では何も変わりませぬぞ。それを、名人善住坊が外した十二間の三倍を超える四十間先の人を射止めるなど、我が家中の…いや日の本じゅう探してもおらぬでござりましょう。冗談が過ぎますぞ。わははは」

 正信は、あまりの途方の無さに笑ってしまった。

「忠恒、儂を愚弄しておるのか」

 家康は笑わなかった。

「う、嘘ではごわはん。その者は沖田畷以来、朝鮮の戦においても、恐れながら関ヶ原におきましてもその腕を発揮し続けもした。現に朝鮮の春川城では、その腕前を拙者もこの眼で見届けもした」

 忠恒は慌てて説明した。

「そりゃ、真か。それ程の腕前の者なら儂に譲れ、忠恒。我が家中の鉄砲指南役に取り立てようぞ。のう正信」

 家康は目を丸くして、忠恒に畳みかけた。

「はっ、良きお考えかと」

 正信も畏まる忠恒を見据えた。

「それが、その者はもうこの世にはおりもはん」

 忠恒は、言いにくそうに弁明した。

「何、死んだと申すか」

 家康は唖然とした。

「はっ」

「何故じゃ、急な病か何かか」

「それが、その者は忠真を仕留める前に忠真と間違うて隣の家老の跡取りを誤射いたした故、責めを負うて」

「何っ、と言うことは一人ならず二人も四十間先の人に鉄砲を当てたのか。それで腹を切らせた、と言うのか」

 家康は、驚きと怒りの混じった顔で忠恒を問い詰めた。

「ははっ、忠真は二人連れでございもした。白馬の忠真、もう一人の平田新四郎は栗毛でごわしたが…そこで、拙者は前もって白馬の武者を狙えち命じもしたが、二人は乗り馬を取り換えておりもした。じゃから死なんで良かった新四郎まで射殺しもした」

(新四郎、お前はむぞ〈可愛〉かったとに…儂には懐かんかったな)

 忠恒は、自分好みの美少年だった新四郎に思いを馳せていた。

「忠恒」

「はっ」

 家康の呼びかけに忠恒は我に返った。

「しかし、腹を切らせる程の過ちか」

「何分、平田新四郎は島津家重臣平田増宗の嫡男でござれば。その責は重うございもす」

「ふーむ、惜しい者を死なせたの。して、その者の名は」

「押川次右衛門、と申しまする」

「押川次右衛門…と申すか、その四十間撃ちは。殺すには惜しかったの」

「はっ」

 家康は畏まる忠恒に背を向けた。いくら武芸に秀でた者とは言え、死んでしまえば興味はない。

「下がってよいぞ」

 立ち上がって大坂湾を見詰める家康は、軽く頷いて忠恒に退室を命じた。


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