戦国狙撃兵物語
慶長7年(1602年)、戦国大名島津義久の名代島津忠恒は大坂城で徳川家康に拝謁して、2年前の関ヶ原の戦役で敵対したにも関わらず処分を受けなかったことへ御礼言上した。
家康は、忠恒に同道していた筈の忠恒家臣の伊集院忠真を、参勤途上で上意討ちを果たしたことを詰問した。関ヶ原の戦の前年に忠真は忠恒に謀反を実行し、その仲裁をした家康は自分の仲裁を反故にしたに等しい忠恒の上意討ちに激怒したのだ。
忠恒に、忠真を火縄銃の遠距離狙撃で討ち果たしたと報告を受けた家康は、途方もない遠距離での狙撃の腕前に驚嘆し、その狙撃手を手元に置きたいと所望したが、忠恒はその狙撃手は忠恒の連れを誤射した咎で自裁したと報告した。
その狙撃手の名を訊き、その技量を惜しんだ家康は、忠恒に退室を命じて謁見は終わった。
遡ること25年、天正5年(1577年)、日向の綾に一人の若者がいた。
若者の名前は押川次右衛門。次右衛門の父は日向領主伊東氏に仕える鉄砲武者であり、次右衛門は刀工堀川国広の弟子であった。
日向から伊東氏を武力で追い出した島津氏は、日向に新たな領主として島津家久を置いた。次右衛門は家久に仕える道を選び、薩摩から日向へ渡って来た淵脇平馬と知り合い、二人は共に家久に仕える。
九州全域を手中に収めんとした島津氏だが、上方での地盤固めを終えた豊臣秀吉は、島津氏の版図拡大に待ったを掛け島津氏平定に乗り出す。
島津氏の存亡をかけた白根坂での戦いにおいて、島津氏筆頭家老の伊集院忠棟は戦闘に加わらず、島津氏は敗走する。
次右衛門と平馬は、家久、そして家久の嫡男豊久に従い島津氏の繰り広げる九州各地や朝鮮での戦役に参戦し、その狙撃術を高めていく。
白根坂での伊集院忠棟の戦闘不参加に、12年に渡り強い不満と不信を抱いていた島津氏の次期当主忠恒は、関ヶ原の戦の前年に大坂の島津屋敷において忠棟を斬殺する。
忠棟の嫡男忠棟は主家の仕打ちに謀反で応え、9ヶ月後に徳川家康の仲裁でその叛乱は終結する。
その仲裁の御礼言上の為に大坂の家康を尋ねた島津義弘と甥の豊久は関ヶ原の戦に巻き込まれ、豊久は戦死、義弘はかろうじて帰国を果たす。
関ヶ原の2年後、伊集院家をどうしても滅ぼしたい忠恒は、幾多の戦役で狙撃術を磨き上げた次右衛門と平馬に、参勤途上の忠真の狙撃を命じる。
家康は、忠恒に同道していた筈の忠恒家臣の伊集院忠真を、参勤途上で上意討ちを果たしたことを詰問した。関ヶ原の戦の前年に忠真は忠恒に謀反を実行し、その仲裁をした家康は自分の仲裁を反故にしたに等しい忠恒の上意討ちに激怒したのだ。
忠恒に、忠真を火縄銃の遠距離狙撃で討ち果たしたと報告を受けた家康は、途方もない遠距離での狙撃の腕前に驚嘆し、その狙撃手を手元に置きたいと所望したが、忠恒はその狙撃手は忠恒の連れを誤射した咎で自裁したと報告した。
その狙撃手の名を訊き、その技量を惜しんだ家康は、忠恒に退室を命じて謁見は終わった。
遡ること25年、天正5年(1577年)、日向の綾に一人の若者がいた。
若者の名前は押川次右衛門。次右衛門の父は日向領主伊東氏に仕える鉄砲武者であり、次右衛門は刀工堀川国広の弟子であった。
日向から伊東氏を武力で追い出した島津氏は、日向に新たな領主として島津家久を置いた。次右衛門は家久に仕える道を選び、薩摩から日向へ渡って来た淵脇平馬と知り合い、二人は共に家久に仕える。
九州全域を手中に収めんとした島津氏だが、上方での地盤固めを終えた豊臣秀吉は、島津氏の版図拡大に待ったを掛け島津氏平定に乗り出す。
島津氏の存亡をかけた白根坂での戦いにおいて、島津氏筆頭家老の伊集院忠棟は戦闘に加わらず、島津氏は敗走する。
次右衛門と平馬は、家久、そして家久の嫡男豊久に従い島津氏の繰り広げる九州各地や朝鮮での戦役に参戦し、その狙撃術を高めていく。
白根坂での伊集院忠棟の戦闘不参加に、12年に渡り強い不満と不信を抱いていた島津氏の次期当主忠恒は、関ヶ原の戦の前年に大坂の島津屋敷において忠棟を斬殺する。
忠棟の嫡男忠棟は主家の仕打ちに謀反で応え、9ヶ月後に徳川家康の仲裁でその叛乱は終結する。
その仲裁の御礼言上の為に大坂の家康を尋ねた島津義弘と甥の豊久は関ヶ原の戦に巻き込まれ、豊久は戦死、義弘はかろうじて帰国を果たす。
関ヶ原の2年後、伊集院家をどうしても滅ぼしたい忠恒は、幾多の戦役で狙撃術を磨き上げた次右衛門と平馬に、参勤途上の忠真の狙撃を命じる。