新月の夜に海を覗いてはいけない
深夜0時。
ほとんどの人が寝静まるような時間に、俺は車を走らせていた。
目的地は海。
夜釣りを楽しむために、行きつけの堤防に向かっている。
いつもは休日の昼間に釣りをしているから、夜釣りは今日が初めてだったりする。
仕事の同僚から聞いたんだが、夜の方が魚が掛かりやすいんだとか。
そういう訳で、仕事帰って準備を整えた俺は、夜釣りに挑戦することにした。
明日は休みだから、朝帰りになっても平気だ。
ちなみに、今日は新月。
ネットでも事前に調べたんだが、新月の夜は特に魚を集めやすいらしい。
月が隠れて、明かりが少なくなるから、外灯周り等のポイントが絞りやすくなるという。
川釣りでウナギが釣れやすくなるって情報もあったから、海ならきっと大物が釣れるだろう。
……新月。
そういえば、この地域には昔から、とある言い伝えがある。
『新月の夜に海を覗いてはいけない』。
親世代は、皆口を揃えてそう言っていた。
その理由は様々だ。
俺の家では「巨大な海蛇に襲われるから」って言われていたが、別の家では、「海難事故で亡くなった人の霊が現れるから」とか、「何かに海へ引きずり込まれるから」とか言われている。
その家によって、理由は全然違うらしい。
子供を叱る時に、「新月の海に捨てるぞ」なんて言う大人も居て、それを本気で怖がる奴も居たっけなぁ。
だけど今思えば、全部子供を叱るための迷信なんだろうな。
人生初の夜釣りなんだ。
迷信なんて気にせず、楽しむとしよう。
そうこう考えている間に、堤防付近に着いた。
道路の端に車を停め、釣りの道具を出す。
それにしても暗すぎる。
この辺は外灯が一つもない。
車のライトを消したら、辺り一面真っ暗闇だ。
念の為、懐中電灯を持ってきておいてよかった。
俺は足元を照らしながら歩く。
そうして堤防に着いたのだが、ここにも外灯が無い。
これじゃあポイントを絞るどころじゃない。
まぁ、撒き餌も持ってきてるし、しばらくしたら魚も集まってくるか。
できれば沖合に近い方がいいんじゃないか。
そう思った俺は、奥へと歩を進める。
だがその途中……。
“……ギャァ…………オギャァ………”
どこからともなく、小さくて不気味な声が聞こえてきた。
まるで赤ん坊の泣き声。
波や風の音に混ざって、それが微かに聞こえてきたんだ。
いや、流石に聞き間違いが。
それか海鳥の鳴き声だろ。
こんなところに赤ん坊が居る訳ない。
俺は気にせず前に進んだ。
途中で少し足が重くなったような気がしたが、おそらく仕事疲れからだろう。
堤防の奥に着くと、俺は道具を置く。
餌をばら撒き、紐付きバケツに海水を汲み、釣り針にオキアミを付ける。
“……ァ……オギャ……ァ”“オギャ…オギャァ………”
この間も赤ん坊みたいな声が耳に入ってきたが、俺は気にせず作業を続ける。
そうしてようやく釣りを開始した。
重りが海底に付いたのを確認し、リールを少し巻く。
それから持参した椅子に腰掛けた。
あとは魚を待つだけだ。
“オギャ…オギャ……”“オギャァ……ダッ…”“バブッ……バァ………”
待ってる間も、不気味な声は止まない。
聞けば聞くほど赤ん坊の声に近い。
初夏だというのに、流石に寒気がしてきた。
いや、多分海鳥だよな。
夜だというのに、奴らも元気なものだ。
右肩が少し重くなる。
多分これもまた、仕事疲れだろう。
帰ったらしっかりマッサージして寝ないとな。
そう考えていると、釣り糸がビクリと動いた。
掛かった。
思ったより早い。
俺はリールを巻き上げる。
だが、ニ巻きくらいしたところで、俺の手は止まった。
これ以上巻き上げられない。
巻き上げられないくらい、重いんだ。
“ォギャア…”“オギャオギャァ”“バブ……ギャア…”“ダッ…ダァ……”
不気味な声も、まるで俺を応援するかのように大きくなった。
……そんな気がした。
だんだんはっきり聞こえてくるようになっている。
それより針に食いついた獲物だ。
最初の食いつき以降、全く動きがない。
じゃあ底の岩にでも引っ掛かったのか。
カサゴか何かが食いついて、巣穴に戻ったか。
いや、そういう感じの重さじゃない。
まるで糸の先で、重い何かがゆらゆら揺れているような……。
力尽くで引っ張っているのに、竿も今までに無いくらい曲がっているのに、それでも糸が切れないのが謎だ。
“オギャァ…オギャァ……”“オギャァ…オギャァ……”“オギャァ…オギャァ……”“オギャァ…オギャァ……”
不気味な声が、さらにはっきり聞こえてくる。
海鳥だと信じたかった。
でもこれは、完全に赤ん坊だ。
まるで背後に、声の主が居るような。
早く引き上げなきゃならない。
俺は焦って椅子から立ち上がった。
そして必死に竿を引こうとする。
だが、これ以上、全く持ち上がる気配がない。
重いんだ。
重過ぎる。
竿が上がらないし、糸も引けない。
糸の先に掛かっているものも重いが、竿を持ってる両腕にも重さが掛かっているように感じる。
“オギャァ……オギャァオギャァ…”“ギャァァァオギャァアアアアア”“オギャァ……オギャァ……オギャァ……”“ダァ…オギャオギャァ……”
鳴き声がもう、すぐ後ろにまで近づいてきていた。
俺は恐る恐る、後ろを振り返る。
暗くてはっきりは見えなかったが、そこにあったのは、複数の赤ん坊の影だった。
「うわぁあアアアアアアアアアア___!!!」
俺は絶叫した。
あまりの恐ろしさに、自然と足が前に進む。
だが、海に落ちる直前でなんとか踏み止まった。
危なかった。
夜の海に落ちたら、命は無い。
何が起こっているのか解らない。
とにかくすぐにここから逃げ出したかった。
こうなったらもう、釣り竿を捨てるしかない。
そう思って、俺は竿を握る手に視線を落とした。
“ダァ!”
俺の腕には、いつの間にか赤ん坊がしがみついていた。
……暗すぎるからなのか。
赤ん坊の両目と口の中は真っ黒。
その真っ黒な口を開けて、赤ん坊は笑っていたんだ。
「ッ____!!!」
悲鳴を上げられないまま、俺の体は前へと傾く。
そのまま重力に従い、俺は海へと落ちていく。
最後に見たのは、暗い赤ん坊の海だった。