第28話 静刃の突破(Silent Edge)
リタ・サヴェッジは、濡れた地面に身を伏せたまま、呼吸を限界まで浅くした。
夜の密林。視界は悪く、湿気がすべてを鈍らせている。
だが、それは彼女にとって「使える環境」だった。
動きすぎると見つかる。
止まりすぎても囲まれる。
その狭間を抜けるのが、《フェンサー》の仕事だ。
足音。二つ。
右後方から近づく気配。
敵の巡回だろう。
リタはナイフ《レメゲトン》の柄に指を添え、わずかに体を起こす。
月明かりは届かない。葉が生い茂る密林の底、音と殺意だけが支配する空間。
──いける。
一人目は喉、二人目は後頭部。
手順は脳内で決まっていた。
彼女の動きは“速さ”ではなく“静かさ”にある。
──殺気を、出さないこと。
葉が揺れたその瞬間、リタの姿は影に溶けた。
ナイフが一閃し、血飛沫は湿った地面に吸われる。
悲鳴は上がらない。敵兵が倒れる音すら、彼女は葉と苔で打ち消していた。
「……敵偵察班、二名排除」
囁くように独り言を漏らし、リタは再び地面に伏せる。
無線は使えない。だが、声にすることで冷静さを保つ。
それが彼女の戦い方だ。
背中からハンドガン《ユリシーズ》を抜きながら、周囲の影を探る。
ジャミング範囲は広く、ノアとの連絡も途絶えたまま。
けれどそれが不安材料にはならない。
あの皮肉屋は、きっとどこかで状況を掴んでいる。
イーライは、すでにいくつかの進行ルートを確保しているだろう。
オーウェンなら、強行突破で注意を引いているかもしれない。
誰とも繋がっていない。
それでも、自分は一人ではない。
リタは腰を低くして前進を再開した。
密林の奥──衛星画像で確認された補給小屋。
そこに、ターゲットとなるデータ端末がある。
作戦通りにいかないなら、自分で仕上げるまで。
途中、小規模な哨戒グループがいた。
五名。装備は軽装。
無線機で連携を取っているようだったが、妨害電波のせいで指示系統は乱れている。
“分断はしたが、制御まではできていない”
リタは木の根を踏まず、葉を踏まず、
まるで音のない幽霊のように、敵陣の外縁を回り込む。
一人が離れた瞬間──沈黙。
次の一人が物音に気づき、振り向いたときには銃声が森に溶けていた。
サプレッサー越しのユリシーズの一発が、その眉間を貫いていた。
「……残り三」
再装填。すぐに再び前進。
彼女は正面からは戦わない。
その必要がない。
敵を一人ずつ消していくたび、補給小屋への道が整っていく。
数分後──
補給小屋の裏手に到着。
リタは腹這いのまま、わずかな隙間から中を覗いた。
小屋の中にはラックとコンソール。
そして、中央の金属製コンテナ。あれが“端末”だろう。
しかし、小屋の中には三人の兵士。
警戒は散漫。ジャミング成功で安心しているのだろう。
リタはユリシーズをしまい、再びレメゲトンを抜いた。
やることは、ひとつ。
十五秒後──
小屋の中は沈黙に包まれた。
リタは床の血を避けながらコンテナのロックを解除し、内部を確認する。
防水仕様の軍用ハードケース。その中に、目的のデータ端末が収められていた。
「回収完了。──って、言えたらよかったんだけどね」
彼女は冗談のように呟き、端末をバッグにしまう。
ここからは撤退戦になる。
敵の増援が来る前に、集合ポイントへ向かわなければならない。
リタは静かに立ち上がる。
その瞳には、一切の迷いも動揺もなかった。
──繋がらないなら、信じればいい。
──信じられるなら、動けばいい。
《フェンサー》は、森の奥へと消えていく。
何も言葉を交わさなくても、
この任務は、必ず成功させると信じて。




