第19話 ファイアウォールの向こうで(Echo in Silence)
暗い部屋に、キーボードのカタカタという音だけが響いていた。
ノア・リンはラップトップの前に腰掛け、複数の仮想ウィンドウを並べていた。
画面には、例の雪山施設で取得した暗号化データ群が広がっている。
「研究記録、通信ログ、監視映像……そして、音声ファイルか」
膨大な情報を解析するうち、ノアは小さな“異物”に目を止めた。
"voice_sample_c54"──それは音声ファイルの一つだった。
何の気なしに再生ボタンを押す。
「……さむい……だれか、いるの……?」
か細い、幼い声が流れた。
ノアの指が止まる。背筋を、何か冷たいものが這った。
「たすけて……おかあさん……」
音声はしばらくループし、そして静かに終わった。
沈黙。
ノアは数秒間、無表情のまま画面を見つめていた。
やがて、ため息ともつかない吐息を漏らし、椅子にもたれかかる。
「クソみてえな現実だ……」
その独り言には、皮肉はなかった。
今も解析中のファイルが、未処理のまま光っている。だが、手は伸びない。
──お前は、最後まで冷静でいろ。
かつて誰かに言われた言葉が、思い出された。
感情は判断を鈍らせる。だが、何も感じないのはもっと恐ろしい。
しばらくして、ノアは姿勢を戻し、端末のウィンドウを閉じていく。
一つだけ依頼データが浮かび上がった。
「都市ゲリラ案件、報酬少なめ、難易度高め……これは置いとくか」
そうつぶやきつつも、保留フォルダに移す。
意味のない戦いはしたくない。
けれど、意味のある戦いなんて、この世界に存在するのか──
ノアは立ち上がり、部屋のカーテンを少し開けた。
都会の灯が、どこか遠くに揺れていた。
「……次こそは、何か救えるといいな」
そう呟いて、音もなくPCを閉じた。




