【五感侵食】輪廻
よろしくお願いします。
受験を控えた私は、塾の帰り道、ふと訪れた古道具屋で、埃をかぶったフィルムカメラを見つけた。
レンズは曇っていて、フィルムの挿入口は開かない。どう見ても壊れているそれに、私は目を離せないでいた。
店の奥から、年齢不詳の店主が現れた。
「それ、もう戻ってきたものだよ」
笑っているようで、目は笑っていなかった。
「戻ってきた……?」と聞き返すと、店主は答えなかった。ただ、「気になるなら、持っていくといい」とだけ言って、奥へ引っ込んでしまった。
レジもなければ値札もない。そういうものなのかと、自分を納得させて、私はカメラを鞄にしまった。
夜道、カメラは妙に重く感じられた。冷たい金属の感触が、冬の空気に沈み込んでいく。
家に帰っても、なぜかすぐに机の上へ置くことができず、しばらく膝の上に抱えるようにしていた。
「おかえり」と母が声をかけてきたが、私はカメラを見つめたまま、小さく頷くだけだった。
夜になり、私はそっとカメラを取り出した。部屋の明かりを落とし、手探りでファインダーを覗き込む。
その瞬間、冷たい風が背筋を走り抜けたような気がした。
ファインダーの向こうに映ったのは、私の部屋のはずだった。
だが、どこか違っていた。
壁紙の模様が微かに歪み、窓の外に見える街灯の光はぼんやりと滲んでいる。
そして、薄暗い部屋の隅で何かが動いた気がした。
目を凝らしても、その“何か”はすぐに消えてしまった。
「気のせい?」そう呟いたが、心臓は激しく鼓動していた。
シャッターを切ろうとした瞬間、ファインダーの中の空間が震え、世界がぐにゃりと歪むような錯覚に襲われた。
まるでカメラが、現実の狭間を覗かせているかのようだった。
私はシャッターを切ることができなかった。
恐怖ではない。ただ、そこに映る“何か”が、あまりに現実味を帯びていたからだ。
ファインダーを離すと、部屋は何も変わらぬままだった。
窓の外には、いつもの街並み。机の上には教科書と参考書。
さっきまでの異様な気配が嘘のように消えている。
けれど、カメラは確かに何かを映していた。
私はそれを確かめたくて、もう一度ファインダーを覗き込む。
今度は――自分が映っていた。
ベッドのそばに立ち、こちらをじっと見つめる“私”が、ファインダーの奥にいたのだ。
同じ顔、同じ服装。だけど、目だけが違った。
感情が抜け落ちた、空虚な眼差し。
私は慌ててカメラを放り出し、後ずさる。
だが部屋には誰もいない。私だけが、ただ震えていた。
落ちたカメラのレンズは、曇りが消えて澄んでいた。
まるで、今ようやく目を覚ましたかのように。
私は震える手で、もう一度カメラを拾った。
ガラス越しに世界を覗くと、現実は少しだけ、薄紙のように揺らいでいた。
机の上のペンが、ふと宙に浮いたように見えた。
窓の外の街灯が、水の底で光る月のようにぼやけていた。
ファインダーの中にだけ、見えないはずの風景が存在する。
見知ったはずの部屋が、ほんの僅かに「ズレて」いるのだ。
時計の針が逆に回る。カーテンが風もないのに揺れる。
何かが、静かに、こちらに気づいている。
私はそっと、シャッターを切った。
カシャ。音がした瞬間、時間がひとつ、跳ねたような感覚があった。
見下ろすと、カメラのフィルム挿入口が開いている。
そこには、ありえないはずの現像済みのフィルムが一枚、収まっていた。
恐る恐る引き出すと、フィルムには私の部屋が映っていた。
けれど、そこには誰かがいた――鏡の中の私でも、夢で見た誰かでもない。
見知らぬ誰かが、私の部屋でこちらを見ている。
フィルムの中のその人は、どこか懐かしく、どこか哀しげだった。
その瞬間、私は理解した。
これは「思い出す」ためのカメラだ。
忘れていたはずの、まだ知らぬ記憶を。
次の日。
目を覚ますと、部屋の景色が少しだけ違っていた。
机の位置が、数センチずれている。
壁に貼っていたはずのカレンダーが、昨年のものに変わっている。
母の呼ぶ声が聞こえた気がして振り向くと、扉はいつの間にか開いていて、誰の姿もない。
おかしい。でも、怖くはなかった。
昨夜カメラで見た“あちらの景色”に、ほんの少し近づいたような気がしていたから。
登校途中、駅前の風景もどこか違っていた。
古いベンチが新しくなっていたり、無かったはずの時計塔が建っていたり。
誰も気づかないのか、気づかないふりをしているのか、通り過ぎていく人々は無言のままだった。
学校に着くと、クラスメートの名前が一人だけ思い出せなかった。
顔も声も、席も覚えているのに、名前だけがすっぽり抜け落ちていた。
「……いたっけ? あの子」
思わず隣の席の子に尋ねると、彼女は不思議そうにこちらを見つめて言った。
「誰のこと? 最初からそんな子、いないよ」
まるで、こちらの記憶の方がおかしいと言わんばかりに。
その日、帰宅してカメラを覗いた。
見えたのは――教室。今日と同じ、けれどどこか古びて埃っぽい教室。
そこに“いないはずのあの子”がぽつんと座って、こちらを見ていた。
私はシャッターを切った。
その瞬間、教室の記憶が――少しだけ、現実に戻ってきた。
けれど、名前だけは、どうしても思い出せなかった。
それから数日、私は日常を過ごしていたはずだった。
けれど、それは本当に“いつも通り”だったのだろうか。
朝、母が作ったみそ汁の味が微かに違う気がした。
通学路の電柱が一本多かった。
駅のホームに流れる音声が、一瞬だけ知らない言語に聞こえた。
ほんの些細な違和感。でも積み重なるほどに、私は疑いを持ち始めていた。
世界の“解像度”が少しずつズレていっている。
誰か、の名前がわからない。
いつもの風景と違う気がする。
教室から見える空が、やけに低く感じる。
ファインダーを覗くと、部屋の中が、少しだけ“前の世界”に近かった。
机の位置も、壁のポスターも、時間の感触すらも、懐かしく思えた。
私は毎晩のように、それを覗く。
カメラの中にある、“かつての現実”を確かめるように。
でも、ある時気が付いた。
でも、ある時気がついた。
ファインダー越しに見える自分の部屋の中に、自分が――いない。
では、誰が覗いているのだろう?
この目の奥で見ているのは、本当に“私”なのか。
翌朝、鏡を見て少しだけ戸惑った。
目の色が、僅かに違う気がした。
まばたきの感覚も、表情の作り方も、どこか“借り物”のようだった。
私の“世界”は、じわじわと染まりはじめていた。
あのレンズを通して、誰かの視線が、私を内側から覗いている――
そんな気がしてならなかった。
私は次第に、カメラの中に奇妙な“違和感”を覚えるようになった。
ファインダーを覗くたびに、そこに映る風景が、ほんの少し“過去”のものに見えるのだ。
たとえば、机の上に昨日食べたはずのパンの袋が、映っている。
もう捨てたはずの参考書が、そこにある。
そして、誰もいないはずの部屋の隅に、一瞬だけ“誰かの影”が映ることがある。
最初は、自分の疲れやストレスのせいだと思った。
でも、ある夜、私は思い切ってカメラを三脚に固定し、シャッターを押した。
フィルムなど入っていないはずなのに、カメラはカチリと反応した。
翌朝、机の上に一枚の写真が置かれていた。
私が写っていた。カメラを覗いている、自分自身が。
しかし、その表情は…あまりにも、他人のようだった。
手が震えた。
そして、気づいた。
このカメラは、“今この瞬間”を映しているわけではない。
それは、時間の隙間にある何か――記憶の底、あるいは、誰かが見ていた“過去の私”を切り取っているのだ。
だが問題はそこではなかった。
その日から、私は“誰かの記憶”の中に、自分の姿を見つけるようになったのだ。
塾の帰り道、通り過ぎる人の視線の中に“私”がいる気がする。
駅のホーム、向かいの電車の窓に映る私の顔が、こちらをじっと見ている。
私は、他人の“見る”という行為に取り込まれていっている。
まるでこのカメラが、それらの視線を記録し、私に還元しているかのように。
そしてある日、ファインダーの中に見知らぬ部屋が映った。
そこにいたのは、明らかに“私ではない私”。
その人物は、私と同じ動きをし、同じようにカメラを覗き込んでいた。
だが、その目には、確かに意志が宿っていた。
それは“誰か”ではない。
それは“私になろうとしている何か”だった。
私はそっとカメラから目を離した。
冷たい汗が頬を伝う。
レンズの奥に吸い込まれていくような感覚が、まだ瞼の裏に残っている。
「これ以上は……駄目だ。」
言葉に出して、自分に言い聞かせる。
誰に対しての防波堤なのか、自分でもわからない。
だが確かに、あの“目”は、私を取り込もうとしていた。
私の視線を、記憶を、輪郭を――
塗り替えようとしていた。
静かな部屋に、時計の音だけが響いている。
私は、カメラに背を向けた。
けれど、背中の奥で、あの“視線”を感じていた。
それから、私はカメラに触れないようにしていた。
レンズに蓋をし、引き出しの奥にしまい込んだ。
あれからもう三日、カメラには一切触れていない。
……なのに、だ。
街中ですれ違った見知らぬ人の目が、私の記憶に刻まれていく。
本を開けば、文字の合間に“見たことのない風景”が滲んでいる。
黒板の文字が、一瞬レンズ越しのようにぼやける。
まるで、私の視線が、あのカメラに繋がれているかのようだった。
夢を見た。
私は自分の目を外し、カメラに嵌め込んでいた。
フィルムの代わりに、脳が、記憶が、差し込まれていた。
何枚も何枚もシャッターを切るたびに、自分が誰だったかが削れていく。
朝、目を覚ますと、目の前にあのカメラがあった。
引き出しの奥にしまったはずなのに、
机の上で、レンズがこちらを見ていた。
ある夜、どうしても眠れず、私は再び古道具屋を訪れた。
もう閉まっているはずなのに、扉は開いていた。
中には誰もいなかった。いや、最初から誰もいなかったのかもしれない。
カメラが置かれていた棚の下に、古びた箱があった。
中には数枚の写真と、走り書きのメモ。
そこには、こう記されていた。
「視たものは写される。
写されたものは視られる。
だから決して覗くな。
視た先にいるのは、君ではない。」
写真はどれも、構図が不自然だった。
誰もいないはずの場所に、人影のようなもの。
顔のない人物が、カメラに向かってこちらを“見て”いる。
そして、一枚の写真。
そこには確かに、私の部屋が写っていた。
机の上のカメラと、ファインダー越しに私を覗く“何か”が。
私は息を呑んだ。
その“何か”が、笑っていた。
レンズの奥のレンズの奥で、私の視線と記憶を、舐めるように。
──このカメラは、ただの記録装置ではない。
“視る”ためのものではなく、“視られる”ための器だったのだ。
その夜、私は眠っていたはずだった。
だが意識はどこか別の場所にいた。
視界があった。私は目を閉じているはずなのに、見えている。
暗い廊下。誰かの背中。部屋の隅の時計。
それは、私の知らない場所ばかりだった。
けれど、感じる。これは――私の視界ではない。
まるで、誰かが“私を通して”見ている。
夢でも幻でもない。これは明らかに、“現実のどこか”だった。
目が覚めた。
息が荒い。掌が濡れている。
机の上には、またあのカメラ。
ファインダーの中を、恐る恐る覗いた。
そこには、私の部屋ではないどこかが映っていた。
古びた地下道。誰かの足音。
レンズの奥のその視界は、確実に“生きている”。
そのとき、背後に気配を感じた。振り返るが、誰もいない。
しかしカメラのファインダーの中には、“こちらを見ている目”があった。
ぞっとした。
その瞬間、私は悟った。
このカメラは、“見る”ことしかできない存在の目なのだ。
自らの手では現実に触れることも、声を発することもできない。
ただ、見続けることしか許されなかったもの。
そして今――
その存在は、私という“器”を通して、世界に繋がり始めている。
朝の光が窓から差し込む部屋で、私はぼんやりとカメラを眺めていた。
あの夜以来、ファインダーを覗くたびに感じる“何か”は薄れていない。
むしろ、日常のあらゆる瞬間に、視線の気配が忍び寄っているようだった。
歩くと、足元の影が少し長く伸びている気がした。
誰かに見られている。視線が背中を刺す。振り返っても、誰もいない。
カメラを持っている手に、不意に冷たい震えが走る。
まるで、どこか遠い場所の“目”が、私を通して世界を見つめているような錯覚に陥る。
ファインダーを覗くのをやめても、視界の隅に何かが映り込む。
それはいつしか、現実の風景に重なり、日常を侵食し始めていた。
部屋の壁のシミが、さっきまでなかった“影”に変わる。
電話の呼び鈴の音が、誰もいない廊下から響く。
気付けば私は、どこまでが“私”の視線で、どこからが“あの存在”の視線なのか、わからなくなっていた。
徐々に、カメラは私の世界を侵食していった。
やはり、見られている。
何かの世界が私の世界を塗り替えていく。何かが、私の知らない世界の断片をこちらに押し込めてくるようだった。
それはまるで、私の現実を少しずつ塗り替えていくペイントのように。
周囲の景色が違和感を帯び、言葉にできない不安が胸を締め付けた。
目を閉じても、その視線は消えず、私を追い詰める。
もう、逃げられないのかもしれない。
カメラを手にしてから、見慣れたはずの景色が少しずつ違って見え始める。
友達の笑顔がどこか歪んで、背景に薄く別の世界の断片が重なっている。
ある日、カメラのファインダー越しにしか見えない“もう一つの世界”に気づく。
そこには誰もいないはずの場所に誰かが立っていたり、動いていたりする。
カメラを覗くたびに、その存在が少しずつこちらに近づいてくるような気がして、息が詰まる。
私は理解した。このカメラのファインダーを覗くたび、ゆっくりと、しかし確実に私の現実は歪められている。
恐怖にかられながらも、なぜか目が離せない自分がいた。
視界の隅で、あの影がこちらをじっと見つめている気がしてならなかった。
現実と虚構の境界線が薄れていく。
私は、もうこのカメラに囚われてしまったのだ。
それでも、シャッターを切る私の手は止まらない。
これが虚構であると証明するために。
だが、写った写真を見るたび、私の胸は重く締め付けられる。
カメラはただの装置ではない。
それは、私の記憶も、視線も、魂でさえ映し出し、捕らえる、何か――
人ならざる存在の端末なのだと、確信せずにはいられなかった。
ある夜、私は一枚の写真を現像した。
それは見覚えのない風景だった。
誰もいない夕暮れの校舎裏。風に揺れるフェンス、斜めに差し込む光。
不思議と印象に残る一枚だったが、私はこれを撮った記憶がない。
ところが数日後、塾の帰り道、ふとした瞬間にスマホを落とし、拾おうとしゃがんだ瞬間。
ふと見上げた光景があの写真とまったく同じだった。
光も、空の色も、風の音すら一致していた。
私は思わず立ちすくんだ。
これは偶然ではない。
カメラは“写した”のではない、“先に”それを見せたのだ。
その時から、写真の意味が変わった。
私は観測者ではなくなり、実行者となったのだ。
カメラは私の未来の断片を映し、その通りにさせる。
避けることも、帰ることもできない、ある種の予言。
それは命令ではない。
だが、写真に写った未来は、まるで重力のように私を引き寄せる。
抗えば抗うほど、現実は軋み、歪んでいく。
そして現れた写真には、私の背後に立つ何か、を写し出していた。
人の形をしている。その顔は張り付いたような笑みを浮かべていた。
その存在は、カメラの“内側”からこっちを覗いているような、そんな錯覚を覚える。
私は振り返らなかった。
けれど、それが今も背後にいることだけは確信できた。
視線ではなく、気配が肌に焼きつく。
私は意を決して振り向く。
しかし、そこには何もなかった。
安堵——一瞬だけ、呼吸が戻る。
だがすぐに、その“静けさ”が不自然なものだと気づく。
物音ひとつしない。
時計の針の音すら、聞こえない。
まるで、世界が“私の振り向き”を待っていたかのような、沈黙。
カメラを手に取ると、冷たいレンズがわずかに曇っていた。
ふと気づく。自分の息は、もう白くなっている。
季節は、まだ春のはずだった。
“それ”はもう、目に見える場所にはいないのかもしれない。
だが、確かにこの部屋にいる。
私の感覚に、呼吸に、そして思考にさえ、静かに染みこんでくる。
私は知っている。
“いつ”かではない。
“すでに”来ているのだ。
それからというもの、私の写真が毎日のように現れる。撮った記憶のない風景。
そこには、私の姿と、何か、が背後に立っている。
学校で。塾で。家で。公園で。
“私がいた場所”ではなく、“これから行く場所”に写っていることもあった。
初めは偶然かと思った。
だが、写っている場所に後から必ず行ってしまう自分に気づいたとき、
私はもう、“自分の意思”を疑うようになっていた。
行かないようにすればいい。
そう思った日、私は写っていた写真とまったく同じ服を着ていた。
靴の汚れ、髪の乱れ、指先の切り傷までも、写真と一致していた。
私はいつ、写真を撮られたのだろう。
それとも――
私は、写真通りに生きることを“強いられている”のだろうか。
そしてその日もまた、知らない写真が現れた。
私が家のベッドで寝ている写真。
その枕元には、黒い影が座っている。
近い。そう感じた。
これは先の話ではない。もうすぐ、起こってしまう未来なのだ。
写真はすでに、“未来”ではなく“予定表”のような存在になっていた。
ひとつずつ、それが“実行”されていく。
それは小さな出来事から始まる。
写真に写っていた窓の外の鳥が、実際にそのとおりに飛ぶ。
机の上に置いたままにしたコップの角度まで一致している。
時計の針さえ、写真と同じ時刻を刻んでいる。
私はそれを見て、思った。
これはもう、“私の人生”じゃない。
そして、ある夜。
また一枚、写真が現れた。
そこには、私が目を閉じ、カメラを胸に抱えた姿が写っていた。
部屋は暗く、影が覆っている。
だが、よく見ると――その影は、私“自身”の形をしていた。
私はもう、この結末に向かっている。
逃げる術もなく、ただ“写される”ことを待つ存在へと変わっていた。
写真が現れる頻度は日に日に増していった。
気づけば、毎朝起きるたびに、机の上や鞄の中、時にはポケットにまで、“未来”の自分が差し込まれている。
そして、それらの写真の中の私は、徐々に顔を失っていった。
輪郭はぼやけ、瞳はくぼみ、口元は笑っているのか裂けているのかわからない。
なのに、そのどれもが私自身だという確信がある。
ある日、現れた写真には、こう書かれていた。
「これでおしまい。」
写っていたのは暗い部屋。
自分の部屋で、ただカメラのファインダー越しに私が私を見ている。
それを見た瞬間、私は足元が崩れるような感覚を覚えた。
私はもう、自分がどこにいるのか、起きているのか、寝ているのか。
もうわからない。
私はその写真を手放すことができなかった。
「これでおしまい」
その言葉が、まるで終わりではなく、“始まりの合図”のように感じられたからだ。
鏡を見る。
映っているのは、私。だけど、何かが違う。
瞳の奥に、微かに光る“誰かの視線”を感じる。
部屋の隅に置かれたカメラが、カタリ、と揺れた。
触れていない。けれど、私を見ている。
次の瞬間、視界がファインダー越しの映像にすり替わった。
目を開けているはずなのに、世界が切り取られた四角い窓の中にしか存在しない。
何が起きたのか、わからない。
ただ、ひとつ確かなのは――
私は、レンズの“向こう側”にいる。
暗い部屋。そこにはもう誰もいない。
ただ、カメラだけがぽつんと、机の上に置かれていた。
ある日、女性が古道具屋を訪れた。棚の上には埃をかぶった古いカメラ。
ふと手に取ると、奥から年齢不詳の店主が出てきた。
「それ、気になるのかい?」
私は値段を聞くと、気になるなら、持っていくといい、と言う。
お代はいらないのかと聞けば、それは戻ってきたものだから。と返ってくる。
「戻ってきたもの」と言われた言葉が、胸にずしりと重く響いた。
私はカメラをそっと抱え、店を後にした。
帰り道、手にしたカメラの冷たさが妙に生々しく感じられた。
まるで何かが、このカメラを通じて私に語りかけているような気がしたのだ。
その夜、私はフィルムの挿入口を開けようと試みたが、やはり固く閉ざされたままだった。
それでも、なぜかレンズの奥に薄暗い影が揺れているように見えた。
このカメラは、一体どんな“戻ってきたもの”なのだろう――。
私は、カメラのファインダーを覗いた。
そこに映っていたのは、確かに私だった。
だが、背後には──“見知らぬ影”が、じっと私を見つめていた。
息が止まりそうになった。手が震え、カメラを落としそうになる。
でも、どういうわけか、目が離せなかった。
次の瞬間、シャッター音が鳴り響いた。
それはまるで、私の運命を封じる合図のようだった。
私はもう逃げられない。
このカメラは、次の“観測者”を見つけたのだ。
暗い部屋に、私の姿を閉じ込めた一枚の写真が残された。
そして、どこかの誰かが、またこのカメラを手に取るのだろう。
終わりなき連鎖が、静かに、しかし確実に続いていく――。
カメラがかたり、と動いたような気がした。
感想もらえると嬉しいです!
よろしくお願いします。