公爵令嬢は美しい夢を見ない
恋とは、なんと儚く、そして脆いものだろうか。
十五にして婚約を交わしたその春の日から――それが幻想にすぎなかったと知るまで、彼女はずっと、恋を信じていた。
クロエ・ヴァンシュ。帝国に五家しか存在しない最上位の貴族――そのひとつ、ヴァンシュ公爵家の嫡娘にして、正統なる後継者。
生まれながらにして選ばれた立場にあり、その才覚と立ち居振る舞いは、幼くして周囲を圧倒した。
言葉の選び方ひとつ、視線の送り方ひとつまでが洗練されており、王族でさえ彼女を無視することはできなかった。
白銀の髪に琥珀の瞳、真っ直ぐな背筋に宿る気品は、“帝都の至宝”とも称され、彼女の名は王宮に知らぬ者がいないほどだった。
完璧――そう評されることは、クロエにとって日常だった。
けれども彼女は、誰にも見せぬ場所で、そっと夢を抱いていた。
恋に焦がれ、未来に希望を託すことを、誰もが当たり前に許されるように――
彼女もまた、ひとりの少女だったのだ。
そして、その純なる心を捧げた相手が、ギルデランだった。
彼は伯爵家の三男でありながら、若くして文官として頭角を現しつつあった。
血筋だけで言えば、クロエとは釣り合わぬ――そう言う者も少なくなかったが、クロエ自身はそのことを気にしたことは一度もない。
初めて出会ったのは、王立学院の冬の講義だった。
堅苦しい空気の中で、誰よりも誠実に答弁し、誰よりも他人の話に耳を傾けていた少年。
その姿に、彼女は心を奪われた。
やがてふたりは文を交わすようになり、共に王都のあちこちを歩き、未来について語り合う日々が始まった。
政と義務の世界に生きる彼女にとって、その時間は唯一“ただの娘”でいられる、大切なひとときだった。
――あなたとなら、夢を見てもいい。
そう思わせてくれる存在だった。
誰よりも慎重に、真剣に、彼を想ってきた。
それが、すべて一通の手紙で終わるなどと、どうして予想できただろう。
その日も、何の変哲もない朝だった。
窓辺には冬の陽が柔らかに差し込み、書きかけの文書が整然と机上に並べられていた。
侍女が差し出した銀盆の上には、一通の封書が乗っていた。差出人の名は――ギルデラン・レヴィネス。
何度も目にした筆跡。しかし、何故かひどく冷たい予感が背筋を撫でた。
封を切る。そこには、あまりにも簡潔な言葉が並んでいた。
《突然のことながら、婚約を解消させていただきたく存じます。貴女には感謝しておりますが、私情により、この縁を継ぐことは叶わぬと判断いたしました》
……読み終えた瞬間、胸の奥にひびが入るような音がした。
言葉を失った。
何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。
ただ、はっきりとわかってしまったのは――彼が、彼の口で、すべてを終わらせたという事実だった。
感謝? 私情?
何に感謝し、どんな私情があったというのか。
なぜ、それを伝えようともしなかったのか。
あれほど交わした言葉も、未来を語った夜も、
私にとっては“かけがえのない時間”だったのに――。
彼にとって、自分はその程度だったのか。
どれほど言葉を尽くしても、どれほど寄り添っても、
“資格がない”という一文で、そのすべてがなかったことにされるのだと。
彼の視線、微笑み、そっと指先に触れた感触――
思い出の数々が、まるで蜃気楼のように霞んでいく。
「……あれも、嘘だったの?」
唇からこぼれた声は、震えていた。
彼がくれた優しさも、夢を語ったあの夜も。
全部、ただの幻だったのか。
都合が良かったから傍にいたのか。
公爵家の令嬢でなければ、見向きもしなかったのか。
問いは尽きなかった。けれど、答えはもうどこにもなかった。
たとえ涙が流れても、貴族として、それを見せるわけにはいかない。
クロエはただ、静かに手紙を折り畳み、机の奥へとしまい込んだ。
その瞳には、深い哀しみが宿っていた。
夢が終わる瞬間というものが、こんなにも無音で残酷なものだとは、誰も教えてくれなかった。
狭い部屋の静かな空間の中で、クロエはすべてを内に秘めたまま、何事もなかったかのように日々を過ごしていた。
執務は滞りなく処理され、王都への文書にも端正な筆跡が並んだ。
誰も彼女の異変には気づかない。
――いや、気づける者が、初めから存在しなかったのかもしれない。
クロエ・ヴァンシュは、常に完璧だった。
公爵令嬢として、後継者として、求められるすべてを満たしてきた。
感情よりも理性を。情よりも規範を。
だからこそ、誰も彼女が恋をしたことに気づかなかったし、誰も彼女が傷ついたことに気づこうとしなかった。
――けれど、自分自身だけは騙せなかった。
夜、ふと目を閉じると、今も思い出す。
あの人が見せた笑顔。
真剣に将来の話をしてくれたあの声。
忙しい合間に送ってくれた短い手紙の、言葉のひとつひとつ。
その全てが、胸の奥をじくじくと締めつける。
「私は、ただ……信じたかっただけなのに」
誰かに愛されることを。
愛してはいけない立場ではないと、そう言ってくれる存在が、この世界にあると。
その証がギルデランだった。
けれど、それは夢だった。
美しい夢。けれど、所詮は夢。
クロエは椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。
冷たい床石の感触が、足元から感覚を呼び戻してくる。
窓の外では雪がやんでいた。
灰色の空の向こうに、ほんのわずかに陽光が差し込んでいる。
もう、夢を見ない。
そう決めた。
けれど、夢を見たことそのものを否定する気には、なれなかった。
あの時間があったから、知ることができた感情がある。
あの想いがあったから、今こうして立っていられるのだとも。
彼女は溜息を一つついた。
◇
あれから五年が経っていた。
彼の手紙を最後に、ギルデラン・レヴィネスという名を口にすることはなかった。
忘れたふりをすることにも、もう慣れていたのだ。
それでも彼女のもとには、常に注目が集まっていた。
名門公爵家から、王族に連なる者まで。
社交界には、クロエへの求婚を“家の栄誉”と捉える者が列をなした。
「そろそろ、決めてはどうなのか」
母はそう言った。
「公爵家の将来を考えねばならぬ」と、父も続けた。
口調は穏やかだったが、その背後にあるのは“義務”と“家”の名を背負う者としての無言の圧力だった。
だがクロエは、頷かなかった。
忙しかった。
各地の改革提案に目を通し、貴族会議での調整を行い、民の声を拾い上げる日々――
時には徹夜で起案書を仕上げ、時には帝都と地方を往復しながら、ただ懸命に、己の責務に向き合っていた。
けれど、それはただ職務の重さゆえではなかった。
――心が、億劫だったのだ。
あの冬の日、たった一通の手紙で終わった“愛”の記憶。
どれだけ前を向こうとしても、何かを深く信じることが、どこか怖くなっていた。
相手の言葉を素直に信じることが。
未来を共に語ることが。
また突然、終わってしまうのではないかと。
だから、誰の申し出にも、首を縦に振れなかった。
どれほど条件が整っていても、名門でも、見目麗しくとも、彼女の心が誰にも向かなかった。
「夢を見るのが怖いかもしれない」
そんなことを考えた日さえもあった。
その日も、朝から会議と視察の予定が詰まっていた。
書記官が読み上げる日程に頷きながら、クロエは執務室に戻る。その机上には、すでに新たな報告書の束が届いていた。彼女は何気なく一番上の封を手に取り、開封の動作を始めた――そして、手が止まる。
差出人の欄に記された名前が、視界に深く刺さった。
――ギルデラン・レヴィネス。
無意識に、息を止めていた。
視線を走らせた先には、確かに彼の筆跡があった。だが、それ以上に彼女の心を揺らしたのは、彼の肩書だった。
《帝都行政院直属、都市改革特別局 局長代理》
五年の歳月が、彼をここまで押し上げていた。
あの日、彼が言葉少なに手紙を送りつけ、婚約を断ち切ったあと。
彼はただ、黙って――歩き続けていたのだ。
◇
その年最後の舞踏会は、皇太子主催の祝賀の夜だった。
帝都の貴族たちが集う広間は、金と絹の装飾で彩られ、無数の燭台が星のように瞬いていた。
クロエ=ヴァンシュは、静かにその場に現れた。
銀糸を織り込んだ夜会服に、白い手袋、琥珀の瞳。完璧な公爵令嬢の姿に、誰もが言葉を呑む。
けれど、その瞳は深く澄んでいながら、どこか遠い場所を見ているようだった。
彼女が杯に指を添えたその時、会場にざわめきが広がった。
ひとりの男が、まっすぐこちらへと歩いてくる。
漆黒の正装に銀の徽章。
整った立ち居振る舞いと、場に飲まれぬ静かな存在感。
ギルデラン・レヴィネス。
帝都行政院直属、都市改革特別局 局長代理。
――そして、かつて彼女が愛し、そして失った男だった。
彼は一礼し、言葉を選ばず、ただ率直に言った。
「ヴァンシュ令嬢。どうか、少しお時間をいただけますか」
彼女は黙って杯を置き、頷いた。
ふたりは言葉少なに、人目を離れたテラスへと向かう。
冷えた夜風が、シャンデリアの音を遠ざけるように吹き抜けていた。
「ご無沙汰しております」
ギルデランの第一声は、まるで五年という月日を隔てたことを忘れたかのように、穏やかだった。
「ご活躍、拝見していますわ」
クロエもまた、表面上は落ち着いていた。けれど心の奥では、何かが微かに軋んでいた。
「クロエ様」
呼び名が変わった。それは、五年前と同じものだった。
彼は一歩、彼女に近づいた。
そして、迷いのない声音で言った。
「再び、貴女と婚約を結ばせていただけませんか」
風の音が止んだ気がした。
クロエは、しばし言葉を失った。
瞼の裏で、いくつもの記憶が巡る。
「……どうして、今さら?」
それだけが、どうしても問わずにいられなかった。この五年間、何度も胸の内で繰り返した問い。諦めたはずの、忘れようとしたはずの言葉が、彼を前にした瞬間、どうしても抑えきれずにこぼれ落ちた
ギルデランは、正面から彼女を見据える。
「……五年前、私は貴女に並ぶ覚悟も、実力もありませんでした。“公爵令嬢の婚約者”という肩書だけで終わる自分に、どうしても納得できなかったのです」
短く、静かな言葉。たが、クロエは、わずかに唇を噛みしめた。
胸の奥に張りつめていたものが、音もなく崩れていく。
「……ずるい方ですね。私の気持ちなんて、知りもしないで――そんな顔をするなんて」
かすれた声だった。
「今さらそんなふうにまっすぐな目で言われて……私が、どうしてずっと苦しんできたか、分かっていて」
「……はい。分かっています」
彼はうつむく事はなく、ただすべてを受け入れるように頷いた。
クロエはもう声を出せなかった。
ぐらりと揺れるように目を伏せた瞬間、つっと頬を伝って、涙が一粒、零れ落ちた。
彼女の涙を見た者は、今夜この場に誰ひとりいないだろう。
けれどそれは、彼女にとって初めて、誰かの前で流す涙だった。
「やっぱり本当に悪い方です。貴方は」
震える声で、彼女は言った。
「こんな時に来て、こんな言葉を残して……どうして今まで、一言もくれなかったの」
心の奥底に押し殺してきた痛みが、堰を切ったように溢れ出る。
「私、どれだけ……どれだけ……!」
言葉が続かない。
唇を噛み、視線を伏せても、込み上げる感情は止められなかった。
ギルデランは、その様を前にしても、何も言わず、ただ立ち尽くしていた。
彼女の涙に、安易な慰めを添えることすら、彼には赦されない気がした。
けれど――
クロエの肩が、かすかに揺れるのを見て、彼は一歩だけ前に進んだ。
そして、ゆっくりと手を差し出す。
「……あの日、あんな形で終わらせたことを、今も後悔しています。どうしても、もう一度だけ――貴女と向き合う機会をください」
「……傲慢ですね。何もかも勝手で、自分で決めて……」
クロエは涙に濡れた睫毛を持ち上げ、彼を見上げた。
「……でも、それでも、私――ずっと、貴方を忘れる事はできませんでした」
吐き出すようなその声には、もう迷いはなかった。
誇り高くあろうとした彼女が、最後まで隠してきた本音。
あの冬の日から、どれほどの夜をひとりで越えてきたのか。
誰にも見せなかった痛みが、ようやく言葉になった瞬間だった。
ギルデランは、答えることなく、ただ彼女の手をそっと取った。
その手は、かつて彼女が知っていたものより、少しだけ硬く、少しだけ温かかった。
「もう、置いていったりはしません。今度は、どこへ行くにも、必ず貴女と一緒に」
その言葉に、クロエの視線が揺れる。
「……責任、取ってもらいますわよ」
嗚咽まじりの微笑みが浮かぶ。
涙で少しだけ滲んだその表情は、誇り高く、けれどどこまでも人間らしく、愛おしかった。
彼女はそっと涙を拭い、手を差し出す。
ギルデランはその手を取り、かつて一度手放してしまった重みを、改めて指先で確かめるように握り返した。
宴のざわめきが遠くから響く中、テラスにはふたりきりの時間が流れていた。
恋とは、なんと儚く、そして脆いものか。
けれど、壊れたからこそ知った強さもある。
もう、夢ではない。
いま確かに、ふたりの手の中に、そのぬくもりがあった。