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「時景様……っ!」


時景様の執務室へ向かう途中、中庭を歩く彼を見つけた私は、思わず声を上げた。近くには白木蓮の花が見ごろを迎え、時おり風に揺られた花びらがはらはらと舞い落ちている。


私が呼びかけると、時景様はこちらに気づいたようで、にこりと笑いかけてくれた。優しげな微笑み。そうやっていつも何でもないふうに笑いかけてくれるから、私はいつの間にか、この人に随分と甘えていたことに改めて気づく。


「どうしました、あかね。そんなに慌てて──」

「今回の試食会で私が失敗したら、時景様は大旦那の任を解かれるって本当ですか?!」


私の言葉に時景様は驚いているようだった。けれど、「弥生辺りが口を滑らせましたか」と苦笑するだけで、いくら待っても否定の言葉は返ってこない。やっぱり、弥生の話は本当だったんだ……。私は手のひらをギュッと握りしめ、時景様を見た。


「……洋菓子を旅館の目玉にしようと思ったとき、どうして私を雇ったんですか」


私の言葉を時景様は黙ったまま聞いていた。前々からこの1年が、時景様の進退に関わる大事な年にになることは、弥生やほかの従業員たちも知っていたらしい。


「この1年が勝負だというときに、そんな大事な時期に、どうして私を雇ったりしたんですか……っ!」


声が震える。私のせいで、時景様がこの旅館を去ることになるかもしれない。そう思うと、心がぎゅっと掴まれたように痛む。


「洋菓子職人といえども、未熟な私より、もっと腕のいい職人を雇うことだってできたはずでしょう?!なのに、どうして──」


誰よりもこの旅館を大切にしてきたことは、まだひと月も一緒にいない私でも分かるほどだったから。だから、もしもと思うと怖かった。


「……私が、そうしたいと思ったから。だから、私が貴女を雇った。ただそれだけです」


自分の進退に関わる大事な決断だったはずなのに、時景様はただそう言って私にふと笑いかけた。優しげな笑み。出会ったときと変わらない、その優しさに、私は両手をギュッと握りしめた。そんな私に、時景様は困ったように笑んだ後、「昔話を聞いてくれますか」と静かに言った。


「……貴女が生まれる数百年も前、私はこの有馬の地で、人の子らに悪さをする狐のあやかしでした」


時景様はそう言うと、過去を思い返すかのようにぽつりぽつりと話し始めてくれた。

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