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「実は、我が縁の坊は幽世一の温泉宿グループ『天の湯』が満を持して現世に出店した温泉旅館の一号店。私は現世でも、『天の湯』の名と地位を盤石なものにするようにと任を与えられ、『縁の坊』の大旦那を任されています」
男の説明に、あやかしの世界も、人間界の会社も内情はそう変わらないものなのか、と少しだけ同情心が芽生える。つまり、この金狐様は、支店長みたいなものかしら。
「でも、それで私を菓子職人にって、どういう流れでそうなるの?」
私の質問に、男は「待ってました」と言わんばかりに、またぐいと近づいてきた。
「開業以降、物珍しさに来館するお客様は多いのですが、2回、3回と利用する客の数はまだまだ多くありません。確かに『現世にある』という地理的利点はありますが、接客、サービス、料理などは幽世にある温泉宿とさして変わらない。幽世の旅館と同じではなく、我々のお客様にとって、縁の坊にしかない何かを作らねばならない。そこで、思いついたのが、『すいーつ』です!」
「はあ」
きょとんとする私に、金狐のあやかしはなおも弁をふるう。
「そもそも、ここ有馬温泉がある神戸の地は、『すいーつ』と呼ばれる菓子が特産の地でもあるのでしょう?」
「まあ、確かに神戸は開港がきっかけで西洋文化とともにスイーツが広まったみたいね。パティシエのレベルも高いけど……」
私の言葉に「でしょう?」と腕を組んで、うんうん頷いている男。
「この土地ならではの食材に特化した会席料理は、もともと宿で提供していましたが、菓子は我々にもなじみ深い和菓子ばかり。羊かん、大福、団子……もちろんそれらの和菓子も料理人たちが手掛けた我が宿自慢の菓子ではありますが、幽世の菓子とあまり代り映えしません」
「なるほど。だから、洋菓子をってことね」
ここで、彼が「菓子職人になれ」と言った理由がようやく分かった私。男は「理解が早くて助かります」と言いながら、にこにことした笑顔を向けている。
「せっかくの申し出ですけど、お断りさせていただきます」
まさか断られるとは思っていなかったのか、私の返事に男の笑顔がぴしりと固まる。




