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文字の断片

文字か?

作者: 子柄 文字

 文字の精霊などというものが、一体、あるものか、どうか。


 かの国アルカ•パドナでは精霊の交流が盛んであった。火の精霊のサラマンダー、水の精霊のウンディーネ、風の精シルフ、地の精ノーム、いたずら好きのグレムリンに小柄なピクシー犬の妖精クー•シー等、数々の精霊使いや賢者をシャーマンとしては、精霊達に接触し、それに伴って国の発展を推し進めてきた。しかし、そんな精霊の国に、ある奇妙な精霊の存在がまことしやかに噂されていた。


 その精霊――というのも、その頃のアルカ•パドナでは精霊との交流、精霊の研究が主軸となっている一方で、呪文に関する学問もまたひそかに研究が進められていた。そんな呪文の研究に携わる人々の間では、ある議題が活発に交わされていた。


 果たして、「文字の精霊」とやらは、存在するのか、否か、ということを。


 噂の中心にいるのも、その文字の精霊とやらである。文字の精霊、もとい、言霊コトダマと呼ばれる精霊が、もし仮に存在するというのならば、国の発展に大きく寄与することは、疑いようのない事実である。そんな噂の正体を暴くため、かの国の大賢者ミディス•トリマが重い腰をあげた。


 とはいえ、ミディストリマは頭を悩ませた。文字の精霊などという存在は自分はおろか、まだ誰も見たことがない。コトダマなぞいう精霊が本当に存在するのかどうか、そこからが疑わしかった。確かに、コトダマが存在するという意見には一理ある。アニミズム論によれば、万物に精霊は宿る。人にも、犬にも、山や火にも宿る。ならば、文字や言葉にまで、精霊が宿る事になんらおかしい点はない。


 しかし、トリマ自身はこの意見には一つの異があった。そもそも言葉は実在するのか? と。人、犬、山、火、等々は実体を伴って存在する。だから精霊も存在する。しかし、言葉はどうだろうか? 文字は紙の上に記されて目に見える形として現れるため、実体を伴っているという意見もあるが、それはどうだろうか? それは文字の表面や上辺に過ぎないのであって本質とはいいがたい。文字の本質とやらを考えると、やはり文字とは概念ではなかろうか?


 そしてもう一つ見過ごせない点が一つ。それは、言葉がそもそも自然からではなく、人が生み出した人工物だということだ。さすがのアニミズム論も、人工物や概念までは手が届かないのではないか?そんな風に疑惑を巡らせていたためか、ミディストリマはコトダマという存在には若干を上回る程の不信感を募らせていた。


 その日以来、ミディストリマは日夜国の図書館に引き籠っては、幾重数多の本や文献を読み漁り、コトダマに関する情報がないか調べる事にした。この国の書物は、冊子状の本ではなく、巻物である。人々はパピルスや羊皮紙を広げ、墨を費やしては日々を記録し歴史を蓄積していく。


 ミディストリマはそんな歴史の断片を手にとっては、紐をほどき、床一面に広げては内容を吟味していく。上質な紙に、上質な墨。一流の材料で描かれた巻物は、千年先まで、色あせることなく歴史を物語るものだ。だがコトダマという単語も、文字の精霊だと思しき記述も、どこにも見受けられない。かの国の数百年に及ぶ歴史の中に、彼らは存在しなかった。結局、これは単なる徒労に終わった。


 次に、コトダマの噂を聞いた国民たちの元を訪れては、コトダマの具体的な内容について逐一尋ねた。コトダマと思わしき精霊を見なかったか、コトダマの噂を誰から聞いたか、粘り強く聞きまわった。だが誰一人としてコトダマを見たと語る者も、コトダマが持つ力や性質に関する噂を聞いたものもいなかった。加えて、皆口々にして、誰からも聞いていない、いつのまにかそんな噂を知っていたと語る。


 ただコトダマが存在するというその噂だけが、国中を独り歩きしている事が判明した。ミディストリマはいぶかしんだ。たとえ噓だとしてもコトダマを見たと語る者がいてもいいはずなのに、なぜかいない。噓でも語る者がいないのは、コトダマが誰も予想出来ぬ存在故か、はたまた国の大賢者を相手にしているからか。


 そしてもう一つ、ここまでコトダマの噂が広まっているのに、なぜ誰も噂を他人から聞いていないのか。かくいうミディストリマ自身もまた、コトダマの噂をひとりでに知った一人であった。この人なき伝言ゲームという奇妙な現象が起こっていた事に、彼はほんの少し背筋を震わせた。


 コトダマは存在するのかしないのか、答えが明白になることもないまま、気つけば夜も更け、月明かりが彼の疲れた顔をほんのりと照らす。彼は机から身を引きはがし、ベッドへなだれ込み、毛布の隙間にうずくまる。それでも彼の顔は終始眉をひそめたまま、深い眠りで体を休めた。


 朝になった。彼も目を覚ましはしたものの、起き上がる気力が湧かず、しばらくべっどの上で横たわっていた。ふと、机の上に置かれたランプが目に留まる。危ない危ない。どうやら昨夜に片付けるのを忘れていたようだ。


 朝になって既にランプの灯は消えてはいるものの、彼が眠りについてからも煌々と輝いていたのは間違いないはずだ。ともなれば火の精霊サラマンダーが寝ている隙にランプにたかっては転倒し、火事を引き起こす恐れもあるところだった。そうして一人で反省をしているうちに、彼の脳内で一種のパラダイムシフトが引き起こされた。


 彼は、コトダマが存在するかどうかを議論するのではなく、存在すると仮定して議論を進めるべきだと考え始めた。火の精霊サラマンダーが火のあるところに集まるように、文字の精霊コトダマとやらも、文字があるところに、いや、自分の名前があるところに集まるのではないだろうか?


 彼はある密林に住む部族の逸話をふと思い出した。その部族は、熊の出没を恐れるあまり、部族の間では熊という言葉を使わず、「蜂蜜」や「褐色」と別の名で呼ぶ習慣があることを。この話を聞いた当初は非論理的思想とあざけっていたが、今ではそうは思わない。


 彼らは、もしかするとコトダマの力を感覚的に知っていたのかもしれない。対象の名前を口にすると、本当にその対象がやってくる。これは、コトダマが所有する能力の一つではないのか? そう考えるならば、コトダマという精霊もまた、自分の名前を呼ばれることで、初めてその場所にやってくるのではないだろうか? ここまで思い至った時、彼はようやく、コトダマが存在すると仮定して考えねばならぬと思い至った。


 この推測を手始めに、コトダマに関する研究は急激ではないにせよ、漸進的に進歩し始めた。まず、奇妙な現象と化していた伝言ゲームの謎に説明がついた。噂を流布し始めたのがコトダマ達本人だとすれば、ある程度の説明がつくからだ。彼らは自分たちを認知してもらわねばならないからだ。


 この推測を手がかりに、文字の精にまつわる性質もまた次第に少しずつ見えてくるようになった。もしコトダマなる精霊が存在するなら、コトダマは文字が持つ命名作用を持っているに違いない。文字は、万事の事柄を記し、定義する。たとえ目に映らぬような概念や思想であっても、文字の前では掌握され、またその事柄の存在性を喚起させる。


 文字は他の能力も有する事が知られている。一見別々に見える、異なるはずの事柄を同一視する力がある。たとえ世界の万物とやらがいかに異なる外見をしていても、いかに異なる能力を、強さを有しオリジナリティを遺憾なく発揮していたとしても、文字は容赦なく虫や、動物、食べ物などとといった概念の中に住む集合体の仲間とみなし、あっけなくカテゴライズする。


 その集合体とやらをいくつも用意する事で、混沌と化していたはずの世界に、文字は一定の秩序と安寧を与える。この分類する力もまた、文字の命名作用の一種であり、コトダマもまたこの二つの命名作用を保持せねばならない、そう考えた。


 コトダマに関する話題も、徐々に活発に行われ始めた。これも当然と言えば言えば当然の話である。コトダマの噂がひっそりと知られていた頃とはわけが違う。ミディストリマが根気強く住民に話を聞きに駆け回ったのも大きな原因の一つであろう。


 コトダマという文字の精霊が存在するらしい、かの大賢者も、コトダマについて探りまわっているらしい、そして、文字の精霊を、まだ誰も目にしたことがないらしい……そんな噂が民から民へ響きあう。コトダマという精霊の存在は、以前よりもグッと認知度が増した。


 近頃、ミディストリマの元にコトダマの仕業かもしれない奇妙な報告が続々と寄せられ始めた。コトダマの情報を集めるため駆け回っていた頃では考えられない事態である。


 とはいえ報告の内容の大半が、コトダマと無関係なものばかりだった。中にはコトダマの仕業と思しき話も送られては来るものの、今の時点ではまだ判断も出来ない。だがそんなコトダマの噂が流行する一方で、未だにコトダマを見たという話は彼の耳に入らない。


 しかしこの事実を前にミディストリマは焦らないどころか、良き兆候だとすら思っていた。生まれたばかりの赤子が、この世の万物を知覚できないように、皆がコトダマを知覚しえないのも、皆がコトダマという字を知らないからだ。コトダマは幽霊のような存在なのではない。コトダマを幽霊たらしめているのは、彼らの態度にある。そして今、その態度が是正されつつある。


 コトダマの研究がより進むようになるのは、彼らによりコトダマの概念が浸透し、一般にもっと普及するようになってからだ……そんなミディストリマの思惑が、コトダマの精霊によって毒されているが故の思考だということを、この時の彼はまだ知る由もない。


 彼の旧知からの知り合いの中に、文字嫌いで有名な画家が一人いる。彼は生まれついての筆不精というわけではない。彼がまだ十も満たぬ頃、日々の習慣として彼は夜な夜な日記を綴っていた。毎日続けている習慣ゆえ、いつもなら既に書き終えているはずが、今日に限ってはやたらと書き詰まる。


 物は試しと筆を走らせど、一行止まりでそこから先が続かない。どうしたものかとじっと筆の痕跡を凝視するうちに、奇妙な事が起こった。まとまっていたはずの一つの文章が、単語の羅列へと変貌したのだ。かと思えば、単語もまた一文字ずつに分解され、その文字もまた単なる線の集合体と化し、意味をまとっていたはずの文章がたちまち無意味な線の集合体へと変貌を遂げたのだった。


 彼は目を疑った。理路整然と、意味を孕んでいたはずの文章が、無秩序で、ナンセンスな落書きへと堕落していったのだから。それ以来、彼はまともに文章を読むことが出来なくなってしまった。本を開くたび、文字が溶け崩れる。どんなに文字を修復しようとすれど、結局は崩壊する。やがて彼はそんな溶け崩れた文字を眺めては、動物の死骸に群がる虫の大群を連想するようになった。彼はもう、読書も、執筆も諦めてしまった。


 ミディストリマは彼に会うとき、必ず彼の家を訪問する。大体は彼は家の中で絵を描く上、手紙で会う旨を伝えても、彼は手紙を読むことなく焼き捨てるからだ。

 開口一番、ミディストリマは彼の家に訪れるなり、コトダマの噂について尋ねた。彼は筆を置き、窓の景色をしばし眺めては、聞いたことがない。そう一言呟くだけだった。


 そんな彼の仕草を、ミディストリマはらしくないと感じた。何か一種の答えを握っているような、けれども明かさない事を選んだような、そんな葛藤がちらついて見えた。彼は沈黙を続けた。ミディストリマも黙って彼の背中を見ていた。やがて画家は諦めたかのように筆を再び持ち直し、キャンバス越しにミディストリマに語りかける。


 ――申し訳ないが、君の期待に沿うような答えを、僕は持ち合わせてはいない。だがまあ聞いてくれよ。僕の苦悩とやらを、君はちゃんと聞いたことはないだろう?


 僕が、生粋の文字嫌いだというのは、君も知っている通りだろう。忘れもしないよ、あの晩の日以来、僕の頭は文字という文字を受け付けなくなったのだからね。そしてその症状とやらは今も変わらずに治っていない、最近では、文字の精霊とやらが噂になっているが、そんなものの存在を、果たして僕の頭が受け付けるのか……知りたくもないね。


 ミディストリマは彼の症状も、症状のきっかけもまた知っていた。だからこそ、彼はコトダマによる犠牲者の一人ではないか、そう疑っていた。


 ――それにしても、文字の精霊とやらが、やたらともてはやされているが、正直、そいつらって、そんなに素晴らしき存在なのだろうかね? まあ、少なくとも君は肯定するだろうが、僕は否定的なんだ。例えば……なんだ、そこに飾ってある絵画をいくつか見て欲しいんだけど……


 彼は首をちょいと横に振り、左側にかけてある絵画の存在を促す。夕焼けが反射する海、壮大な夜空と雄大な月、太陽を背景にそびえたつ我が国の城。どの風景画も彼の画家としての実力が遺憾なく発揮されており、現実と見まがうほどに写実的な出来映えに、ミディストリマはただ純粋に、あらん限りの語彙で彼の作品を褒めたたえた。だが、その感想を彼は不服そうに聞き流していた。


 ――違うんだよ。こういった作品っていうのは、言葉にしない方がいいんだよ。むしろ言葉にする方が汚れるんだ。いいかい、世の中にはね、言語化出来ない美しさや、喜びってもんがあるんだよ。そういった喜びを無理に言葉に綴ったって、それは喜びそのものではない、言葉のヴェールをまとった紛い物さ。だけど君みたいな賢者ほど、あらゆる事柄を言語化する事が素晴らしいと思っている。


 でもね、違うんだよ? その考えは自分は全てを言語化出来るという傲慢さと、言葉が自分たちの味方をしてくれるという偏見から成り立つ、ただの虚構に過ぎないんだ。


 ……確かに、文字というのは、目には見えない存在、人々の思考や概念を可視化させ、森羅万象を人々に伝える縁結びの神なのかもしれない。だけどそれと同時に、思考、概念、森羅万象を恣意的に歪曲させる、縁切り神でもあるんだ。


 筆で絵を描くことを止め、必死になって持論をまくしたてる様子に、ミディストリマは並々ならぬ心情を感じ取った。もはや文字を嫌うどころか、拒絶の姿勢すら示す彼の姿を見て、哀れにも、どうしてそこまで思い詰めているのか、彼には分からなかった。


 ――ああ……君みたいな奴ほど理解してくれないだろうね。僕はね、文字が嫌いなんじゃない……恐怖を感じてるんだよ……僕らはもはや、文字の牢獄に囚われた囚人なのさ……。


 ミディストリマは、何か言葉をかけようとしたが、ただ黙って、彼の後ろ姿を眺めていた。彼はコトダマに嫌われたのだろうか、そしてあれが嫌われた者の末路なのだろうか……。どうやら、コトダマは決して人の味方をするわけではないらしい。


 そんな画家の思いとは裏腹に、街は既にコトダマの話題で一色になっていた。それに伴って、賢者の所にもコトダマの噂はやってくる。だがここまで大衆に認知され、肯定されている現状となっても、未だにコトダマを見たと名乗る者は現れない。ミディストリマは危機感を覚え始めた。自身の仮設の通りなら、このままコトダマが姿を現さないのはおかしい。


 コトダマの噂の大半がコトダマのいたずらにまつわる話である。例えば、本棚にあった本の位置が多少ずれているとか、苦手だった手紙を書く作業が急に得意になったりだとか、胸に秘めていた自分の恋心が周囲に筒抜けだったりなど。日常で起こりがちな、奇妙な出来事や違和感の原因とやらにコトダマを持ってくる話が圧倒的に多い。無論、最後の話に関しては日頃の振る舞いが原因だとしか思えないが。


 また、ここまで精霊のいたずら話が集まってくるのも、このコトダマが初めてであった。おそらくはコトダマの姿が未だに不明であるからであろう。姿が具体的に判明している精霊であれば、話を捏造するにしても一定の縛りが設けられる。


 他にも文字という、都市や街、人が住む場所ならばどこにでも存在できるというのも、おおくのいたずら話が集まってくる原因の一つであろう。火の精霊サラマンダーが、火のある所にしか出没しない一方で、文字の精霊は、文字がある限り、どこにでも出没する。


 この姿の不透明性と場所への神出鬼没性こそが、コトダマのいたずら話が無尽蔵に湧き出る仕組みなのだろう。だがその範囲の広さこそが、森羅万象の奇妙な現象を、すべてコトダマのせいにでっち上げることを可能にさせている。


 ある日、司書が図書館の中で、梯子から足を滑らせ、頭を打って死んだ。人々は、コトダマという精霊を信じなかった故に、コトダマから復讐されたと解釈した。


 ある日、愛妻家で有名な夫が妻を刺し殺した。人々は、コトダマが彼の愛情を殺意にすり替えたのだと解釈し、夫に同情した。


 ある日、若い女性が急に首を吊って亡くなった。周りの友人は、コトダマの精霊によって自殺をそそのかされたと解釈し、一様におびえ始めた。自分たちが彼女に何をしたのか、目をそらした上で。


 もはやコトダマは、奇妙な現象を手軽に説明してくれる存在として、自分たちにとって不都合な真実を覆い隠す存在として、街の中を縦横無尽に跋扈していた。


 コトダマの噂の収拾は、もはや不可能に近い事態と化していた。もはや誰もがコトダマなる精霊の存在を信じ、頼る中、ミディストリマただ一人だけが、当初とは裏腹に、コトダマの存在の否定に躍起になっていた。だが悲しいことに、いくらコトダマの噂を否定したとしても、それがコトダマという存在を否定することにはならない。


 コトダマの存在を否定することなど出来ない。それはコトダマを流行らせた本人が一番理解していた。いないことを証明するなど、誰が為しえようか。だがなぜ世間はコトダマの存在を認めるようになったのだろうか? コトダマの存在が否定できないならば、コトダマの存在の肯定もまたできないはずなのに。この矛盾した虚構に、もはや彼は対処する術も手段も、とうに失った。


 どれだけの時間が経過しただろうか。いつの間にかミディストリマは、図書館の中で睡魔に襲われていたようだ。部屋に光が差し込むことがなく、ただランプの灯りのみが頼りとなる空間で、時間の計量などできるはずもない。体の関節の節々の痛みを感じつつも、席から立ち上がり、外を目指そうと歩みだす。だが、その歩みを引き止めるかのごとく、一匹の蝶が、ひらひらと、図書館内を羽ばたいていた。


 蝶がいる、そこまでの知覚はできた。だが何故暗闇の中で、蝶が認識できているのか、そこまでは頭が回らない。ただ浮遊する蝶の動きに、脳が支配され、目で追いかけるのみ。やがて蝶が見知らぬ扉のかんぬきにふわりと止まった。


 生涯で何度も往復をしたこの館内に存在しない扉であることは、流石のミディストリマも感づいた。暗い館内、煌々と煌めく蝶の輝きを眺めるうちに、彼は、誰かが自分を招いているような思考へとたどり着いたのだった。


 意を決してかんぬきを外し扉を開けると、そこには、おびただしい程の万巻の書が高く積まれていた。満杯になるまで収納された本棚、机にひたすら高く積まれた本の山、溢れて乱雑に地面に置かれた本や紙の束など、四方八方に本が高く積まれている。この異常な空間を、天井から吊るされた照明が、ほんのりと薄暗くも照らしていた。


 はて、ここはどんな空間であろうか。図書館と呼ぶには、あまりにも本の管理が雑である。机から一冊の本を手にとってはざっと内容を目に通す。とはいっても、ミディストリマも知らぬ未知の言語で書かれているため、何の把握も出来なかった。他の本を次々と手に取る。未知の言語で読めないもの、読めはするが文章として成立してないもの、そもそも白紙で何も書いてないものなど、多岐にわたる。


 どうやらここは図書館でもないらしい。本の山からは以前彼自身が昔読んだことのある本も見つけることは出来たが、そんな事はもはやどうだっていい。この図書館に見せかけた異常な空間の正体とは……果たして。


 ふと、また目の前に輝く蝶が一匹、本の山の上に止まったのが目に映る。そしてふわふわと部屋の奥の扉の前にまたピタリと止まる。彼はこの蝶の誘導に従うように空間の中を突き進んだ。蝶が止まった扉を開け、蝶が階段を昇れば同じように昇る。もちろん、最初の入り口に戻れるよう選んだ扉や階段に目印をつけつつ。


 蝶の誘導に従ってからしばらく、代り映えのしない空間であったが、やがてある扉にピタリと止まり、そのまま消失した。どうやらここが蝶が導きたかった場所のようだ。ドアノブに手をかけ、そっと扉を開けて中を覗き込む。そこは、今までと違い本棚が存在しなかった。代わりにイスとテーブルが用意され、テーブルには一冊の本とランプが置かれており、誰かが読書をした形跡がハッキリと残っていた。どうやらこの部屋だけは、読書をする場所のようだ。


「数百枚の重い粘土板が、文字共の凄まじい呪いの声と共に此の讒謗者の上に落ちかかり、彼は無惨にも圧死した……」


 読書の形跡しか残っていない空間に、得体の知れない声が響く。それと同時に、本がパタンと閉じ、ランプは暗くなり、イスがほんの少しだけ動く。ミディストリマの目の前には誰もいない、いないが、しかしながら、何かがいた。


「名作というのは、何度読んでもいい。味わい深くて、飽きが全然来ない。そうは思わないか」

 声が響く。


「先程まで読んでいた小説は、一番のお気に入りでね。思い出しては、何度も読み返してしまう」


「本当は、君が迷い込んだ時点で、即座に迎えに行くべきだったんだが、ちょうど読書の最中だったんだ……すまない」


「だが……それにしても文字、文字とは偉大な存在だな。太古から人々と共存しているだけあって、文字が有する万能性は、何物にも代えがたい。文字があるからこそ、人々は物事を表現し、文字があるからこそ、頭を働かせる事が出来る。」


 目の前にいるであろう何かは、熱心に文字を讃え崇めていた。


「文字が万能というが……その実、文字は人々を裏切りはしないか?」

 問いかける。反応はない。


「例えば歴史がいい例だ。かの国で昔何が起きたを調べるため、昔の書物をいくつか漁ってはみたが、どれもこれも内容が異なり、真実が一つに定まらない。これは文字による典型的な裏切りではないか。文字は真実を記し、過去を記録し、後世に残す役割を果たしてはいるが、時として、その真実を覆い隠し、分からなくする役割も持っている。その意味では、文字は時に害毒ではないか」


 長々と語った後、もう一拍おいて

「文字は決して、ありのままの真実を、ありのままの世界を反映させることは不可能だ」


「……君の問いには、獅子狩りと、獅子狩りの浮き彫りを混同しているような所がある」

 何かは、重々しく、どこか分かりきったような体で、口を開き始める。


「君はまだ、文字の本質とやらに迫っていないだけなんだよ。いいかい、文字というのは結局万物の影だ。影のような何かさ。人が太陽の下を歩いている時、人の足元には必ず影が引っ付いてくる。この影というのは、本人ではない。本人そのものを何一つ反映することはない。だけど、ただ一つだけ、本人が存在したという、何よりの証拠を提示する。文字は影さ。ただ存在を肯定するだけ。たとえそれが万物であろうと、真実であろうと、噓や間違いであろうと、関係なく紙の上に反映する。ただひたすら存在を肯定し、存在のみを喚起させるんだ。それが正しいか否か、文字にとってはどうでもいい……ただ肯定するだけなんだよ」


 文字の信仰者による熱弁に、ミディストリマは……どこか旧友の画家を思い出した。彼も文字について必死に熱弁していた。もしかすると、この信仰者の賛辞と、画家の恐怖心はどこか表裏一体ではなかろうか。かの国でたった今起きているコトダマの暴走を見るに、文字が噓も偽りも肯定するという彼の持論を否定することはどうにも出来なかった。


「……じゃあもう一つ聞くが、コトダマとやらも、同じような力をもつのだろうか」


「……? コトダマ……?」


「文字の精霊の事だ。言葉の言に、精霊の霊で言霊だ。知らないなんて事はないだろう」

 ふと、この何かがコトダマを知っているかどうか気になりだした。いつの間にかコトダマの噂が流行っていたのも、もしかしたら知っているかもしれない。


「コトダマ……コトダマと言ったなあ君は」

 存在しない何かは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……ハハハ。そうかそうか、それは実にいいじゃないか」


「何か知っているのか?」


「いやいや、どうやら彼らはいたく気にいったらしいんだ。コトダマなんてものは何一つとして知らないが……それはしょうがない。今から知ることになるんだから」


 本棚から本が無数に落ち始め、本の山も途端に崩れ始める。本能というべきか、無意識にもミディストリマは本の山を背に走り出していた。そして本が自発的に開いたかと思えば、うぞうぞと本の中から無数の文字がはいでてくる。後ろからは本が無数に落ちる音、本がめくれる音、そして……文字が住処である本からはいでる音で埋め尽くされる。


 明らかな異常事態を前に、ミディストリマはようやく気が付いた。ここは図書館ではなかった。無尽蔵にも及ぶコトダマの巣窟なのだと。しかしながら彼らは世に出る事はなかった……否、出来なかった……名前がなかったから!!


 コトダマという名前が与えられ、存在が肯定された今、彼らは外に出るだろう。そうなればもはやかの国も一切手におえず、意思を持った文字たちによって為す術なく滅亡へと向かう。階段を降り、乱雑に落ちた本を踏み越え、降り注ぐ本を避けては、出口へと向かう。奇しくも文字たちがうごめく先、進む先が出口への道しるべとなっていた。この文字たちがはいでる前に、扉に封を施さねば……!!


「そうだ、私も一つ名前を貰うとしよう」

 走る傍ら、またもや声が響く。彼は、いやミディストリマは思わず足をすくませるも、再び走り出す。こうしてる間にも、本棚からはしきりに本が落ち、文字たちはもぞもぞと床を這いつくばる。


「私の名前は、ミディス・トリマだ」


 ――心臓が大きく高鳴る。そうと思えば、全身の力が抜け、走る速度も乱れては足がもつれ、全身を床に激しく打ち付けては転がり、本棚にぶつかることでようやく勢いが殺される。彼は……いや何者かが床に倒れこんでいる。全身から汗をかき、呼吸もひどく乱れては、喉を押さえて咳き込む。その何者かの傍らに、ミディストリマはただ立ち尽くしていた。何者かは傍らに立つミディストリマに近づこうと、必死に手を伸ばし、足を掴もうともがく。が、それも虚しく、何者かは原形すら忘れ文字による集合体へと姿を変えた後、消滅した。


「ミディス・トリマ……か、中々にいい名前じゃあないか」


 ミディストリマは右手に持っていた本をめくり、自分の誕生日、生い立ち、経歴、かの国から追い出されたこと……隅々まで精読し、自分に関する情報を把握していく。


 かくして、コトダマの巣窟から、熱心な讃仰者と、コトダマが世の中へと解き放たれた。その後、かの国アルカ•パドナは滅亡した。なぜ滅亡したのか、何が起きたのか、詳しいことは今日に至るまで一切解明されていない。

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