第7話:拳闘者の懸念
仕事の時間に近づきつつあるのかカーラーンの中のテーブルには大分空きが見え、ジュリーはテーブルを拭いていたレイのへと向いて声をかけた。
「レーイー」
「はいっ、えと、どこか拭き残しがありましたか?」
「違うわよぉ。休憩しようと思って声かけたのよ」
「僕も、ですか?」
「当ったり前じゃない。皆で休まなくっちゃ。ほら、テーブル拭くのは休憩の後で良いからおいで」
招かれる手に不用心に近づけば作業を投げ出したと叱責や罰を受けさせられるのが、自分が『レイ』になる前によく受けていた事だ。だからといってそのまま作業に戻れば愛想が無いだの何だの言われて、これ見よがしに中傷されたり、可愛げが無いからと余計に仕事が増えてしまう。ジュリーは、そんなことをするヒトではない。レイの理性はそう断じているのに、体はどちらの『罰』が、一番負担がかからないかを考えて、動けなくなって、折角上がった頭が段々と下げられる。
「ひゃ……」
リアの巨体が目の前まで近づき、レイは思わず声を上げて後ずさるが、それよりも早くリアの手がレイの脇へとスポリと入り、軽々と抱え上げる。皮肉の一つでも言うつもりなのか、顔を見上げながらリアが口を開きかけた時、ピタリと動きが止まった。一瞬瞬きした後に、ギロリと鋭い眼光で睨みつけられる様は、まるで自分の抱えている秘密を暴こうとしているように思えて逃げ出したい。だが、肝心の足は宙ぶらりんとなっているため、リアに抱え上げられているため逃げられない。
「リアさん。あのう、こうして抱っこされたままって言うのは、ちょっと恥ずかしいものがあるんですが」
視線を逸らしておっかなびっくりと声を震わせながらもレイが呼びかけると、リアが瞬きし床に降ろした。
「次。こうされたくなけりゃ小難しい事考えないで、とっとと来い」
「は。はい。わかりました」
テーブルの上に丁寧に布巾を折り畳み、ジュリーの元に戻ってレイがカウンターに座ると、隣にリアが座った。ひと心地つき、テーブルに座ると肉や野菜のソテーの香ばしい匂いや煙草の煙、そして煤やほろ苦そうな香りの組み合わさった雑多な匂いがしている事に気が付いた。
「はい、どうぞ」
細かい無数の泡を浮かばせ、木の椀に注がれた煤よりも尚黒い液体が目の前に置かれた。焦げたような、それでも上品な香りにレイがジュリーの方を見つめると、にっこりとパンとベーコンが盛られたプレートを置きながら優しく笑いかけた。
「コーヒーよ。レイは初めて?」
「はい。あの、これって、どうやって飲むんでしょうか?」
「コーヒーはね、上澄みの部分を飲むのよ。底には粉が溜まっているから、残してね。口の中に砂が入ったみたいになっちゃうから」
「ありがとうございます」
両手を組み祈りを静かに捧げた後に、レイは椀を両手で抱えてゆっくりと飲んだ。舌の上に広がる深く強い苦みは、毒のような強烈さは無い。飲み終わっても尚鼻腔に残る香ばしいコクと余韻も心地よく、体を優しく解す旨味に吐息が思わず漏れてしまう。
「ジュリーさん。コーヒー、すごく美味しいです」
「あ・り・が・と」
「リアさんは、飲まないんですか?」
レイの呼びかけにリアは自分の目の前に置かれたコーヒーとパンに今気づいたように、手早くパンを口の中に放り込み、コーヒーで流し込むと、慌ただしく立ち上がった。
「ごちそうさん、マダム。いつもどおり、最高の朝食だ」
「掻っ込んで食べた人間の言う台詞じゃないでしょ、どしたのよ」
「そりゃ勿論、此処のコーヒー代を稼ぎに行くんだよ」
「リアさん、どこか行くんですか?」
てっきり、午後もリアは一緒に手伝いをすると思っていただけに、心細さが急に押し寄せた。自分の顔を暫く見つめていたリアの視線がレイを捉えると、頭にそっと手が伸ばされた。
「日が沈む頃には迎えに来る」
「はい、あのーーお仕事、頑張ってください」
レイの言葉に口元を少しだけ緩めると、リアは急いでカーラーンの扉を開いた。
*****
横路地を曲がり目当ての人物を探しながらも、リアは自分の手に残った違和感について静かに考え込んでいた。
レイを抱き上げたとき、胴から胸部にかけて、何かを身に着けている感触がした。まるで自分に付いた余計なモノを押しつぶす為のコルセットでも着ているように。
(レイの奴、腹が減ってる割にはサンドイッチを食う時も小さく食いついて速度もゆっくりしたものだった。あれはーー行儀作法を叩き込まれたんじゃなくて、胃を圧迫されていたからか?)
腰に不調があるならば、あの位置を締める意味がない。ならば、レイは何故ワザワザそんなモノを身に着けている?
ウェイトリー公爵家から出奔した、黄金色の輝かしい思い出を呼び起こす、余りにも似すぎた顔。リングの上でジリジリと体力を削られながら追い詰められている時に似た嫌な感触が、何度振り払っても取れる気配がしない。自分の予想はきっと誤っているはずだ。そうでなければ、余りにも救われない。
間違っていてくれと、強く祈りながら周囲を注意深く見回していると、狐色の髪をした、煤だらけの双子の少年を見つけた。
「イラン、グラン」
「リア兄ちゃん、どうしたの?」
リアの呼びかけに気づくと、双子は小走りに近づき顔を見上げた。ポケットから銀貨を数枚取り出し双子にそれぞれ握らせると、腰を屈めて視線をあわせた。
「些細な事でも良い、ウェイトリーのお屋敷の最新のニュースをありったけかけ集めてくれ」
「ありったけ、だね。分かった、ウェイトリーの所は大きいし、煙突や配管の構造も複雑な割に払いは渋いからね。僕らが手を上げれば、絶対呼ばれるよ」
「ありったけ集めた後は、いつもみたいにカーラーンに行けば良い?」
「いやーーカーラーンには寄らなくていい。お前らから連絡が来るまで、この時間に俺は此処をうろついている。払った分の情報を集めきったら、うろつく俺に声をかけろ」
じっと双子を見つめて淡々と言い聞かせるリアの言葉に、双子の表情が子どもの事から段々と仕事を請け負う『プロ』の顔に変わっていく。渡された銀貨を確かめ、正式に流通されているモノだと確認した後、イランとグランは全く同じタイミングで首を縦に降るとクルリとリアに背中を向けた。
「はぁい、じゃあ行くよ。グラン。どっちがどれだけ集められるか、競争だ!!」
「待ってよイラン兄ちゃん。先に走るのはズルい!!」
小走りに立ち去る双子が路地を曲がると、リアは屈めていた腰を上げて小さく天を仰いだ。
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