第10話:幸福な一日
カンカンと照る眩しい太陽の光に、レイが手を掲げて目を閉じていると、ジュリーがバスケットからつばの付いた帽子を取り出し、金色の髪を隠すように被らせた。
「はいレイ、これなら眩しくないでしょ?」
「ジュリーさん、ありがとうございます」
「ふふ」
レイの恰好を確かめた後、ジュリーは懐かしそうに目を細めた。視線の先には、リングの上で準備を整えているリアと対戦相手を眺めた。
「出会った時はレイくらいの大きさだったのに、いつの間にかあんなに大きくなるなんてねぇ。アタシもお店も年取ったわぁ」
「ジュリーさん」
「なぁに?」
「小さい頃のリアさんって、どんな感じだったんですか?」
「そうねぇ。毛を逆立ててる子猫みたいに、周囲を警戒していたわ。他人に触れるのも、触れられるのも嫌。誰の手も借りないし、何も信じないって感じで、近づけばシャーって威嚇もしていたし」
「リアさんがですか?」
レイの知るリアは、武骨で愛想は無いけれど、強くて優しくて面倒見がよくて。そしてちょっと恥ずかしがり屋だ。そんなリアが、誰かを威嚇して、驚かすような事をするとは予想が出来ず、パチパチと目を瞬かせながら、シャツの衿を正しているリアの背中をじっと眺めた。
「リアさんみたいになるには……信じないようにしなくちゃ、だめ。なのかな」
小さく呟いたレイの身体を、ジュリーは手を伸ばして抱き寄せた。筋肉だらけのゴツゴツとした身体に反し、抱き寄せ方は優しく押し付けがましくない。レイがジュリーの方へと顔を向けると、にっこりと笑みを向けた。
「レイ、リアは貴方にどんな風に接してる?」
「優しく、してくれています」
「リアが今のリアになるまで、おちびのリアにそうした相手が沢山いたわ。だから、リアは貴方に優しくて、とっても強いのよ。ほら。そろそろ試合も始まるから、あの子が戦う所を見てごらんなさい」
上半身を裸にして、リアよりも一回り以上も体格も筋肉も逞しい。そんな自分の対戦相手に対して、リアは飄々とした表情を崩さず、シャツを脱ぐこともなく拳に巻いた荒縄の調子を確かめている。
衣服を着ると、着ない方よりも動きにくい。体格差だけでも不利なのに、どうしてリアはシャツを脱がないのか。不安が胸を高く打ち鳴らし、隣に居るジュリーのドレスを小さく握っていると、興行主らしき男が大きく声を張り上げた。
「野郎ども!! 包まれリアと熊男ジョー!! どっちに賭けたか終わったか?」
「ジョー!! さっさとやっちまえ!!」
「リア!! お前に銀貨20も賭けたんだ!! 負けたらぶっ殺すぞ!!」
「レイ、大丈夫?」
周囲から飛び交う大声にポカンと口を開くレイに気づいたジュリーが声をかけると、我に返ったように紅色の瞳は瞬きを繰り返した。
「えっと、ラッピングとか、熊男とかって。名前の前に言われてた言葉が分からなくて」
「あれ?リングネームって言って、こうした場で使う綽名みたいなものよ」
「あだ名……ですか?どうして、リアは『包まれ・リア』って呼ばれているんですか?」
「通常、ボクシングは上半身裸で戦うの。動きにくいし、襟やら裾やら掴まれたら不利にもなるしね。でもリアは、絶対に上半身は晒さない。だからリアのリングネームは『包まれリア』なの」
「じゃあ、向こうの人が熊男って呼ばれてるのは、熊みたいな見た目だから?」
「そうそう。あら、そろそろ始まるみたいよレイ」
ジュリーの指摘にレイがリングへと視線を向けると、審判が大きく腕を降ろして試合開始の合図をするより早く、熊男と呼ばれたジョーが、リアの顔面に拳を打つ。だが、リアの方は熊男の意図を読んでいたのか、膝を使い身体を沈めて攻撃を躱し、そのまま一気に鳩尾へと向かってブローを喰らわせる。
「っ、ぐ、ぅ……!!」
ズン、とこちらの鳩尾が痛くなってしまいそうな程の深々とした一撃に、ジョーの唇から、小さな泡がぷくぷと零れ始める。痛みに堪えながらもリアのシャツを掴んで引きちぎろうと、ジョーは腕を振り回す。
しかしそれより早く軽やかなステップでリアは後ろに下がり、パンチが当たらないギリギリの距離を取り、小さく開いた口から息を微かに吐いた。
小刻みにステップを刻みつつ攻撃を躱して距離を取り、相手の隙を突いて攻撃する。以前本で読んだ『蝶のように舞い、蜂のように刺す』と言う一節のイメージが、レイにはよく出来なかったが、リアのこの戦いぶりをみて、『これ』がそうなのだと納得できた。
「こんの……ガキがぁっ……!!」
「っ……!!」
攻撃が当たらない事に苛立ったのか、獣の咆哮の如く相手への敵意が籠った声に、レイはジュリーにぴったりと身を寄せた。
レイの不安を包みこむように、回されているジュリーの手が肩を優しく叩いてリアの様子を見るように促すと、誰よりも間近でその声を受けているアイスブルーの瞳が、獲物を見定める狼のように細く尖る。
自分に向けられた訳でもない罵声や悪意にいとも簡単に揺れ動く己とは全く正反対のリアの生き様。その在り方に心臓がドキドキと高鳴り、憧れに似た甘い思いで、レイは息が出来なくなりそうだった。
「!!」
再び顔面を狙ったフックを片腕でリアは受け止めた。そのままがら空きになった顎にアッパーを打ち込み、熊男ジョーは後ろに仰け反り、リングの上に崩れ落ちた。
「勝者、包まれリア!! 賭け金はパブの『パンチ』でチケットと引き換えに換金するから、さっさと行きな!!」
歓声と罵声の両方を浴びながら少しだけ浮かんだ汗を拭うと、リアはジュリーの元へと悠然とした足取りで戻ってきている。薄水色の瞳が自分達の姿を認め、リングの上の戦闘の名残が薄れて、安心したように和らいでゆく。リアの眼差しの柔らかさに、レイは思わず駈け出した
「ひゃっ!」
「っ!!」
賭けに勝ったのか、チケットを換金するため慌ただしく人混みを分けている男と運悪くぶつかり、帽子が外れて地面に落ちた。それを追いかけるように、レイの身体のバランスも大きく崩れ、地面に顔からぶつかりそうになる。転けるレイへと丁度熊男の拳を受けた腕を伸ばしてリアが支え、レイもまた倒れないようにと反射的に腕にしがみ付いた。
「……っ……」
「あ、わ……」
痛みを堪えて黙って悶絶しているリアの顔に、レイが申し訳なさそうな声を上げた。謝罪を口にしようとしているが、あまりに慌てているため体勢を整える事も忘れて顔を青くして口を開閉し、二の句が告げないでいるレイを、ジュリーが抱えて体勢を直し、そして笑いかけた。
「ふふ、リアみたいにならなくっても、こうしてこの子をノックアウトする事は出来るのよ? 第一、ガタイが良い奴が勝つんなら、あそこで倒れているのはリアになってたワケだし。そうでしょリア」
「全くだ……今の一撃は効いたぞ。レイ。随分強くなったじゃねぇか」
「あうう……ごめんなさい……」
皮肉たっぷりのリアの言葉が、非常にレイには心苦しい。深妙な表情で己を見上げるレイに対し、地に落ちた帽子を広ってリアは砂を叩いて落とした。リアが帽子を被り直そうとした時、人混みをかき分けふらふらとした足取りでアシュレイが自分たちの元へと近づくと、リアの肩をがっしりと掴んだ。
「リア!!」
「アシュレイさん?」
「お前、どうしてあの場で勝った!! あの体格差と筋肉量なら、熊男が勝つと思って賭けてみたら、ものの見事に負けただろうが!!」
「んなもん知るか。どう考えても賭けに負けたお前が悪いんだろヘボ作家」
「私の今の不遇の日々は、作家として花開くまでの耐える季節だと分からぬ無粋モノめ、だから私はお前に賭けるのが嫌なんだ!!」
「良いこと教えてやるよ。アシュレイ。負けるのが嫌ならそもそも賭けるな」
「勝つか負けるか。そのスリルが名作へのインスピレーションに繋がるのだ!!」
「〜」
キャンキャンと喚くアシュレイと、それを軽く受け流すリア。リングの上のビリビリと肌を刺すような戦いとは異なり、どこか互いに砕けた言葉のやりとりに、レイはきょとんと瞬きをして、ある事に気がついた。
「二人とも、もしかして……仲が良いんですか?」
「そうなんだけど、二人の前では言っちゃダメよ。言ったら二人とも凄く嫌ぁな顔をするんだから」
「〜、〜〜」
アシュレイの肩の上に乗ったトムが、うんうんとジュリーに相槌を打った後、そろそろ何とかしてくれと言った体で両手を広げてジュリーの方へと視線を向けた。小さな小人の懇願に、心得たようにジュリーは頷き、バスケットをレイに託すと、リアにつっかかっているアシュレイを引き剥がした。
「はいはい。賭けにもならない喧嘩は止めにして、お昼にしない? パイとチーズ、それにフルーツ。色々持って来たのよぉ。勿論アシュレイとトムちゃんも、ね?」
「冷えたエールもあるのなら」
「ウチはお酒は置かない主義なの。飲みたいのなら、買って来なさい」
「く……ならば買ってくる」
「なら、俺のも頼むわ」
「〜」
「お・ま・え・は! 本っ当に厚かましいな!! それからトム、お前に酒は早すぎる!! あ〜あもう!! 買ってやるから私が来るまで絶対に手を付けるなよ!? 特にリア!!」
「へいへい」
「それじゃあ空いたテーブル探しておくから、エール買ったら合流なさい」
リアの生返事が信じられないのか、何度も振り返ってリアを睨みながらアシュレイはエールを買いに再び人混みを掻き分け初めた。数度打たれた腕を撫でているリアを見つめていると視線に気づいたリアがレイへと顔を向けた。ごめんなさい、と謝罪をしようとレイが口を開くより早く、ジュリーがリアとレイの肩を抱き寄せた。
「さ、アシュレイが戻るまでに座る所を見つけましょ」
「ああ、いい加減腹も減った」
「リアさん、アシュレイさんが待ってって言ってましたよ」
「ふふ。レイ、ちゃあんとリアのお目付け役、よろしくね」
「はい!!」
リアの盗み食いを任される。そんな何でも無い些細な頼まれ事が嬉しくて。勢いよく返事をすると、レイはワクワクした表情でリアの方へと顔を向けた。今日の天気のように自分たちの周りの空気は青く澄みきって晴れていて、笑顔が自然と溢れている。これが幸せなのだろうかとぼんやりと考えていると、首筋にチクリと何かが刺すような鋭い視線を感じてレイは足を立ち止まらせた。
「どしたのレイ」
立ち止まり、周囲を見回しているレイにジュリーが不思議そうに問いかける。折角の楽しい空気を壊すのは、忍びない。
「何でもありません」
幸せな一日を、幸せなまま終わらせたくて。レイは帽子を深々と被り直して、再びあるき出した。
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