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第三章 SCENE3

 「ああ、十時のロンドン行きのチケットを抑えておいてくれ。それがリミットだ」

 時守の病室から出た真一は、新鮮な酸素を求めるように携帯を取り出すと、慣れた口調で矢継ぎ早に部下であろう相手に指示を出した。

 その言葉の端々には企業の頂点に立つ者としての威厳、他人に有無を言わせない威圧感を感じさせる。

 が、その反面――彼の目に宿る野心の光は、新しいおもちゃを目の前にした子供のよう無邪気であった。

 不自然に調和の取れた表情を浮かべ、何かに取り付かれたように商談に夢中になっている真一を横目で見ていた早川が、諦めたように小さく首を振る。

 今しがた目に入れた時守の病室のこと……いや、実の父親の安否さえ忘れてしまっているに違いない。

 あくまでも体裁を整えるためにこの病室を訪れた。それで自分の役目は終わったのだと言わんばかりの真一の態度に憤りを覚える共に、何とも言えない寂しさを感じていたのだ。

 そんな早川の哀しげな視線など気づくふうもなく、携帯をポケットにしまった真一が言い放つ。

 「二千万ドルの契約だ。これ以上父の遊びには付き合ってはおれん。後のことは警察に捜索を一任する」

 「株価の方はいいんですか?」

 「身内の不祥事より、契約を飛ばすことの方が会社としてのダメージは遥かに大きい」

 企業の利益が最優先だと躊躇なく答えると、真一は自問するようにつぶやいた。

 「それにしても……一体どこへ?」

 全く見当もつかない――そう言いたげな真一の表情に、早川は落胆したようにためいきをつく。

 これ以上待っても、目の前の男からは何も答えが出て来ない……そう判断すると、意を決したように静かに口を開く。

 「本当に時守さんの居場所に、心当たりが無いのですか?」

 「ああ、私にはさっぱり……父が何を考えてこんなことをしたのかも」

「私にはわかります!」

 首を振りうなだれる真一に、早川は自信に満ちた声ではっきりっと断言した。

語気を荒げる早川に、少し驚いたように真一は顔を上げる。

 「何……?」

 「時守さんがどこにいて、何をしようとしてるのか……私には手に取るようにわかります」

 きっぱりとそう言ってのけると、僅かに憤りを含ませた眼差しを向ける。

 それで少し気分が収まったのか、早川はけげんな表情を浮かべたままの真一にささやかな優越感を見せつけるように、口元を僅かに綻ばせた。

 「どうです、ちょっと屋上に来てみませんか?」

 疑問の視線を向ける真一にそう提案すると、踵を返して廊下を歩き出す。

 「お、おい……」

 返答を待つこと無く先に行ってしまった早川を呼び止めようとする。

が、その声など全く聞こえないというように早川の背中は遠ざかっていく。

 あまりにも堂々としたその後ろ姿に釣り込まれるように、真一も慌てて白衣の背中を追いかけた。


 屋上のドアを開けると、眩しい太陽が目に飛び込んでくる。

 強い陽光に目を細める真一を振り返ると、早川は懐かしさを含んだ微笑を浮かべた。

 「こんなふうに天気のいい日は、ここでよく話をしました」

 まるで昨日のことを思い出すようにそう切り出すと、早川は話し始めた。

 「時守さんは私を医者としてではなく、一人の友人として見てくれていたようで……色んな話をしました。私の愚痴を含めてね」

 悪戯っぽく笑うと、再び真一に背中を向け屋上の端に向かって歩きだした。

 「ご自身のこと、ご家族のこと、あなたのことも……」

 真一の話をする時、いつも苦虫を噛み潰したような表情でおどけてみせる老人の顔を思い出すと、連鎖的に彼との数々の思い出が蘇り、少し胸が詰まる思いになった。

 が、感傷に浸ろうとする自身の心に蓋をすると、背中を向けたまま真一に語りかけた。

 「私はずっと待ってました」

 「待ってた? いったい何を?」

 わけがわからぬと言いたげな表情を浮かべる真一を振り返ること無く、早川は少しの苛立ち混じりに言った。

 「あなたが時守さんの心に気づくことを……です」

 「気づく……?」

 屋上の端にある手すりにたどりついた早川は、そこで立ち止まると、けげんに眉をひそめる真一を振り返った。

 真一の質問に答える代りに、早川は視線を眼下の中庭に落とす。

 「あれは、時守さんがあなたへ残したメッセージです」

 「メッセージだと……?」

 早川の隣に並んだ真一が、身を乗り出して中庭を見降ろす。

 「これは……」

 自身の目に飛び込んできた光景に驚愕し、思わず息を飲み込んだ。

 中庭に芝生の広範囲の部分が人為的に踏まれ、『アカンベー』をするキャラクターの絵が描かれていたのだ。

 それでも完全に状況を把握していないのか……呆然と眼下を眺めている真一の背中に、早川が最後のキーワードを投げかけた。

 「まだわかりませんか? 今日、六月七日という日が持つ意味を……」

 「六月七日……」

 つぶやくようにその日付を反芻する真一が、何かに気がついたように表情を凍りつかせると目を見開いた。

 「まさか!」

 乾いた声を絞り出す真一の背中に、全ての答えを告げるように静かに言った。

 「そう、今日は健太郎君の誕生日です」


 国道から山間の道に入ると、舗装された道から砂利道へと様変わりした。

 初心者には難易度の高いカーブと高低差が続いていたが、ハンドルを握る愛も長時間の運転に慣れたお陰か、時折鼻歌を口ずさむ余裕が出てくるようになっていた。

 愛の急激なハンドル操作の度にサイドブレーキに手を伸ばしていた時守も、次第にその回数が減っていき、午後の優しい日差しが助手席でうつらうつらとする時間が増えた。

 ――どうやら無傷で車を返すことができそうだな。

 眠い目をこすると時守は、バックミラー越しに見えたレンタカーショップの店員の、何とも言えないおどおどした表情を思い出しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 そんな退屈とも思える平和な時に終止符を打つように、時守の携帯が振動する。

 「さて、審判の時が来たようだな」

 ディスプレイを訝しげに眺めた後緊張に吐息をつくと、時守はゆっくりと携帯を耳にあてた。

 時守以上に緊張する愛は、固唾を飲んでその回答を待つ。

 「正解だ。お前にもまだ少しは父親としての覚があったようだな」

 ほっとしたように時守が胸を撫で下ろすと、それを見つめていた愛も同じように大きく緊張を吐きだした。

 「さあ、これで隠れんぼの時間は終わった」

 満足げにそう言うと、時守は優しさ満ちた父親としての眼差しで語りかける。

 「次は鬼ごっこの時間だ。お前自身の手で健太郎をしっかり捕まえて、抱きしめてやれ……」

 穏やかで心地よく耳に染み込む時守の呼びかけに、愛は涙腺を緩ませる。

 が、それも束の間――

 携帯を耳に当てていた時守の表情が、見る見るうちに強張ったものに変化した。

 「警察? このゲームを終わらせようというのか。なら勝手にするがいい! それがお前の出した答えだからな」

 怒りをあらわにした声に驚いたのか、携帯の向こう側で弁明めいた声が漏れてくるが、老人はそれを一掃するように首を振ると、相手に容赦なく問い詰める。

 「契約だと? 話にならん! そうやってまた健太郎との約束を破るつもりか? お前はそれでも……」

 その叱責を最後まで続けることはできなかった。

 愛が咄嗟に手を伸ばすと、時守の手から携帯を奪い去っていたのだ。

 「あんたねぇ、健太郎君の父親でしょ? 仕事と健太郎君とどっちが大切なの? 頭を冷やしてよく考えなさい!」

 湧き上がる怒りと共に、愛は携帯の相手にありったけの声を張り上げ叫んでいた。

 「…………」

 「これでおあいこね」

 驚いたように自分を見る時守に向かってニッコリと笑うと、愛は悪戯っぽく舌を出した。

 「愛さん……」

 得意げに笑みを浮かべたままの愛に向かって、老人は呆然としたまま前方を指さす。

 「ん?」

 老人の眼差しが感謝の意であると思い込んでいた愛が、その指先に釣られるように視線を戻した瞬間、驚きに目を大きく見開いた。

 「あーーーッ!!!」

 視界いっぱいに飛び込んできた大木に、時守の指差した意図を理解したものの、もはや手遅れであった。

 愛は目を固く閉じハンドルを大きく切ると、あとのことは神様に委ね固く目を閉じた。

 軽自動車は大木をぎりぎりでかすめると、急ブレーキの音を引きずりながら、猛スピードで茂みの中に突っ込んでいった。

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