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第三章 SCENE2

 店員を散々振り回した挙句、何とかアイスクリームを手にすることができた時守は、戦利品を片手に、愛の待っているベンチへ向っていた。

 引きつった笑顔を見せながらも、最後まで根気よく付き合ってくれた店員に感謝しながらも、時守は、自らが手にしているアイスが、明らかに愛が望むものでは無いと確信していた。

 「抹茶と小豆くらいしかわからんわい……」

 敗北を認めるようにつぶやきながら、ベンチに待っているであろう愛の姿を探す。

 と、すぐに携帯を片手にしている彼女の姿を見つけることができた。

 「…………」

 電話の相手が誰かは、すぐに察しがついた。

 時守はその場に立ち止まると、彼女から見えないようにそっと観葉植物の陰に身を隠す。

 今から彼女が下すであろう決断の邪魔にならないように配慮すると、これ以上彼女の瞳が悲しみに曇らないことを祈った。


 「だからって、お母さんまで巻き込まないで! 何考えてるの? 自分が今してることわかってる?」

 今にも泣き出しそうな声を張り上げながら、愛は電話の相手に激しく噛みついていた。

 すぐそばを通ったカップルが、自分の怒声に驚いたように振り向くが、そんなことはもう、どうでもよかった。

 自らのためなら相手の都合など全く無視し、自分の母親まで巻き込んでしまえる相手の身勝手さ、常識の無さに遂に堪忍袋の緒が切れたのだ。

 予想もしなかった愛の激怒に慌てふためいたのか、相手はしどろもどろになると、必死の言いわけを並べ出した。

 愛の怒りが増幅する。

どこまでも自分を正当化しようとする相手に失望すると、その全てを否定するように何度も首を振った。

 「わたしのため? 嘘よ、そんなの!」

 この期に及んでまだ嘘を塗り重ねる相手のずうずうしさ、醜さに歯噛みする。

 込み上げる感情を何とか抑え込むと愛は、猫なで声でなだめにかかろうとする相手に質問した。

 「優しいね……どうして? わたしに新しい男ができたから?」

 愛が言葉を和らげたことに安堵したのか、相手はいつもの如く、情に訴えかけるように心の無い偽りの言葉を並べ出す。

 『お前のことが心配で』『お前のためを思って……』

 自分の言葉に酔いしれるように、男は歯の浮くような台詞を垂れ流し続ける。

 もう限界だった。

 愛は瞳いっぱいに涙を溜めると、相手の声を掻き消すように大声を張り上げた。

 「嘘ッ! わたしのことが心配なんて嘘つかないで! あなた自分のことしか考えてないじゃない!」

 心の中に閉じ込めていた感情が解放されると、一気に激しい言葉となって溢れ出した。

 「わたしが辛い時、一度でも優しい言葉をかけてくれたことがある? 泣いているわたしの頭を撫でてくれたことがある? どうしてわたしが望んでいる時、そうしてくれなかったの? どうして今なの? ずっと……ずっと待ってたんだよ。なのに……」

 怒り、悲しみ、後悔……湧き上がった無数の感情に言葉を続けられなくなる。

 愛は震える手で携帯を握りしめたまま大きく息を吸い込むと、全てに終止符を打つように叫んでいた。

 「あんたなんか大ッ嫌い! 絶対一緒になんかならない!」

 マーケット中の空気を切り裂くような声を響かせると、その勢いのまま携帯を力の限り床に叩きつけていた。

 携帯は激しい衝突音を立て床に激突すると、何度もバウンドしながら止まった。

 愛は憎々しげに破壊された携帯を睨みつけると、制御できなくなった感情に唇を震わせる。

 と、その時――

 愛の視界の中に、真っ黒な長靴が入ってきた。

 驚いたように視線を上げると、目の前にいる農夫の姿をした老人を見つめる。

 「時守さん……」

 怯えたような愛の瞳を受け止めると、時守は全てを理解しているというように、静かに口を開いた。

 「彼は最後のチャンスを自らの手で葬り去った。あんたには何の落ち度も無い」

 淡々と事実を語るその言葉はまるで魔法のように、愛を張りつめた緊張から解放した。

 それと同時に、忘れていた涙が一気にあふれ出し、頬を伝う。

 「わたし、悔しい……」

 愛は絞り出すようにそうつぶやくと、声を殺して泣いた。

 自分が今まで心に抱えてきたものが、全て意味の無い無駄なものように思えたのだ。

 歯止めが利かなくなったように涙が止まらず、愛は声を震わせ嗚咽した。

 そんな愛の姿を見つめていた時守が、そっと言葉をかける。

 「必要なら胸を貸すが……」

 何十年ぶりに口にしただろう。

自分でも歯の浮くような台詞だと顔が赤くなる思いであった。

 が、その言葉を待っていたように、愛は時守の胸の中に飛び込むと、遠慮なく彼のシャツを涙で濡らした。

 「大丈夫、あんたは何も悪くない。だから好きなだけ感情をぶちまければいい」 

 声を殺してすすり泣く愛をしっかりと抱き締めると、子守唄でも聞かせるように穏やかな口調でそう言った。

 「わたし、わたし……」

 うわごとのように何度も繰り返すと、愛は自分を責め続ける。

 体中に流れ込んでくる、言葉にならない感情を受け止めるように深く目を閉じると、時守は彼女の頭を優しく撫でてやった。

 どれくらいそうしていただろうか――

 時守はふと目を開けると、静かに愛に呼びかけた。

 「なあ、愛さん」

 「あ! はじめて名前で呼んだ……」

 突然のファーストネームに、自分が泣いていることも忘れ、愛は冷静に指摘していた。

 なるべく自分の言葉で話したいという思惑が、時守にそう呼ばせたのだが、愛は違った意味に捉えたらしい。

 時守は複雑な面持ちで顔を赤らめながらも、構わずに言葉を再開させた。

 「たった今、あんたは変わった……」

 「変わった?」

 「そう、自分自身の過ちに涙を流し、心の底から生まれ変わりたいと願った」

 「うん……」

 「その涙は幸せになれるものだけが流せる涙だ。だからあんたは、絶対に幸せにならなきゃいかん」

 「わたし、なれるかな?」 

 「希望を捨てなければ必ず」

 自信無さげに問いかけた愛に、時守は胸を張るように力強く答えていた。

 「……でも、幸せっていったい、何?」

 その質問にあまり意味が無いことは、愛自身もよくわかっていた。

 そんなものは人の価値観によって大きく形を変えるものだし、これが正解だと言える明確な答えが無いことも……

 ――でも、知りたかった……

 自分を理解し受け止めてくれた彼の言葉なら、自分を正しい方向に導いてくれる――

 そんな気がしたのだ。

 愛の潤んだ瞳にそれを感じ取った時守は、彼女を抱きしめたまま答えを口にした。

 「不幸では無いこと……」

 「不幸ではないことって?」

 「自分が一番好きな自分でいられること、そんな自分を受け入れてくれる世界や存在が一つでもいいから、この世の中に存在すること……」

 おうむ返しに問いかける愛に、時守は補足する。

 噛み砕かれた時守の言葉の意味をようやく理解すると愛は、今の自分がどれほど幸せとかけ離れたところにいるかを痛いほど痛感した。

 「じゃあ、あたしは失格ね。全然自分のこと、好きなじゃないもん」

 「そんなことは無い……あなたは十分に魅力的な女性だ」

 自嘲気味に笑みを浮かべる愛に首を振ってみせると、時守は一片の迷いもなく断言した。

 「聖二さん……」

 思いもよらぬ褒め言葉に恥ずかしくなり、愛は頬を赤らめる。

 「あなたは、こんな老いぼれの戯言を信じてくれ、涙さえ流してくれた。そんな優しい心根を持ったものは私の人生の中で、数えるほどしかいなかった……そんな素晴らしい女性を、世の中の男が放っておくわけがない」

 「あなたも?」

 「私があと二十年若かったら……」

 「ずるーい」

 愛は少し甘えたような声をあげると、時守の胸に鼻の頭を擦りつけた。

 「お前さんより人生経験は積んできたからな……」

 そうおどけて彼女の心をかわしたものの、自身に芽生えた彼女への感情の正体を、完全に否定することができなかった。

 ――自分がもう少し若ければ、本当に恋に落ちたのかも……

 時守は心の動揺を悟られないように……あるいは自分自身に言い聞かせるように、愛に言った。

 「それにお嬢さんと違って、私は未来の無い人間だ……」

 「上手い断り文句ね」

 何かを含んだような寂しげな言い回しに引っかかりを感じたが、愛は構わずに時守を力強く抱きしめる。

 「でも、ありがとう。わたし今、とても幸せな気分よ……聖二さん」

 溢れんばかりの感謝の気持ちを受け止めると、少し照れくさそうに老人は指摘した。

 「初めて名前で呼んだのう」

 それが二人の間に芽生えかけた感情の終止符となったのか……

 愛はニッコリと笑顔を浮かべると、時守に『もう大丈夫』というようにうなずいてみせた。

 「いい笑顔だ」

 見つめ合う二人はまるで恋人同士のように、満たされた甘い時を共有していた。

が、ふと愛がわれに返ったように真顔になると、確かめるように質問する。

 「ね、ねえ、わたしたちって、どういう風に見えるのかな?」

 「どうして?」

 「さっきから随分と見られているような気がするんだけど……」

 それは思い過ごしでも何でもなかった。

 ゆっくりと確認するように周囲に目をやった時守は、自分たちに突き刺さる、複数の好奇の視線を感じ取る。

 人目を気にすること無く熱い抱擁を交わすカップル……それが孫ほどの年の差がある不自然なものとなれば、向けられた視線がどんな意味を持っているかは想像がついた。

 時守は納得したようにうなずくと、皆が思っているであろう、ありのままの心の声を素直に伝えた。

 「みんな羨ましがってるみたいだ」

 「……じゃあ、もう少しこのままでいさせて」

 愛は悪戯っぽくそう言うと、ささやかな優越感を見せつけるように、再び老人の胸に顔を押し付けた。

 とても懐かしくて心地が良かった……愛は陽だまりの中にいるように目を細め、時守はそんな彼女の肩を優しく叩き続けやった。

 満たされた空気の中、愛はふと大切なことを思い出すと、時守を見上げた。

 「ね、ねえ、ところでアイスクリームは?」

 当初の目的を思い出してしまった愛に、時守はバツの悪そうな表情を浮かべてみせる。

 「もう片方の手にあるが、見ない方がいい?」

 「どういうこと?」

 時守から身を乗り出すように『もう片方の手』をのぞき込んだ愛が、かつてはアイスクリームだったものの変わり果てた姿に悲鳴を上げた。

 「ひどーい、ぐちゃぐちゃじゃない! しかも間違ってるし……」

 「人選ミスだ」

 恨めしげに見上げる愛に、時守はぽつりと答えていた。

 「…………」

 居心地の悪そうな老人の表情に、愛は思わず吹き出してしまう。

 溶けていくアイスクリームの冷たさを我慢しながら、自分に真剣に語っていたのだと想像すると、なおさらおかしくなって笑いが止まらない。

 その笑いに釣りこまれるように時守も口元を綻ばすと、二人は周囲を気にすることも無く笑い合った。

 二人から少し離れたウッドデッキでは、破壊され息も絶え絶えになった愛の携帯が、虚しく着信の振動を続けていた。

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