第二章 SCENE4
「あの……今の人は?」
やれやれ……と、いうように携帯をポケットに押し込む時守に、愛は問いかける。
「健太郎の父親だ」
「……っていうことは、あなたの息子さん?」
「ああ、認めたくはないがな」
苦虫を噛み潰すように老人がうなずく。
半ば予想していた電話の相手であった――が故に、目の前で繰り広げられた、あまりにも不自然で滑稽な親子の会話が、愛には理解できなかった。
それを十分に理解しているのか……時守は運転席から向けられる疑問の眼差しに、おどけたように肩をすくめてみせた。
「ちょいと家出をしてきたものでな。少しばかり慌てとるみたいだ」
「少しじゃ無かったみたいだけど……」
「たまには仕事以外のことでも頭を使わさねば、人生を見失ってしまう」
愛の的確な指摘にごもっとも、というような笑みを浮かべると、時守は哲学者の如く結論付けた。
自分の倍以上は長く生きているだろう老人の言葉は、まるで格言のような響きと重みに満ちているようであったが、それを口にした本人の横顔は、どことなく寂しそうに見えた。
質問を続けようとしていた愛であったが、老人の憂いを含んだ横顔に、これ以上触れないほうがいい……と、直感的に判断すると、当たり障りのない言葉を慎重に選び口にした。
「忙しい人みたいね……」
「ああ……寂しいことだが、私の大切な一人息子は、仕事のためなら家庭をも顧みない。そういった男だ。健太郎がいなくなって、さらに拍車がかかった……」
愛の気遣いを察したのか、時守は少し考えるように間を置くと、先を続けた。
「健太郎がいなくなり……それからすぐに妻も去り、一人になって心を失ってしまった。あいつが信じられるのは人の心では無く、世界中の紙幣と有価証券……親として育て方を間違えたのかもな」
自嘲気味にそう言うと、思いつめたようにためいきをつく。
「だが、あんな奴でも私の息子であることに変わりない……健太郎が戻ってくることで、少しでもあいつの心を取り戻せるなら、そうしてやりたい」
フロントグラスを見つめたまま切実に訴える時守の表情は、愛情に満ちた父親そのものであった。
「それに……」
老人は唇を噛みしめると、込み上げる感情を押し殺すように、そっと心の中の声を絞り出した。
「私自身、もう一度あの子を――健太郎を、この手で抱きしめてやりたい……」
深い悲しみを宿した時守の目に、愛は何も言えなくなってしまう。
気づかぬうちに涙腺が緩み涙でいっぱいになるが、必死に溢れ出るのを堪えていた。
自分が今ここで涙を流してしまうのが、時守に対してとても失礼なことだと思ったから……
もっともっと悲しくて涙を堪えているのは自分ではなく、目の前の老人である。その深い悲しみを自分が完全に理解し共有することなど、到底できるとは思えなかった。
――だから……
愛は零れそうなった涙を振り払うように頭を振り、時守に精いっぱいの笑顔を浮かべると、たった今耳にした話など聞かなかったというように、元気に満ちた声で言った。
「さ、行きましょ!」
自分が明るく振る舞うことで、少しでも老人の気持ちを軽くすることができるのなら……そんな思いが彼女の中にあった迷いを払拭し、言葉となって導き出されたのだ。
突然の変化に戸惑う老人に構わずに、愛は自分に言い聞かせるように続ける。
「あなた、きっと悪い人じゃない……だから信じる、健太郎君が戻ってくる話。だって、わたしだって、そうなって欲しいもん……」
それは愛の心の中にある素直な思いでもあり、願いでもあった。
その偽りのない澄み切った瞳に圧倒されたように、時守はただ黙って愛を見つめていた。
自分の孫とも言えるような年頃の愛が咄嗟に利かした機転、純粋さに驚きを感じると共に、彼女が旅のパートナーとして自分の前に現れた幸運に、心から感謝していたのだ。
そんな時守の心情を知る由もなく、愛は沈黙を破り言葉を再開させる。
「だから、約束して」
「約束?」
おうむ返しに問う老人を真剣な眼差しでのぞき込むと、確かめるようにゆっくりと自らの要求を口にした。
「手遅れになる前に、必ず解毒剤を渡すって」
「ああ……必ず」
時守自身、すっかり解毒剤のことを忘れていたが、それを表に出さずに、彼女の瞳に応えるように力強くうなずいてみせる。
愛は『約束よ』と念を押すように小さく笑みを零すと、時守の目の前に人差し指を付きつける。
「それともうひとつ!」
「もうひとつ? まだあるのか?」
新たに浮上した要求に眉をひそめる老人に、愛は悪戯っぽい笑顔を浮かべながら言った。
「全てが終わったら、保険の契約をして! わたし、今月一件も契約取ってないの」
愛にとっては軽い冗談のつもりであったが、それを受け止める時守は、これ以上に無い程、真剣な口調で答えていた。
「一番高価な保険に入らせてもらう」
「本当? 約束よ? 破ったらキャンセル料は高いんだから!」
入社以来、初めての大口契約に子供のようにはしゃぐ愛に『任せなさい』と、言うようにうなずいてみせると時守は、彼女の笑顔に釣り込まれるように笑っていた。
これからピクニックにでも出かけるような楽しい空気の中、愛はとっておきの提案をするように瞳を輝かせる。
「そうと決まったら……まず」
「まず?」