第二章 SCENE3
「な、何言ってるの!?」
素っ頓狂な声を上げる愛に構わず、怒れる老人はさらに激しく続けた。
「お前さんには悪いが、運命の出会いというやつでな。彼女の方もお前さんみたいな常識に欠ける未熟な男とは、一刻も早く別れたいと隣で言っておる!」
荒々しい一撃を相手に見舞うと、時守は一方的に通話のスイッチを切ってしまった。
「なんてことするのよ!」
身を乗り出す勢いで気色ばむ愛に、時守は有無を言わさない口調で、きっぱりと言い放った。
「言いたいことを言葉にしただけだ、お互いのな」
愛の瞳を真っすぐに見つめながら、老人はゆっくりと携帯を持ち主に差し出した。
「…………」
急に熱を失ったように言葉を詰まらせると、愛は受け取った携帯をじっと眺める。
時守の指摘は図星であった……彼が携帯の相手に放った言葉は、愛自身の心の奥底に閉じ込められた本心でもあったのだ。
「悪いが電源を切るか、着信拒否にしてくれんか……電話の度に車を止められては一向に前には進まん」
時守は事務的にそう告げると、愛を心配させないようにさりげなく付け加えた。
「それに、頭を冷やす時間も必要だろう……あの坊やにも」
「勝手な妄想を抱かなければいいんだけど……」
それが杞憂の終わることを祈りながらためいきをつく。
愛は力なくキーを回しエンジンに火を入れるとウインカーを出し、車を車道に戻す。
ハンドルに意識を集中させながら沈黙を続けていたが愛が、意を決したようにぽつりとつぶやいた。
「わたし、来月に結婚するんです……」
「あの携帯の坊やと?」
確かめるような時守の問いかけに愛は黙ってうなずく。
もし愛が何も語ろうとしなければ、きっと時守はそっとしておいてくれるだろう。
携帯の向こうにいる相手とは違って、自分に話す意思が無ければ、無理やりに扉をこじ開けるようなまねは、きっとしない。
だからこそ愛は、全てを隠さずに話してもいいと思った。いや、正確に言うなら聞いて欲しかったのだ。
「仕事も来月で辞めて専業主婦、憧れの新婚生活……でね、今日は式場に二人で打ち合わせに行く予定だったの」
「私の見間違いかもしれんが……全然嬉しそうに見えん」
時守のみならず、その沈んだ表情を見れば、誰もが同じ意見を述べたに違いないだろう。
愛は黙ってうなずくと、ずっと一人で抱えていた心の迷いを解放させる。
「そう……わたし結婚って、もっと嬉しくて幸せなものだって、そう思っていたの……」
自分が結婚に対してこれ程までに気分が晴れないのは、世間一般でいうマリッジブルーのせいだと思い込むようにしていた。
でも、いつも心のどこかに違和感があって……挙式の日が近付くにつれ、それが日増しに大きくなっていった。
ひょっとして自分は大きな過ちを犯し、取り返しのつかない道を歩いているのでは?
自分が描き続けている幸せの形から、どんどんとかけ離れていってるのでは……
そう思い出すと不安になり、最近は眠れないまま朝を迎えたことが何度もあった。
「彼とは、いつから?」
「三年前から……職場関係の飲み会で知り合って、彼の方から一方的に付き合ってくれって言われて。わたし、その時付き合っている人いなかったし、彼、背が高くて結構格好良かったし……」
愛はそれまでの口調から一気にトーンを落とすと、ぽつりと言った。
「……でも、付き合ってみてわかったんです」
「坊やの本性が?」
全てを見透かした老人の言葉にゆっくりとうなずくと、愛は堰を切ったように話し出した。
「彼はいつも自分を通すことばかり考えていて……身勝手で、わたしの言うことなんか全然聞いてくれません」
「さっき拝見させてもらったよ」
「それに束縛も激しくて……友たちと遊びに行くのでさえ、彼の許可が必要なんです」
「息が詰まりそうだな」
「わたしが少しでも逆らうと、すぐに怒鳴りつけたり、それでも聞かないと……」
「暴力を振るうか……」
彼女の手首にある傷跡に目をやると、時守は悲しげにつぶやく。
愛は咄嗟に傷跡を隠そうとする……が、すぐに無意味な行為だと気づきやめると、それを認めるようにうなずき、補足するように続けた。
「ひどい時には一晩中殴られたことも……」
愛は唇を噛みしめると、思い出したくもない悪夢を語るように告白を重ねる。
「別れようとはしなかったのか?」
「何度も別れようとしました。でも、その度に泣きついてきて『心を入れ替えるから』って言われて、でも……」
「結果は何一つ変わらなかった……」
言葉を引き継ぐようにためいきを漏らした時守に、愛は複雑な笑みを浮かべてみせる。
「うん、しばらくは大人しいんだけど、気がつけばまたいつも通り……」
「良くあるパターンだな……」
程度の差はあれ、こういった人種は間違いなく存在する。
他人を傷つけることでしか自己表現ができない未熟性……想像力の欠如がそれに拍車をかけ、大切な何かを失うまで自らの過ちに気付かない。
いや、たとえ失ったとしても、その責任の全てを自分では無い存在に押し付け、また同じことを繰り返し続ける。
そして決まって傷つけられるのは大抵において、彼女のような心根の優しい人種である……
「怖いんです……彼、いったん怒ると何をするかわからないから。でも、そんなことにも慣れてしまうもので、わたし自身、彼の言いなりになることで彼を怒らせないように……」
愛の瞳に宿る偽りのない恐怖に、時守は思わず言葉に詰まりそうになると、呆れたようにためいきをつく、
「そんなものは恋愛でも何でもない……誰かに助けを求めなかったのか?」
「彼は周りには愛想のいい人で……だから、きっと信じないでしょう。それに彼、うちの取引先の人で、今別れたら会社に迷惑がかかるだろうし、結婚をあんなに喜んでくれているお母さんにも心配をかけたくない。だから……」
込み上げる感情を堪えるように息を飲むと、愛は悲しげに瞳を落とし、ぽつりとつぶやいた。
「わたしが我慢すれば、全てが上手く行くのかなって……」
潤む瞳で健気に微笑んで見せる愛に、時守の胸が痛くなる。
その決断が本心では無いことは時守に……いや、愛本人にも十分にわかっていた。
自分の取った行動が誰かを傷つけるなら、彼女は間違いなく自分が傷つく方を選ぶだろう、それによって自分が不幸に陥ることになったとしても。
そんな愛の優しさ、自己犠牲の精神を見せつけられ時守は言葉を失う。
「や、やだ、わたし何言ってるのかしら……」
何も返さない時守にわれに返った愛は、慌てて首を振る。自分の深刻な話題のせいで、時守が気分を害したと思ったのだ。
それと同時に、気づかないうちにあらいざらい吐露していることに恥ずかしくなると、頬を真っ赤に染めた。
「たぶん、愚痴を言っているように思えるが……」
時守はこれ以上、彼女にいらぬ気遣いをさせぬように冷静に答えを返す。
「初めて会った人なのにね……ごめんなさい、こんな話聞かせてしまって」
「いや、私は一向に構わんが……」
愛は時守の申し出に、恥ずかしさと感謝の入り混じった微笑で応えた。
沈んだ感情のギアを入れ替えると、車内に流れる重たい空気を払拭しようと明るい話題を探す。
幸運にもすぐに閃きが降りてきた愛は、瞳を輝かすと満面の笑みで時守にたずねた。
「と、ところで時守さんの奥さんって?」
「四年前に他界した……」
瞬時に引きつったような笑顔を引っ込めると、慌てふためいて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!」
踏んではいけない地雷を見事踏んでしまった運の悪さに天を仰ぎたくなったが、もうそれを無かったことにはできそうもない。
気まずさに耳たぶを真っ赤にさせる愛を横目で見ると、時守は笑みを噛み殺しながら助け船を出してやる。
「いや、構わんよ……」
彼女の計算し尽くされたような間の悪さ、不器用さに何故か口元が綻び、和やかな気分になっていたのだ。
そんな老人の微笑など知る由もなく愛は、恥ずかしさから逃げるように、無意識のうちにアクセルを踏む足に力を込めていた。
空港のターミナルを出た黒塗りの高級車。
毎日ワックスをかけていると言っても過言ではない光沢と威圧感に包まれた車内では、後部座席に深々と背中を沈ませる時守真一がフライトの疲れを癒す間もなく、新たに発生した『業務外』の問題に頭を抱えていた。
「まずは北陽会病院に向かってくれ……早川先生に話を聞きたい」
運転席でハンドルを握る水島に行き先を告げると、身を乗り出すようにして質問する。
「それで、父はまだ見つかっていないのか?」
「全力を尽くしていますが、まだ……」
「連絡は?」
「駄目です。今朝から何度も携帯の方にもかけているのですが……」
「そうか……」
口調こそ冷静だったが、ミラーに映る時守の表情からは明らかに苛立ちの色が滲んでいる。
申し訳なさそうな表情を浮かべる水島にうなずくと、疲労と落胆の入り混じったためいきと共にシートにもたれかかった。
ゆっくりとスーツのポケットから携帯を取りだすと、通話記録の検索を始め――履歴の最下層に埋もれる父親の番号を発見すると、万が一の可能性にかけてコールした。
振動する携帯を手に取った時守は、ディスプレイに表示されるナンバーを確認すると満足そうに目を細めた。
「これで役者がそろったか……」
けげんに見つめる愛の視線に答えるようにつぶやくと、そのまま携帯を耳に当て回線を繋いだ。
「懐かしい声だな。お前が仕事以外のことで電話をかけてくるなんぞ何年ぶりかのことだ? 一体どういう風の吹きまわしだ? 今夜、大雪でも降らそうっていうつもりなのか?」
懐かしい友人との再会を喜んでいるような口調であったが、その言葉の端々には明らかに揶揄が込められていた。
盗み聞きしているような後ろめたさを感じたが好奇心には勝てず、愛はつい聞き耳を立ててしまう。
時守はそんな愛のことなど気にするふうもなく……いや、むしろ唯一の観客を楽しませようとするように、芝居がかった声で会話を続ける。
「どこにいるかだって? 教えたらパーティーの招待状でも送ってくれるのか?」
愛から見てわかるほど、完全に時守のペースで会話が進んでいた。
ことごとく質問をはぐらかされ翻弄されている相手に少し同情しながらも、愛は噛みあわない二人のキャッチボールの行方を見守った。
「何をするつもりかって? 良い質問だ」
その質問を待っていたのか……時守は運転席の愛に目配せすると、不敵な笑みと共に決め台詞を口にした。
「明日のニュースを楽しみにしてるがいい……」
傍観者から一転して共犯者の仲間入りを果たした愛であったが、彼女自身は時守の意図を全く理解できずにいた。
時守の口から飛び出した物騒な宣言に戸惑いを見せたのは彼女だけではないようで……
電話の向こうにいる相手も閉口すると息を飲み、老人の次の発言に耳を澄ませていた。
「よし、ゲームをやろう!」
情報を引き出そうとする相手の思惑を見通しているのか、時守は唐突にそう宣言すると、その相手を置き去りにしたまま言葉を続ける。
「隠れんぼだ。お前が小さい頃よくやっただろう? お前が私の居場所を見事に当てたらお前の勝ち……ただしチャンスは一回だけ。外したら二度と電話には出ない。いいな、チャンスは一回だぞ、じゃあな」
有無を言わせぬように一気にゲームのルールを説明し、それがスタートの合図だと言わんばかりに一方的に通話のスイッチを切ると、時守は愛に向かって悪戯っ子のように微笑んでみせた。
「ニュース……? 何をする気だ?」
回線を遮断された真一は携帯を耳に当てたたまま、独り言のように父親の言葉を反芻していた。
もし父親が法に触れるようなこと、もしくはニュースの一面を飾る馬鹿なことをしでかして、それが世間に知れ渡ることになったら、企業としての損失は計り知れないだろう。
――それだけは絶対にやめさせなければ……
社長としての責任、あるいは築き上げた経歴に傷が付く焦りからか、真一は無意識のうちに携帯のりダイヤルのボタンを押そうとしたが、その時――神の啓示のような父親の声が意識の中に響き渡った。
――外したら二度と電話には出ない……
その声の持ち主の性格を熟知する真一は、それが単なる脅しではないことを十分に理解していた。
敗北感にためいきをつきながら携帯をシートに投げ捨てると、真一は神にでも祈るような心境で天を仰いだ。
「いったい、どこにいる……」