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第一章 SCENE2

 「へえ……では、貿易関係の会社を?」

 「ああ、二十七の時、南仏の小さな町に食器を買い付けに行ったのが始まりで……それから世界各国に三十四の支社を持つようになり、今ではその町にリゾートホテルを建て、名誉市民の肩書きまでもらった」

 テーブルの向かいに座る愛に、時守はひとしきりの素姓の説明をした。

 愛は時守が話すたびに自分のことのように大きくうなずくと、まるで『アルゴ探検隊』の冒険談でも聞いているように、透き通った瞳を輝かせていた。

 時守自身、人生の中で数えきれないセールスマンと商談を繰り返してきたが大抵、この手の話は上の空で聞き流し、心の無いお世辞を浴びせかけるその裏で、値段を釣り上げる電卓のキーを叩いているのが常であった。

 が、彼女にはそんなそぶりは微塵の欠片も感じられずただ純粋に、時守の話に熱心に耳を傾けているようであった。

 「全部、時守さん一人で?」

 「ああ……今は会社の経営を息子に任せて、一線から離れてしまったが……」

 「でも凄いですよ、わたしなんか全然想像もつかない世界です」

 愛は深いためいきをつくと、ふと現実を思い出す。

 「えっと……そう、お仕事ですよね」

 慌ててブリーフケースから保険に関する資料を取りだすと、時守に手渡そうとする。

 老人は手を伸ばしそれを受取ろうとするが、誤って手を滑らせてしまい、資料を床に落としてしまう。

 「ああ……」

 「あ、わたしが拾いますので、どうかそのまま」

 愛は時守を手で制すると身を屈め、床に散乱した資料を拾い上げようとする。

 「済まんな……」

 テーブルの下で這いまわる愛を見下ろしたまま、時守は少し緊張気味に声を震わせる。 老人が資料を落としたのはもちろん故意に――である。

 目の前にいるセールスレディの意識をテーブルから外させるためであったが、そんなことを疑う由もなく愛は必死で資料をかき集めていた。

 そんな健気な姿に少し罪悪感を覚えたが、もう後には戻れない。

 時守は胸ポケットに手を入れると、愛に悟られないように微かに行動を起こした。

 そんなことに気づくふうもなく、愛がテーブルの下からかき集めた資料を手に無邪気な笑顔を見せる。

 「お待たせしました。これが、ああッ!」

 今度は彼女自身が手を滑らし、拾い上げた資料を再び床にばら撒いてしまう。

 「わたしったら、何をしてるのかしら……」

 恥ずかしさに顔を真っ赤にすると、再び資料のサルベージを行うべくテーブルの下へともぐりこんだ。

 「…………」

 まるでコメディ映画のような動きを見せる愛に親しみを感じたのか、老人の口から自然と笑みが零れた。

 再度、資料を拾い上げた愛が、ようやくのことで時守の手に資料を渡す。

 時守はその資料を丁寧にテーブル上に置くと、愛が席に復帰するのを待って両手を広げてみせた。

 「まあ落ち着いて……時間はあるから、ゆっくりと話をしましょう」

 資料との格闘で息を切らしている愛に、自らが持つカップを掲げると、気品高い仕草でカップに口をつける。

 「ここのカプチーノは中々のものでな……」

 カップから香り立つ湯気を鼻先で堪能すると、時守はおどけるように片目をつむってみせた。

 「……ですよね。落ち着かなきゃ」

 老人の落ち着き払った仕草に釣りこまれるように、愛もカップを手に取るとカプチーノに口をつける。

 心地の良いカフェインと濃厚なミルクの甘さが心地良く沁みわたり、知らずのうちに目を細めると深い吐息をついた。

 その様子を見つめる時守と目が合うと、どちらかともなく笑みを零し合い、再びカップを口に運ぶ。

 ローストされた豆の香りに落ち着きを取り戻すと、愛は改めて本来の目的である保険の話を切り出そうとする。

 が、それを遮るように時守が口を開いていた。

 「では、そろそろ本題に入ろう……」

 時守は胸ポケットから何かを取りだすと、それをゆっくりと愛の前に差し出した。

 てっきり保険の話が始まるのだと思っていた愛は、虚を突かれたように時守の手のひらに目をやった。

 「これが何かご存知かな?」

 手のひらにある赤い包み紙――何かの薬のようだが、もちろん愛がそれを知っているはずもない。

 けげんに赤い包みをのぞき込む愛が首を傾げるのを確認すると、時守は困惑の表情を浮かべる相手に説明を始めた。

 「この仕事を長くしていると、実にいろんなものが手に入る……」

 「はあ……」

 「この薬はロシアの古い友人から貰ったものでな。旧ソビエトのKGBから流れてきたものだそうだ」

 「薬……? 胃腸薬かなんかですか?」

 真剣味を帯びた老人の眼差しなど気づかないというように、愛は間の抜けた質問を投げかける。

 時守は思わず肩透かしを食らったようになるが、気を取り直して先を続けた。

 「致死量は0.03マイクログラム……この包みの量があれば、一つの大都市が全滅するらしい。毒は体中の神経を侵し、最後は苦しみ悶え息絶える……暗殺が横行した時代に作られたものだが、これが実に良くできている」

 愛は異国の言葉か呪文でも聞かされたようにポカンとしていたが、時守の口から出た物騒なキーワードに何かしらの良からぬ気配を察すると、恐る恐る問いかけた。

 「その薬が……わたしとどう関係しているのですか?」

 「そう、実にいい質問だ」

 そう切り出すのを待っていたかのように、時守は愛のカップに視線を落とした。

 「カプチーノは美味しかったかね?」

 「カプチーノって……?」

 老人の言葉をなぞるようにつぶやくと、愛は視線をカップに落とす。

 アマルフィの真っ白なカップのすぐ隣――ソーサーの上に赤色の包みが置いてあった。 「ん……?」

 愛はのぞき込むようにその包みを確認する。

 それは時守が手にしている包みと全く同じであり――

 既に封は開けられて、中身は空っぽだった。

 「!!!???」

 全身に稲妻のような衝撃が駆け巡り、驚愕に目を見開いた。

 周囲の音が全て消え去り、瞬時に煮えたぎった血液が逆流し耳たぶを真っ赤にさせた。 「つまり、そう言うことだ。今、君の体内には致死量を遥かに超える毒が入っておる」

 大きく口を開けたまま愕然としている愛に、老人は静かに事実を語った。

 突然に下された死の宣告に思考回路が完全に凍結してしまうと、愛は焦点の定まらないままの視線を老人に向けた。

 「安心しなさい、すぐには死なんよ。顆粒状のカプセルが溶けるまで十時間……それまでは完全なる健康体だ」

 魂が抜けてしまったように虚ろになっている愛に落ち着いた声で説明すると、時守は胸ポケットから小さな瓶を取り出す。

 「それまでにこの解毒剤を飲めば、君の体内の毒はきれいさっぱりと消えて無くなる」

 絶望の淵に立ちつくす愛に手を差し伸べるように、彼女の目の前で解毒剤の入った瓶をカラカラと振ってみせた。

 その音でようやくわれに返った愛は、食い入るような視線で瓶の中で踊る錠剤を追う。

 自らの言葉が確実に届くようになったのを確認すると、時守は瓶の動きを止めてゆっくりと愛に切り出した。

 「できることなら悲劇的な結末は見たくないと思っている。だから……」

 そこで言葉を区切ると、愛の瞳をのぞき込むように顔を近づけ、大切な秘密を打ち明けるような重苦しい口調で言った。

 「協力して欲しい……」

 「協……力?」

 確かめるような愛の視線に、時守は静かにうなずいてみせた。

 微かに差し込んだ希望の光が、死への恐怖に凍りついた思考回路を徐々に溶かし始める。

 「お嬢さんが私に力を貸してくれたら、この解毒剤を手遅れになる前に渡すと約束する……」

 「…………」

 切実にそう訴える時守の瞳に嘘や偽りは感じられなかった。

 やむにやまれぬ事情があり、最後の手段として毒を使ったのだ、と語っているようであった。

 もちろん致死量を遥かに超える毒を飲まされた方にとっては、この上なく勝手で迷惑な話であることには変わりなかったが、何故か目の前の老人に憎しみは感じなかった。

 ――悪い人では無い……?

 そんな直感からふと緊張が緩んだのか、愛がゆっくりと質問する。

 「もし、協力……しなかったら?」

 「お互いに悲しい結末を迎えることになる」

 その言葉の持つ意味――苦しみ、喉を掻きむしりながら息絶える自らの姿を想像すると、思わず身震いする。

 「で、でも……その毒自体、偽物かもしれないじゃない?」

 「そう思うなら笑い飛ばしてこの店を出ればいい。十時間後に答えが出る」

 核心を突いた愛の抵抗であったが、その質問に対する答えは用意済みなのか、時守は自信に満ちた声でそう言うと、自らの腕時計に視線を落とす。

 「十時間……」

 愛も釣られるように時守の腕時計をのぞき込んだ。

 「今、時計の針は十時を回ったところだから……答えが出るのは午後の八時ということになる」

 時計の針を目で追いながら、愛に残された命のタイムリミットを告知すると、老人は腕時計から顔を上げた。

 「さあ。どうするかな? お嬢さん。度胸試しをするか? 好きに選べばいい……」

 「…………」

 これ程までに運命を左右さする選択肢をした経験があっただろうか。

 愛は決断を迫る時守を見つめたまま、ゆっくりと唾を飲み込んだ。

 ――まるで映画の主人公みたい……

 緊迫した状況の中であったが、あまりにも現実離れした事態がふと、そんなことを考えさせていた。

 ――スクリーンの中のヒロインなら、きっと笑い飛ばして席を立つんだろうけど……

 現実はそんな簡単なものではなかった。ハッピーエンドが保障されているヒロインとは違って、自身の脚本には約束された結末など存在しない。

 愛はゆっくりと首を振ると、白旗を上げるようにためいきをついた。

 「ダメ……わたしにはそんな勇気はないわ」

 「賢明な選択だ」

 勇気ある決断を称えるように、老人は愛の瞳にうなずいてみせる。

 張りつめた緊張から解放された愛は大きく安堵の吐息をつくと、時守に向かって質問した。

 「……で、わたしは何をすればいいの?」

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