最終章
その次の日――
テレビのニュースに、小さな出来事が取り上げられた。
『宇宙からのメッセージ?』と題されたテロップが流れると、ニュース原稿をアナウンサーが読み始める。
映像がスタジオから切り替わり、ヘリコプターから撮影されたものになった。
真下に緑を見下ろすヘリコプターの映像が、少しずつ高度を下げていく。
「今日未明、長野県の松本で、巨大なミステリーサークルが出現しました。発見されたサークルは直径約百メートル。国内で発見された中では最大級のもので、昨夜から今朝にかけて作られたものだと思われます……」
低空で飛行するヘリからは眼下に流れる木々の映像が映し出されていたが、その流れがふいに途切れると、広大な畑が画面いっぱいに出現した。
その麦畑に一面に描かれていたのは――
テディ・ベアだった。
ヘリが畑の周りを周回すると、愛くるしいメッセージをカメラの向こう側の人たちに伝えた。
アナウンサーはテロップの『?』の真意が、画面を見る人々に浸透したのを感じると、よりコミカルな色合いを演出するべく、あえて真面目な口調を貫き通しながらニュースを締めくくった。
「なお、このミステリーサークル……誰が何の目的で作ったかは、不明です……」
ほんの数日いなかっただけなのに、オフィスの風景が全く別の世界に見えた。
人気のないバロン生命。懐かしの自分の席に座る愛は。ぼうっと頬杖をつくと、廊下を行き来する人の流れを眺めていた。
魂が抜けたようになっている愛の耳に、ひときわ元気な声が聞こえる。
「聞いたわよ、仕事続けるんだって?」
愛は振り返ると、声の主に向かって微笑する。
「うん」
「昨日、無断欠勤したと思ったら、翌日には婚約破棄……いったい何があったの?」
いつものように遠慮の無い葉子の態度に、ようやく自分が日常に帰ってきたのだと、ほっとした気分になった。
「色々……ね」
昨日一日で起こった夢のような出来事は、どうやっても上手く説明できそうにない。
――それに……
時守と過ごしたかけがえのない時間は、自分だけの胸にしまって鍵をかけるつもりであった。この先の人生で誰かに話すことはきっと無いだろう……
遠い目をしながらぽつりと答える愛に、葉子はいつもと違う何かを感じていた。
昨日の電話を切った後に何が起こったかわからないが、葉子が少し距離を感じるほどに、あらゆる意味で彼女が『変わった』ような気がしたのだ。
「ま、あんたが選んだ道なんだから、わたしは応援するよ。お金以外のことなら、いつでも相談に乗るからね」
それの変化が嬉しいことなのか、寂しいことなのか自分でも判断がつかなかったが、葉子は明るく彼女を励ました。
「ありがと」
笑顔で応える愛の肩を叩くと、葉子はそっと耳打ちをする。
「また合コンでも誘うわ」
葉子は得意げに片目をつむってみせると、自らのバッグを片手にオフィスを後にする。
葉子がオフィスから出ようとした時、すれ違うようにして一人の男が入ってくる。
男は葉子を呼びとめると何かをたずね、彼女が「それなら……」というように、愛の方を指さした。
立ち去る葉子の背中に律儀に一礼すると、男は愛の前にやってくる。
「深沢さんですね?」
「は、はい……」
礼儀正しく確認する男に、愛は戸惑いながら返事をする。
年齢は五十前後であろうか……白髪まじりの短めの髪にメガネ、という風貌の男は、名刺を取り出すと丁寧に愛に差し出した。
「私、時守聖二の弁護士をしておりました後藤と申します。生前は時守が大変お世話になったと伺っております」
「はあ……」
状況が見えず曖昧に答える。
後藤は胸ポケットから一通の封筒を取り出すと、ゆっくりと愛に向って差し出した。
「これはおそらく、あなたに当てた手紙だと思います……」
それを受け取った愛は、ごく一般的に見える変哲のない封筒に目を落とす。
切手が張られていない封筒には、見惚れてしまうほどの達筆で時守聖二の名前、宛名の場所に『最後の友人へ』と書かれていた。
時守の名前を目にした途端、愛の涙腺が少し緩みそうになる。
「今日の朝、時守が入院していた病人にこの封筒が届きました。いや、正確には戻ってきたと申しましょうか……」
困惑気味にそう説明すると、ようやく探しだした『最後の友人』であろう人物に、全を委ねるというような眼差しを向けた。
「…………」
思いもよらぬ時守からの便り――
自分と出会う前に出されたその手紙には、いったい何が書かれているのか?
愛は封筒を開けると、後藤が静かに見つめる中手紙を読み始めた。
『この手紙を君が見る頃には、私はどこにいるのだろう? もう二度と君の前にあらわれる事は無いと思うが、君がまだ私のことを友人と認めてくれるなら、私の最後の言葉を聞いて欲しい』
手紙の中から語りかけてくる時守は、少しよそよそしく――愛の存在さえもしらないから当たり前であったが――その他人めいた口調に、少し寂しさを感じた。
『まだ君の顔も名前も知らないが、まず今度の事で大きな迷惑をかけた事をわびておきたい。本当に済まなかった。この償いは必ずさせてもらう』
オープンカフェで時守から赤い包みの『劇薬』を飲まされたことを思い出すと苦笑いする。
あの心臓が飛び出しそうな緊張が、今ではとても懐かしく楽しい出来事のように思え、知らずのうちに楽しい気分になっていた。
『全ては私の身勝手な思いつきで、どんな弁明をしても許さるものではないとわかっている。だが、どうしても私はあの場所に戻りたかった。いや、戻らなければいけなかった』
ミステリーサークルを作りに行くと言った真剣な顔、遠い目をして健太郎との思い出を語る横顔が蘇り、愛は先を読むのが辛くなる。
『私の時間は健太郎を失った、あの夜から止まったままで、一人ではそれを進める事も、事実を認める事も出来ずにいた。そうしてしまうのが怖かった』
溺れる健太郎を必死に助けようとする時守――
必死に孫の名前を呼び続ける姿を想像すると胸が痛くなり、愛はいったん読むのを中断する。
だが、にじんできた涙を振り払うように顔をあげると、綴られた時守の気持をすべて受け止めるべく手紙に視線を戻した。
愛の思考の中に再び時守が語りかける。
『だが、自分に残された時間が僅かなものと知り、自らが目をそむけてきた事に向かい合おうと覚悟を決めた』
湖を前にしてうっすらと涙を浮かべていた時守。
今から考えれば、あの時にはもう目的が達成され、思い残すことが無かったのかもしれない……
『再びあの場所に戻る事で、健太郎と過ごした、かけがえのない時間を取り戻す事が出来るのでは? 木々のせせらぎに耳を傾け、水の冷たさをこの手に感じ、星の重たさに身を置く事で、あの日に起こった全てが許され、心が解放されるのでは? 悪夢にうなされ事無く、はじめてゆっくりと目を閉じて、眠れるような気がした』
愛を待つこと無く病室のベッドから時守は健太郎の元へと旅立っていった。
愛が嫉妬を覚えるほどの幸せそうな微笑みを残して……
『それが残された時間の中で、私に出来る全てだと。君には感謝している。本当にありがとう。もし全てが終わり、君がまだ私の友人でいてくれたなら、その時は私に一杯奢らせて欲しい』
手紙の文面はそこまでで終わり、それを読み終えた愛の脳裏の中から、すうっと幕を引くように時守との思い出が消えていった。
それと同時にオフィスの景色が戻ってくるが、愛はしばらくの間手紙から目を離せなかった。
「聖二さん……」
愛が手紙を読み終えたのを確かめると、後藤はここへ来たもう一つの用件を切り出していた。
「時守は生前、あなたと保険の契約をすると約束していたみたいで……そのキャンセル料をお渡しするように言われています」
「キャンセル料って……」
その言葉を反芻しながら愛は思い出す。
車の中で交わした、時守との保険の契約のことをすっかり忘れていたのだ。
――でも。
あれは冗談であって本気ではない。
愛は慌ててその申し出を辞退しようとした。
が、後藤は素早く一枚の小切手を取りだすと、愛のデスクの上にそっと置きながら言った。
「これにサインしてください」
弁護士として長く人を見てきた後藤は、目の前の女性が、そう言った欲に興味が無い人種であることを見抜いていた。だから当然その小切手を受け取らないであろうと。
でも、彼にしてみれば、自分の雇い主であった時守の命令の方が遥かに優先であった。
有無を言わさない微笑でサインを求める弁護士に愛は逡巡するが、せっかくの時守の心遣いを拒むのも悪いと思って、キャンセル料をありがたく受け取ることにした。
愛はデスクの小切手を手に取ると、何気に記載されている金額に目をやった。
――えッ?
そこに記載されている額は、愛がこれまでに見たことの無い数字だった。
印刷の枠をはみ出す勢いで横並びになっているゼロの数に思わず息を飲み込んだ。
――た、確かにキャンセル料は高いって言ったわよ、だけど……
愛は小切手に視線をくぎ付けにしたまま、恐る恐る後藤にたずねていた。
「これって……いくらなの?」
それから数ヶ月後――
世界中に心温まるニュースが流れていた。
最初は新聞の小さな記事だったのだが、それを見た人々の反響が凄すぎて、瞬く間に世界中のメディアに取り上げられるようになったのだ。
CNNもその例外ではなく、局のニューススタジオでは、キャスターがカメラの向こうにいる何百万の視聴者に向かって『奇跡』ともいえる出来事を伝えていた。
「CNNニュースです。アフガニスタン、カンボジア、スーダンなどの世界各地の難民キャンプに、季節外れのサンタクロースがやってきました」
キャスターから映像が切り替わり、『アフガニスタン』のテロップが入った映像が映される。岩と砂しかない荒野の中にベージュ色テントが並んでいた。
「キャンプの子供たちの元にはテディ・ベアのぬいぐるみと共に、食料、毛布、ワクチン等が続々と送られ――これにより、数万名の小さな命が救われました」
キャンプに到着したトラックから救援物資が降ろされ、子供たちが集まってくる。
食料が入った箱を受け取ると、レンガ色の民族衣装を着た少女がテディ・ベアを小脇に抱え、純粋な笑みを浮かべるとカメラに――あるいはプレゼントを届けてくれた支援者に手を振っていた。
そこでカメラがスタジオに切り替わる。
原稿から顔を上げたキャスターは一呼吸置くと、全世界の大人たちに問いかけるように最後のコメントを読み上げた。
「なお、この心温まる支援を行っているのは邦人の女性で……支援は今もなお続いています」