第四章 SCENE7
時守は静かに目を閉じ、眠りについていた。
愛からの通話を切った後、しばらくはベッド脇に置いた携帯が着信するのを待っていたのだが、不意に訪れた心地よい眠気に耐えられず、知らずのうちに深い眠りに落ちていたのだ。
明かりを消した病室には、彼の眠りの邪魔をするものは何も無く、僅かに開けている窓から入ってくる穏やかな夜風が時折カーテンを揺らした。
その時――
静けさに終止符を打つように異変が起き始めた。
時守の眠るベッド――正確には病室全体に僅かな振動が走り、それが次第に大きくなっていった。
それと同時に、窓の外がぱっと明るくなったかと思うと、薄暗かった病室内が青白い光で満たされる。
その柔らかい眩しさにまぶたを刺激された時守が、ゆっくりと目を開ける。
――これはいったい……
自分の周りで起こっている異様な現象に驚愕すると、青白い光の正体を確かめようと窓の外へ目をやる。
カーテン越しに光の球体が見えた。
人ほどの大きさであろうその球体は、ゆっくりと窓のほうへと向かってきた。
球体は、まるで窓など無かったようにブラインドを通り抜けると、どんどんと時守のベッドに近づいてきた。
迫ってくる球体に畏怖を感じると、時守は緊張に息を飲む。
が、それはすぐに穏やかな笑みに変わった。
目の前にやってきた光の正体――
それは、時守がずっと心に抱いてきた、希望そのものであった。
待ち詫びていたその時が、ようやく自らの元に訪れたのだと悟った。
そして自分がもう、この病室で愛を迎えることができなくなってしまったということも……
老人は、その光を抱き締めようと手を伸ばすと、その中にはっきりと見える懐かしい微笑みに向かって呼びかけていた。
「健太郎……」
脚立に腰掛け、無意識に爪を噛むと、愛は各班の作業を祈るように見つめていた。
日付が変わるまで残り三十分を切った時から何度も腕時計に目をやり、迫りくるタイムリミットを確かめていた。
が、残り十分を切るとその行為が怖くなり、時計を見ることができなくなってしまったのだ。
時守との約束を絶対に守る。
希望を信じて諦めない――
ただその一心で前だけを見ていた愛の胸中に、どうしようもない不安が沸き起こる。
その刹那――
愛の耳に、水島の声が飛び込んできた。
「第一班! 終わりました」
それを皮切りに、次々と畑の中に作業終了の声が上がった。
「第二班、終了であります!」
「第四班も終わりました」
各担当エリアから、それぞれの声が愛に作業終了の報告をする。
最後に残された班――真一も麦を掻き分けながら愛の前にやってくると、疲労混じりの声を吐き出した。
「こっちも今、終わったぞ」
その声が耳に届くやいなや、愛は封印していた腕時計に目を落とす。
耳まで届く鼓動の中、視野に飛び込んできた時計の針は――
『十一時五十六分』
時の神様は愛たちに味方をした。
大きく息を吐き出し安堵すると愛は、固唾を飲んで見守る全員に向かって叫んでいた。
「みんな、完成よ! 間にあったわ!」
一同から一斉に歓声が上がった。
と、同時に、何人かが自分の手にした道具を天に向かって勢いよく投げ出した。
まるでお祭騒ぎのように男たちは喜びあい、お互いの肩を叩きあった。
月岡と水島はしっかりと抱きあい、子供のように足をピョンピョンと跳ね上げる。
真一の部下たちは、互いの立場を乗り越え一つのことを成し遂げた充実感に満たされると、お互いの健闘を称えあった。
自分の前では見せたことのない笑顔を浮かべる部下たちの姿を、少しの嫉妬混じりの視線で見ていた真一は、差し出しされた早川の手に苦笑いを浮かべると、しっかりと握手を交わした。
そんな彼らの姿を、自分の子供でも見るような眼差しで眺めていた愛が、ふと思い出したように、慌てて携帯を取り出した。
サークルの完成を待ちわびている相手に、いち早くその声を届けようと、リダイヤルキーを押し携帯を耳に当てる。
何回かのコールの後に回線が繋がる。
「やったわ! 聖二さん、完成したわよ!」
受話器の向こうにいる相手に、とびっきり元気な声でサークルの完成を伝えた。
が、電話に出たのは時守ではなかった。
「え、誰……? 聖二さんは?」
はじめて耳にする男の声に、愛は戸惑いをあらわにする。
一瞬、番号を間違ったのかと考えたが、電話の相手はその可能性を否定するように愛の質問に答えていた。
慎重に言葉を選びながらまず、自分の正体がこの病院に勤める医師であることを説明する。
そして――
携帯を耳に当てたままの表情が一瞬にして凍りつく。
「嘘ッ……いつ?」
血の気を失ったように愕然となる――
電話の向こうで相手が説明をしていたが、その声は一切耳に入ってこなかった。
金縛りにあったように全身が強張り震えが止まらなくなる……
喜びを分かち合っていた真一たちが、愛の異変に気がつく。
そのただならぬ様子から、何が起こったのかを察すると真一が愛の元へ向かおうとした。
が、それを早川が止めると『何故?』という視線で見つめる真一に静かに首を振った。
「…………」
誰がどんな言葉をかけようと、彼女の慰めにはならない。
そうっとしておくことしか、今の自分たちにできることはない……
早川の目からそれを読み取った真一は無言でそれに従うと、静かに愛を見守った。
たった一人残された愛は、放心状態のままその場に立ち尽くす。
「そんな……どうして?」
震える声で問いかけるが、それに答えるものはいなかった。
不意に虚空に落ちていくような感覚に襲われると、体中の力が一気に失われていった。
立っていることさえもできなくなると、愛は携帯を手にしたまま崩れるように膝もとから地面に座り込む。
「どうして……? 待ってるって言ったじゃない」
声にならない声を無理やりに絞り出すと、自分をこんな悲しみに突き落とした相手に抗議する。それがもう届かないことを知りながらも……
堪え切らない悲しみに、どうしていいかわからずに畑の土を握りしめる。
固く握られたこぶしに点々と涙が落ちていく。
それを拭うこともなく何度も首を振ると瞳を閉じ、込み上げる感情を何とか押しとどめようとする。
が、それも限界であった。
愛は一気に湧き上がる感情を開放させると、声を限りにして叫んだ。
「バカーっ!!!」
悔しさに何度も何度もこぶしを叩きつけ嗚咽を噛みしめると、涙でいっぱいなった瞳で夜空を見上げた。
夜空は天球でさえも嫉妬を覚えるほどの満天の星で埋め尽くされていた。
星たちは何事も無かったように瞬き、愛に優しく微笑みかけている。
どこまでも美しくて純粋な夜空を見上げたまま、愛は子供のように泣きじゃくった。
こんなふうに大声で泣いたのは、生まれて初めてのことであった……
泣きながら愛は、何も言わずにいってしまった時守に、言葉にならない心の声をぶつけ続けた、
その声が届いたのか……
星たちの中の一つが、それに応えるように小さく瞬いていた。
宇宙に一番近い麦畑に咲いたミステリーサークル――
聖二さんのメッセージは遥か遠くの星の世界に届き……やっと太郎君と会うことができました。