第四章 SCENE6
「まったく、私を何だと思ってるんだ」
シャツの裾をまくりあげた真一が板を両手に持ち、慣れない足つきで麦を踏みしめながらも、納得がいかないというように不満を漏らしていた。
――よりによって、あのことを持ち出すとは……
抜け目のない父親の狡猾ぶりに悪態をつく。
と、同時に、愛に事件の全てを知られてしまったであろうことに対する恥ずかしさに、思わず舌打ちした。
忌々しげに愚痴をこぼす真一の姿を、早川が笑みを堪えるようにして眺めていた。
愛に一喝される彼の姿に、何とも言えない爽快感を感じていたのだ。
長い間、真一という人間を見てきたが、これ程までにうろたえ慌てふためく姿を見たことが無かった。
――この人にもそんな一面があったんだ……
妙なことに納得をしながら部下の水島の方を見ると、彼もまた同じ思いなのか――複雑な笑みで早川の視線に応えていた。
水島に相槌を打つと、懸命に作業に没頭する真一の背中に声をかける。
「今は、彼女が私たちのボスです」
「わかってるよ。まったく……」
手を休めることなくそう吐き捨てると、真一は独り言のように続ける。
「こんなことのために二百万ドルを無駄にするとは……どうかしてる」
――いったい自分は何をしているんだろう?
そう言いたげな真一の背中に、早川は彼に聞こえないように小さな声で相槌を打った。
「まったく……」
手帳を片手にした愛は、現場監督の職務を見事に全うしていた。
ペースが遅れ気味の班があれば、すぐさまに駆けつけ、身振り手振りで的確な指示を与えた。
それと共に自らも率先して動き、メジャー、竹の棒、ロープ、次々にアイテムを持ちかえ、皆に励ましの言葉をかけ続ける。
愛が無意識に発揮しているリーダーシップは優秀で各自、相当疲労が蓄積しているにも関わらず誰一人弱音を吐くこと無く、全員が彼女の熱意に応えようと必死になって麦と格闘していた。
作業に必死なのは真一とて同じであったが、彼の原動力はまた違うところにあった。
板で麦を踏み続ける彼の額が汗でいっぱいになり、それが湯水の如く顔に落ちていた。
息を切らしながらその汗を拭い呼吸を整えると、珍しいものでも見るような眼差しを向けている早川に問いかけた。
「すぐに音を上げると思ってたか?」
肩で息をする真一を心配そうに見ていた早川は、その質問に肯定とも否定ともとれる複雑な笑みで応えた。
「部下の前で、無様な姿を見せられないだろう? これでもグループの代表だからな」
「そうですか……」
さすがにグループの代表を務めるだけあって、愛にやられっぱなしでは終わらない。
いかにも真一らしい意地の張り方、反骨精神に早川は少しほっとする。
「と、格好をつけたいところだが……」
真一は手を止めると、今までに見せたことのないような笑みを浮かる。
「正直言うと、少し楽しくなってきた」
その額面通り、真一は頬の筋肉を緩ませていた。
「楽しい?」
けげんに見つめる早川に、自分でもわからないと言うように説明する。
「上手く言えないが、遠い昔……そう、子供の頃に戻ったみたいだ」
「子供の頃……ですか」
「ああ、あの頃はいつだって大人を驚かせようと、悪戯ばかり考えていた。あとでこっぴどく怒られるってわかっているのにな」
遠い目を輝かせると少年のように笑う。
「悪戯をする度に怒られて、赤くなるまで尻をひっぱたかれた。でも、次の日には、もう新しい悪戯を考えていた」
父親と過ごした幼い頃の思い出を語る真一は、とても楽しそうであった。
同じような幼少時代の経験を持つ早川も、自らの小さな悪事を思い出すと同調するように笑い合う。
「でも、この年になってまで、こんな大きな悪戯をすることになるとは、夢にも思っていなかった」
真一が皮肉めいて言うが、その口調に棘は感じられなかった。
「あの子に感謝するべきなんですかね」
早川は、少し離れた所で元気な声をあげている愛を一瞥すると、その答えを真一に求めた。
「さあな……」
素直に認めるのが癪だったのか、本当に自分でもわからなかったのか――真一は肩をすくめてみせると、ふと思い出したように質問していた。
「ところで、このサークルはどんな形になるんだ?」
手帳をのぞきこむ愛に既に同じ問いかけをしていた早川は、悪戯っぽく片目をつむってはぐらかした彼女の言葉を、そのまま伝えていた。
「私も詳しくは知りませんが、難しい幾何学模様だと、彼女は言ってました……」
「幾何学模様?」
「ええ、私にもよくわかりませんが、彼女の説明だと……」
不意に――
二人の会話の間に入ってくるように、大きな笛の音が鳴り響いた。
「何だ?」
音が聞こえる方向に、真一と早川が同時に顔を向ける。
笛の持ち主は麦畑の入口のあたりから近づいてきていた。
目を凝らす二人の視界に、徐々にその人物の姿が浮かび上がる。
それは紛れもなく警察官であった。
自転車を押した警察官は二人の目の前までやってくると、緊張した面持ちで開口一番にたずねた。
「あなたたち、ここで何をしているんですか?」
「…………」
真一は何も答えられない。どう答えても分が悪いのは明らかであった。
「待って!」
真一の背後で愛が叫んでいた。
愛は慌てて二人の元へ駆け寄ると、警察官との間に割って入る。
次の瞬間――警察官と向き合った愛は驚愕の表情を浮かべていた。
「おまわりさん!」
「あなたは……」
ほぼ同時に二人は声を上げた。
目の前に立っているのは、力を合わせて車を押してくれた親切な警察官、月岡だった。
愛との再会に月岡の表情が一瞬綻びかける。
が、すぐに緊張に強張った表情に戻すと、説明を始めた。
「先ほど、この麦畑で大人数の人が何かをしている、との通報がありまして、本官が来た次第ですが……」
月岡は集まってきた一同の面々をけげんに見渡した後、その中心人物の愛に再び質問を投げかけた。
「これは一体……?」
「見てのとおりよ。今、わたしたちはミステリーサークルを作ってるの」
その説明が不十分で要領を得ないことはわかっていた。が、そう正直に説明するしかなかった。
「ですが……ここは他の人の土地です。そのための許可は取りましたか?」
「そんなことをしている時間は無いわ! 一刻を争うのよ」
突きつけられた正論に『百も承知よ』というように声を荒げると、愛は月岡に詰め寄る。
「…………」
愛の真剣な眼差しに月岡は圧倒される。
「お願い! これが終わったら警察でも何でも行くから、最後までやらせて!」
「ですが……」
「今夜中にサークルを完成させなければ、あの人の希望が無くなってしまうの! だから……」
これ以上に無いくらい真剣で切迫した眼差しに、月岡は何も言葉にすることができなくなる。
切実に訴えかける彼女の瞳には、何一つ偽りが無く澄み切っていた。
彼女の言う『あの人』というのは、おそらく主人と名乗っていた老人のことであろう。
この場に彼の姿が無いのは、何か深い事情があるのだろうか?
それがどんな事情であるのかは想像もつかなかったが、できることならその瞳を信じて彼女の――あるいは老人の希望をかなえてやりたかった。
――でも……
その行為を許してしまえば、自分が誇りを持っている警察官という職業と信念に、背中を向けることになってしまう。
――どうすれば……
そんな板挟みに動けなくなってしまっている月岡の前に真一が出てくる。
「もし見逃してくれるのなら、あとで相応の謝礼を払うつもり……」
「ダメーッ!! 絶対にダメよ!」
愛は慌てて真一の言葉を掻き消すと、強引に一同の中に押し戻した。
お金で人の心を動かそうとする彼なりの解決策は、時と場所によっては有効なのかもしれない。
だが、それを認めてしまうことは、時守の大切な心を踏みにじってしまうような気がしたのだ。
鋭く真一をにらみつけ、それ以上の反論に釘を刺すと、愛は再び月岡と向き合う。
「お願い、お巡りさん。全てが終わったら不法侵入でも器物破損でも、罪は必ず償うから……」
「ほ、本官は警察官として……」
「お願い……」
瞳を潤ませ必死に懇願を続ける愛の姿に、月岡の心が揺らぎ始める。
信念を貫き通し彼女の願いを拒むのが、本当に正しいことなのだろうか……
月岡は逃れるように愛から視線を外すと、周りにいる一同に目を向けた。
一同は皆、祈るような目で月岡を見ていた。彼を除いた全員が心を一つにして、決断を迫っているようであった。
「警察官として……」
小さくそう繰り返すと月岡は大きく深呼吸をする。
全ての迷いと共に深く息を吐き出すと、太陽のような笑顔で敬礼のポーズを取った。
「本官にも手伝わせてくれますか?」
その宣言に、一同から一斉に歓喜の声が上がる。
肩を叩き合い心から喜び合うと、新たなる仲間となった月岡に感謝の言葉を浴びせかける。
愛は嬉しさのあまり両手を上げると、真一に勢いよく抱きついていた。
「お、おい……」
「ありがとう。やり方は好きじゃないけど、あなたの気持ち、最高に嬉しかった!」
その抱擁は、愛が真一を仲間として受け入れた証であった。
愛にとっては自然な行為であったが、若い女性にあまり免疫が無い真一にとっては刺激が強すぎた。
「あ、ああ……」
顔を真っ赤にすると、しどろもどろになる。
そんな動揺など全く気づかないままに真一から離れると、愛は他のメンバーに向かって呼びかけた。
「さあみんな、作業を再開するわよ!」
それに応えるように皆が威勢のいい声を上げると、それぞれの道具を頭上に掲げる。
愛がその結束に満足そうにうなずくと、それぞれが各自のエリアに戻って行った。
「お巡りさんは向こうの班を手伝って」
「了解です!」
月岡は彼のトレードマークとなった敬礼を決めると、愛の後に続いていった。
「本官のことなら、月岡と呼んでください……」
「了解!」
月岡の真似をして思わず敬礼をしている自分に気が付くと、愛は思わず吹き出していた。
その後ろ姿を見送りながら立ち尽くす真一に、早川がそっと近づき声をかけた。
「心を奪われましたか?」
「ああ、完全にやられた。年甲斐も無くな……」
否定する事無く素直に認めると、二人は小さく笑い合う。
「あのまま飛行機に乗っていたら、大切なものを見失っていたのかもしれんな……」
感傷めいたように言葉にする真一に、早川が小さく笑みを浮かべ聞いた。
「二千万ドルの価値はありましたか?」
「まだ仕事は終わっておらん。やるぞ」
少し恥ずかしくなったのか、それとも早川の思惑に乗っかるのが癪だったのか――真一は思い出したように表情を引き締めると、麦との対話を再開させた。
早川とペアを組む真一は、知らぬ間に築かれたあうんの呼吸で、愛の言う『幾何学模様』を的確に畑に刻んでいった。
新しい相棒を得た水島は、それまでの遠慮を解放させたように月岡と意気投合すると、二人で作業を進める。
慣れない作業のせいか、メジャーを引きながら転ぶ月岡に水島が手を差し伸べると、月岡は恥ずかしそうに頭をかいた。
真一の部下たちも、それぞれの役割を確実にこなし続ける。
月岡の班を手伝っていた愛は、メジャーを片手に腕時計を見る。
時計の針は十一時を大きく回っていた。
愛は焦る気持ちを抑えるように唇を噛むと、自分に言い聞かせた。
「あと少し……」