第四章 SCENE3
キャンプ場から数キロの場所にある緊急病院に、愛たちを乗せたヘリコプターは到着した。
着陸と同時にストレッチャーに乗せられた時守は、出迎えた看護師たちを従えて、すぐに緊急治療室に運び込まれる。
愛はストレッチャーで運ばれる時守の傍で、ずっと励ましの言葉をかけ続けていたが、彼が治療室に入った途端にドアは閉ざされてしまったので、何もできないもどかしさにドアの前を右往左往していた。
不安と苛立ちを募らせる愛の前に、自分たちをこの病院まで連れてきた二人の男がやってきた。
一人はスーツ姿で重苦しそうな表情――どことなく権威というか、威圧を感じるオーラを醸し出していて、もう一人は白衣を着た医師であった。
時守のことで頭がいっぱいの愛は、現れたスーツ姿の男に、祈るような眼差しで問い詰めていた。
「聖二さん、大丈夫なの?」
その質問の答える代わりに、白衣の男が優しげに愛に答えていた。
「今のところ状態は安定しています。もうすぐ意識も戻るはずです」
「そ、そう」
愛は案度に息を吐き出す。
「ありがとう。あなたの適切な処置のお陰です」
「い、いえ……」
白衣の男――早川が穏やかな口調で感謝の言葉を口にする。
処置と言われても薬を飲ませただけであったが、改めて礼を言われると、少し照れくさくなってしまい、愛は居心地が悪そうに笑みを返す。
その和やかな空気に、気まずそうにひとつ咳払いをすると、スーツの男が愛にたずねる。
「深沢さん……でしたね?」
男は、愛の返事を待つこと無くポケットの中から名刺を取り出すと、彼女に差し出した。
白衣の男とは対照的な高圧的な態度に少し不満を感じながらも、愛はその名刺を手に取ると、そこの書かれている男の素性を確認した。
『時守グループ代表取締役 時守真一』
驚いたように小さく息を飲む。
目の前の男が、時守の息子に当たる人物であろうということは、それとなく察しがついた。眼鏡を外した時の顔を想像すると、目鼻立ちが似ているような気がしたし、声の張りの中にもそれを思わせるような響きがあった。
愛が目を釘づけにしていたのは、名刺にある真一の肩書であった。
「ホントだったんだ……」
時守がカフェで話した、世界を又にかけた壮大なサクセスストーリー――に半信半疑の愛であったが、名刺にしっかりと明記されているグループ、代表取締役という響きに、改めて事実であったのだと再確認する。
――自家用ヘリまで飛ばしてくるなんて、どれ程の規模なの……
呆然としている愛に見切りをつけたのか、真一は感情の無い事務的な口調で要件を切り出した。
「この度は、父が大変ご迷惑をおかけしたようで。それについてはできる限りの誠意でお応えしますので、今日のところは……」
耳に届いた言葉の意味を理解すると、愛はわれに返ったように真一を見る。
「誠意って何よ……わたしに帰れっていうの?」
「表に車を用意しています。ちゃんと部下には言っておりますので……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
愛は慌てて真一の言葉を遮ると、激しく首を振った。
「ふざけないでよッ! このまま帰れるわけないじゃない! 健太郎君はどうなるのよ?」
愛は気色ばむと、冷酷な父親に詰め寄った。
が、真一は落ち着き払ったように愛を制すると、強い口調で言った。
「健太郎は、既に他界しています……」
「え……?」
「十年前の六月七日。つまり今日が息子の命日に当たります」
文字通り動きを止めてしまった愛に、真一は教科書の年表を読み上げるように淡々と事実を語った。
「それって、どういうことよ……」
その言葉の意味が理解できず、愛はただぼんやりとした視線を真一に向ける。
愛の心に走った衝撃を理解したのか、真一はそれ以上彼女を刺激しないように言葉を選びながら、ゆっくりと説明を始めた。
「あの日、確かに父と健太郎は、あのキャンプ場にいました。それは間違いではありません。ただ、父が言っているような事実は一切無く……健太郎は湖に落ちて、その命を落としたのです……」
信じられぬといいたげに小さく口を開けたままの愛に、真一が続ける。
「目撃者の話によると、まず健太郎が足を滑らせて湖に落ち、それを助けようと父も続いて湖に……」
淡々と語り続ける真一の声が、とても遠いものに聞こえた。
愛の中に抱いていた時守と健太郎の大切な思い出が、真一言葉によって容赦なく掻き消されていく。
淡い光を見上げ笑みを零す健太郎が、押し寄せてきた大量の湖水に飲み込まれると苦しげにもがき、悲痛な声を上げていた。
「父は健太郎を助けようと、必死に泳ぎました……」
躊躇うこと無く湖に飛び込み、健太郎を助けようと必死に泳ぎ続ける時守。
水を飲み激しくむせるが、それでも諦めずに必死に健太郎の名前を呼び続ける。
愛は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
でも、そうやって現実を閉ざす行為が、時守や健太郎の大切な思いをも遮断し、汚してしまうような気がしてできなかった。
「だが、父も同じ様に溺れ……父は何とか一命を取り留めましたが、健太郎は翌朝遺体で……」
助けを求め伸ばした健太郎の小さな手が、ゆっくりと湖面から沈んで見えなくなる……
愛はそれ以上、心の中にその光景を描くことができなくなってしまう。
「これが、あのキャンプ場で起こったことの全てです……」
真一が重々しい口調で、十年前の悲劇に終止符を打った。
「そんな……だって、聖二さんは」
愛は焦点の定まらない視線を彷徨わせると、僅かな光を求めるように、弱々しくつぶやいた。
「父がどうして、そのような妄想を抱いたのかはわかりません。健太郎を助けられなかった自責の念か、息子の死を受け入れたくない気持ち。あるいは……」
真一は愛から視線を逸らすと、目線を落としたまま重い口調で言った。
「父の体を蝕んでいる病が、そういう幻想を作り上げたのかも……」
「や、病って、何よ?」
真一の口から飛び出した不穏な言葉に、不安を隠しきれずに問い詰める。
みぞおちに感じる予感が杞憂に終わることを願うが、真一の次の言葉によって無情にもその願いは打ち砕かれてしまう。
「父に残された命は、あと僅かです」
「僅かって……」
真一に代って、早川が愛の質問に答えていた。
これ以上、真一の口から語らせるのが酷であると判断したのと、医者しての責務の念が自然とそうさせていたのだ。
「脳幹部に悪性の腫瘍が……もう手の施しようが無く、できることと言えば、痛みを和らげること位しかありません……」
「そんな……」
「時守さんが飲んでいたのは、強力な鎮痛剤です。それももう殆ど効き目が……」
愕然と崩れ落ちる愛に、早川はなるべく感情を入れないように、時守の容体を説明した。
医者として、事実を伝えなければならない試練を何度となく乗り越えてきた早川であったが、これ程までに辛いと感じたのは初めてであった。
全ての光と音が瞬時に消え去り、目の前には絶望しか存在しなかった……
そんな愛の意識の中に、木霊のように時守の声が蘇る。
『私は未来の無い人間だ……』
抱き締められた腕の中で聞こえた、寂しげなその言葉の真意を理解すると、とめどとなく涙が溢れてきた。
自分だけが『不幸のどん底にいる』などと考えていたことが、どうしようもなく情けなかった。
そして、自分が時守に対して何も力になれないという、付きつけられた事実に対しても……
瞳を落としたままの愛の心情を気遣いながらも、真一はいち早い事態の収拾を図ろうと幕を下ろしにかかる。
「父にあるのは穏やかな死だけです。わかったら速やかにお引き取りを……」
「ひどい……」
真一の言葉を遮るように愛は声を絞り出す。
「ひどい?」
それが誰に向かって発した言葉なのかがわからずに、真一はその言葉を反芻した。
「どうすることもできないって、そうやって諦めるの?」
「諦めるも何も……」
今さら何ができるというのか?
困惑の表情を浮かべる真一を否定するように、愛は何度も何度も首を振った。
「どうして聖二さんを信じてあげないの? このままじゃ何の希望もないじゃない?」
「何を……?」
「事実がどうであれ、聖二さんは信じてるの、健太郎君に必ず会えるって。それが希望なの! 希望があるから聖二さんは必死に生きてるの。それを息子であるあなたが信じてあげないなんて……」
悔しげに唇を噛みしめたまま、固く握った拳を震わせていた愛が、大きな決意と共に顔を上げた。
「わたし、やめない。絶対にサークルを完成させる!」
頬を伝う涙を振り払うように真一を見ると、愛は毅然と言い放った。
「バカな!」
真一は唖然と声を上げる。
「今から麦畑に戻ります。たとえ一人だって、わたしは最後まで諦めない」
「…………」
迷いの欠片もない強い意志に満ちた瞳に圧倒され、真一は何も言えなくなる。
やるべきことが決まり、用が済んだとばかりに真一の前から去ろうとする愛の前に、早川が立ちはだかる。
「な、何よ?」
邪魔されると思った愛が、敵意を隠すことなく早川を睨みつける。
その視線から逃げることなく愛を真っすぐに見つめると、早川は明確なる自らの意思を口にした。
「私にも手伝わせてもらえますか?」
「へ?」
予想外の申し出に、愛は肩透かしを食らったように間の抜けた声を上げる。
それは真一も同じだったようで、呆気にとられたように早川に目をやった。
「何を言ってるんだ?」
それぞれの驚きに答えるように、早川は穏やかに口を開く。
「患者の死を遠ざけるのが、我々の使命です。でも、患者に意味のある生を与えるのもまた、医者の使命です……」
医者として何もできない現実に、いいようのない苛立ち、無力さを痛感していた……
――でも……
目の前の女性は、諦めるどころか本気で運命を変えようとしている。
自分自身が悩み葛藤していたことの答えを、いとも簡単に出してしまった。
なら、その導きを信じて従ってみよう。
彼女が運命にどう向き合い、答えを出すのか……見てみたくなったのだ。
「先生……」
「私は信じますよ。希望を」
――何故?
そう問いかけるような愛の瞳に、早川は力強くうなずいてみせた。
「ありがとう……」
愛は瞳を潤ませると感謝の心を言葉にした。
それに照れ臭くなったのか、早川は意図的に表情を引き締めると愛を現実に引き戻した。
「サークルを作るのに必要なものを言ってください。私が揃えますので」
「そ、そうね……」
早川の思惑通り現実に戻ると、愛は思い出した順番から、片っ端に必要と思われるアイテムを口に出していった。
「えっと、まず投光機。できるだけ大きいのと……メジャー、ロープ、あとは……」
「人手もいるだろう? 私の部下を何人か畑に向かわせる」
真一が半ば強引に、愛の言葉を遮っていた。
「真一さん!」
耳を疑うようなその言葉に、愛は驚きを隠すことなく真一を見つめていた。
――聞き間違い、じゃないよね?
半信半疑の視線を向ける愛に、満面に渋い表情を浮かべながら真一は答えた。
「この状況で、実の息子が何もしないわけにはいかないだろう? 必要なものはすぐに揃えさせる。それでいいな?」
そうでも言わなければ事態の収拾がつかない――
決して情に押し流されているわけでなく、冷静な判断の上での妥協である。
そう自分に言い聞かすと、嬉しげ瞳を輝かす愛から視線をそらし、やれれやれ……と呆れたようにためいきをつく。
これ以上彼女のペースに巻き込まれないようにと、真一は足早に部下の手配に向かおうとした。
その後ろ姿を見送っていた愛が、思い出したようにその背中に声をかけた。
「あの、それと……」
「まだ何か?」
振り向いた真一に躊躇しながらも、せっかくの好意に最大限に甘えるべく、愛は両手を合わせて言った。
「携帯、貸していただけます?」