第四章 SCENE2
見渡す限りの麦畑が二人の前に広がっていた。
腰までの高さの穂が収穫を待ちわびるように続き――その向こうに、手を伸ばせば届きそうなくらいの近さで、星たちが瞬き合っていた。
「さすがにあれだけの距離を歩くと、体に堪えるわい……」
緩やかとは言え、坂道を一キロ以上も歩き続けてきたせいか、時守の表情には疲労の色がうかがえた。
「大丈夫?」
手にした懐中電灯で時守の顔を照らすと、愛は心配そうに老人の顔をのぞき込む。
「何とか……」
時守は苦しげに呼吸を整えると愛に小さくうなずいてみせる。
「でも……」
「さあ、始めるぞ。リミットは今夜十二時……今日という日付が変わるまでだ。それを超えるとサークルは何の意味も持たなくなる」
言葉を続けようとする愛に有無を言わさぬように一気に話すと、時守は担いでいる荷物を下ろし用意を始めた。
何かを隠しているような時守の行動に疑問を感じたが……それが間もなく起こるであろう奇跡に胸が高鳴っているのだと結論付けると、それ以上の詮索をしなかった。
時守はリュックから古びた手帳を取り出すと、その表紙を愛に見せる。
「全ての作業工程がここに書いてある。私の指示に従って作業すれば、必ず時間内にサークルは完成する」
「一体、どんなサークルができるの?」
好奇心に瞳を輝かす愛に、お預けとばかりに時守が素早く手帳を引っ込める。
「それは秘密だ」
「あー! ずるーい」
悪戯っぽく片目をつむる老人に、愛は目いっぱいの不服を申し立てる。
時守は大きな板にロープを結びつけると、口を尖らせている愛に説明し始めた。
「幾何学模様、古代文字――それらをコンピュータにかけて導き出した図形だ。お前さんが見ても、とうてい理解できるものではない。どうしても見たければ、明日のニュースで見るがいい」
「何よー……」
難易度の高そうなキーワードを並べられ、それ以上ついていけなくなった愛が、拗ねたように白旗を上げた。
「さ、そのロープを持って向こうに歩いてくれんか」
時守が差し出したロープを手に取ると、愛は仕事が始まったとばかりに表情を引き締める。
「了解! ボス」
さっそうと踵を返すと、板とロープを持って歩き出す。
「こんなものでいい?」
軽やかに地面を踏みしめ数歩歩いたところで振り返ると、サークル制作の総指揮者に向かって楽しげに問いかけた。
が、時守はそれに答えることができなかった。
不意に顔を歪めたかと思うと両手で頭を抱え込み、その場に倒れてしまったのだ。
「せ、聖二さん!」
愛は手にした板を投げ出すと、慌てて時守の元へ駆け寄る。
「どうしたの!? 大丈夫?」
地面に倒れたままの老人の体を抱き起こし、必死に呼びかける。
愛の腕の中で苦しげにうめく時守。顔面は星明かりでもわかるほど蒼白で、額はびっしょりと汗で濡れていた。
「聖二さん!」
変わり果てた老人の姿に思わず声を上げるが、それを制するように時守が力無く手を伸ばすと、自らの胸のあたりを指さした。
「胸ポケットから、薬を……」
時守は震える声で何とかそれだけを言葉にすると、微かに開いている目で愛に懇願した。
「胸ポケットね、待ってて!」
愛はその要求どおりに老人の胸ポケットに手を入れると、錠剤が入った瓶を取りだした。
「これでいいの?」
目の前に差し出された瓶をうっすらとした目で確認すると、時守は『それでいい』と言うように、まぶたでうなずいてみせる。
愛は急いで瓶の蓋を開ける。慌てる手で何度も錠剤を落としそうになりながらも、何とか時守に飲ませることに成功すると、祈るような視線で見守った。
その時――
不意に空一面が明るくなったかと思うと、時守の頬が青白い光に染まった。
「な、何ッ?」
咄嗟に上空を見上げた愛が、信じられないというように息を飲む。
麦畑の数十メートル上空に青白い光の球体が浮かんでいて、それがゆっくりと自分たちに向かって近づいてきていたのだ。
「嘘……ホントに来たの?」
唖然と声を絞り出し、大きく見開いた目で球体を眺めていた愛であったが、ふと大切なことを思いだすと、慌ててかぶりを振った。
「ま、まだ早いよ……」
今、宇宙船が来たところで、彼らに伝えるメッセージは何一つ畑に刻まれていない。
それどころか、彼らの到来を待ちわびていた時守は、腕の中で意識を朦朧とさせたままで、サークルを作ることなど到底できそうにない。
「ちょ、ちょっと待って」
そんな願いなど聞こえないというように、球体はどんどんと高度を下げると、確実な意思を持って愛と時守の頭上にやってきた。
次の瞬間――
愛の耳に聞き慣れた音が飛び込んできた。
「これは……」
ガスタービンエンジンによって駆動するメインローターが高速で空気を切り裂く音――それは日常の生活の中でも良く耳にする飛行音であった。
回転翼が巻き上げる強風が麦の稲穂を、愛の髪を激しくなびかせると、自らが宇宙船だと認識していた飛行体の正体をはっきりと確信することができた。