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第四章 SCENE1

 黄昏の優しい陽光が、キャンプ場の湖を黄金色に染めていた。

 キラキラと波打つ湖面がとても美しく、それまでの心身の疲労を忘れさせてくれる。

 心地良く染みわたる水の音色に目を細めると、愛は時守の隣に立ち、光に満ちた湖面を見下ろした。

 最愛の孫である健太郎と過ごした夜を思い出しているのか……時守は何も言わずに、ただじっと湖面の先を眺めていた。

 「あの時と同じだ。何一つ変わっておらん……」

 胸に手を当て、噛み締めるようにつぶやく時守。深い悲しみを湛えたその瞳が、うっすらと涙に滲んでいるようにみえた。

 「…………」

 何も言葉をかけられなくなった愛は、ただ黙ってその横顔を見つめていた。

 不意に――

 時守が苦しげに顔を歪めると、胸にあてた手で呼吸を整え始める。

 「だ、大丈夫? とっても苦しそうだけど……」

 「とても強く感じる。健太郎の存在を……胸が苦しくなるくらいにな」

 慌ててたずねる愛に『大丈夫』というように手で合図をすると、自らの胸の高鳴りを抑えるように冷静に答えた。

「戻ってくるのね? 健太郎君が……」

 その言葉を額面通りにとらえた愛が瞳を輝かせると、老人は力強くうなずいてみせる。

 「ここから一キロほど離れた所に麦畑がある。そこに健太郎を乗せた宇宙船がやってくるはずだ。だが、今はまだ早い。日が落ちて畑に人がいなくなるまで、ここで待機する」

 「待機って……?」

 「今からここで夕食を取り、その後に贅沢なコーヒーを飲む」

 肩透かしを食らったように見上げる愛に、それまでの真剣な口調を解いて説明すると、少年のように笑ってみせた。

 「贅沢な……コーヒー?」

 「そう、この世で一番贅沢なコーヒーだ」

 時守は、その意味がわからずけげんな表情を浮かべる愛に、『お楽しみは後で……』と言わんばかりに悪戯っぽく片目をつむってみせた。


 ランタンの炎が、うっすらと二人の顔を浮かび上がらせていた。

 アウトドア用の折りたたみテーブルの上には空っぽになった皿が並んでおり、フォークを手にする愛が、最後の一口に舌鼓を打っていた。

 「お世辞じゃないけど、シェフ顔負けね。こんなに美味しい料理、お店でも最近食べたことないわ」

 「お褒めにいただき光栄だが、そのぶんしっかりと働いてもらう、後でな……」

 「タダより怖いものは無いってわけね」

 「良質な牛肉は貴重なたんぱく質に、パスタは炭水化物としてエネルギーに……すべてはお前さんを効率よく働かせるためのものだ」

 テーブルの皿を手際良く片づけながらそう言うと、うっすらと湯気を立てるポットに手をかける。

 空腹が満たされたおかげで眠くなったのか、小さく欠伸をする愛の目の前に、スチール製のマグカップが差し出された。

 「さ、贅沢なコーヒーだ」

 愛はほんのりと甘い香りのするコーヒーをのぞき込む。

 「これが……?」

 確かに美味しそうなコーヒーではあるが、何かが特別に変わっているとは思えなかった愛は、その答えを求めるように時守の顔を見上げた。

 そんな愛の眼差しを予測していたのか、時守は得意げに笑みを浮かべると、少し芝居がかった声で言った。

 「そう……さあ、ショータイムだ」

 時守が手にしたランタンの炎を消す。

その瞬間に辺り一面が漆黒に覆われると共に、魔法にかかったような奇跡が始まりを告げた。

 「嘘……」

 愛は思わず声をあげると、木々の向こうに浮かび上がった星の世界に息を飲む。

 夜空をぎっしりと埋め尽くす満天の星たちは、気を抜けば押しつぶされそうなくらいの重たさで愛を包み込んでいた。

 どこまでも美しく懐かしい星たちの瞬きに、愛は言葉を失ったように感嘆の吐息を漏らした。

 「この地球上で星に一番近い場所だ。ここから宇宙の全てが見える」

 「凄い……初めてよ。こんなに星がいっぱい……」

 淡い光を放つ天の川を見上げたまま、子供のように瞳を輝かせる。

 「贅沢なコーヒーだろ?」

 「確かに……」

 カップを手に片目をつむってみせる時守にうなずくと、愛は再び夜空を見上げる。

 「ねえ?」

 「ん?」

 「星の話、何でもいいからしてくれない? 今とても星の話が聞きたい気分なの……」

 恋人に向けられる甘い言葉――というよりは、幼い子供が父親にねだるような甘えた声に、時守は小さく笑みを浮かべる。

 「その言葉を待っていた。宇宙誕生百五十億年の歴史からギリシア神話まで、時間が許す限り、星の話を聞かせるとしよう」

 時守は星座のひとつを指さすと、愛を星の世界へと招待した。


 ジョバンニとカムパネルラの『銀河鉄道の夜』から始まった物語は、尽きること無く続いた。

 プラネタリウムの番組さながらの穏やかな語りは、まるで子守唄のように心地良く鼓膜を刺激すると、愛を現実とも幻想ともかない星の世界に誘う。

 真っ赤な命の炎を燃やすさそり座――アンタレスの説明が終わると、遠い昔のギリシア神話へと舞台は変わった。

 うっとりと聞いている愛が時折、生徒が手をあげるように質問すると、時守は時間の許す限り、ゼウスやポセイドンの身勝手な悪行を丁寧に説明した。

 「勇者ペルセウスの話は?」

 星座の中でひときわ大きなくじら座を指でなぞると、たった一人の生徒に問いかける。

 「うん、知ってる。小さい頃にお父さんが絵本を読んでくれたの。アンドロメダ姫を助けるためにティアマトっていう、くじらのお化けと闘うお話でしょ?」

 「大体において、正解だな」

 『お化け』という表現に多少の引っかかりはあったが、その回答に合格を出すと時守は続ける。

 「でも、くじら座にまつわる話は、それだけじゃないんだ」

 「それだけじゃないって?」

 「神話にも出てこない、くじら座の物語があってな」

 「それって、どんな物語?」

 「世界を救った小さな海賊たちの物語……」

 時守はそう言うと、神妙に眉をひそめる愛に説明を続けた。

 「健太郎が寝る間も惜しんで夢中になっていたゲームの話だ。くじら座を見上げては何度も同じ話を聞かされてな。飽きるほどに……」

 そのお陰で、自らもくじら座を見る度に、本家のペルセウスを押しのけて、そのゲームのキャラクターを思い浮かべるようになったのだが。

 「聞かせてもらってもいい?」

 好奇心に瞳を輝かす愛に了解とばかりにうなずくと、さんざん健太郎から聞かされた、勇気ある海賊たちの活躍を語り始めた。


 「それで、その海賊たちはどうなったの?」

 「今も、この星の海のどこかを冒険してる……」

 満天の星空の下、時守は健太郎が心ときめかせた物語に幕を下ろす。

 「夢の中にいるみたい……」

 一通りの語りを聞き終えた愛が、うっとりとした瞳で星空を見上げながらつぶやく。

 「あの夜も、こんなふうに健太郎と星の話をしていた。あの時はホットミルクだったが……」

 カップに残るコーヒーを一口すすると、時守は再び遠い視線を夜空に向ける。

 「時間の経つのも忘れて、ずっと夜空を見上げていた。二人だけのために、星はいつまでも瞬き続けていた」

 健太郎と過ごしていた夢のような時間が記憶に蘇ったのか、時守は口元を綻ばすと先を続けた。

 「そのうち、健太郎が眠たげに目をこすり、あくびをしだすと、私は胸の高鳴りを隠すのに必死なった」

 「どうして?」

 「誕生日のプレゼントをこっそりと枕元に置いて……あの子がそれを見つけて驚くのを楽しみにしていたから」

 時守は優しげな笑みを浮かべると愛に答えた。

 それは愛がはじめて見る種類の笑顔で、おそらく健太郎にしか見せなかったであろう、深い愛情に満ちたものであった。

 「……プレゼントって?」

 「テディ・ベアのぬいぐるみ」

 時守が肩をすくめるように答えると、愛は小さく笑っていた。

 「随分と可愛らしいのね」

 「男の子だというのに何故かテディ・ベアが好きでな。ドイツのシュタイフ社から特注でわざわざ取り寄せたが……」

 時守は勤めて冷静に語ろうとしたが、込み上げる感情に声を詰まらせた。

 「テディ・ベアは今だに渡せていない……」

 「…………」

 深い悲しみを湛えた老人の目に、愛は何も言葉にすることができなかった。

 二人の間に重たい沈黙が訪れる――

 が、不意に時守が膝を叩くと、重い空気を打ち破るように声をあげた。

 「さあ、そろそろいい時間だ。麦畑に向かうとするか」

 「時間……」

 つぶやくようにそのフレーズを口にした愛は、重大なことを思い出し、瞬時に表情を凍らせた。

 大きく目を見開き、腕時計をのぞき込む。

 時計の針は無情にも、愛の命の期限である八時を大きく超えていた。

 「あーーーッ!!」

 心臓が飛び出る程大きく開いた口をパクパクさせながら、愛は機械仕掛けのようなギクシャクした動きで時守に目をやった。

 コーヒーの片づけをしている時守は愛に背中を向けたまま、落ち着きはらった声で答えた。

 「ナイアシン、ビタミンB群、ビタミンE……それがあの薬の正体だ」

 「へッ?」

 素っ頓狂な声を上げる愛を置き去りにしながら、老人は先を続ける。

 「ナイアシンは美しい髪を作り、ビタミンBは瑞々しい肌を……ビタミンEは老化を防いでくれる。どれもお嬢さんの健康と美容にいいものばかりだ」

 「な、何……それって?」

 「世間では総合ビタミン剤とも言う」

 振り向いた時守がニヤリと笑みを零すと、食い入るように見ている愛に言った。

 張りつめていた緊張から解放されると同時に、一瞬にして体中の力が抜ける。

 「な、何よそれ! 騙したのね!」

 「心には劇薬だったみたいだな」

 「当り前よ! あなた、お腹の中に毒薬がある人間の気持ち、理解できる?」

 湧き上がった感情をぶつけるにように抗議の視線を向ける愛。

 が、ひとまずは自身が生きていることに安堵をすると、ふと思いだしたように眉をひそめた。

 「あれ? でも、じゃあ……あの解毒剤は?」

 「ああ、あれは持病の薬だ。この年になると身体のあちこちにガタが来るのでな」

 全ての種が明かされると、愛はためいきと共に肩を落とす。

 「なんか……バカみたい」

 愛は首を振ると小さく笑ってみせた。

 正直にいうと毒のことなどすっかり忘れていた。

 今日一日で様々な出来事が起き過ぎて、自分が何故時守と行動を共にしているのかさえも失念していたのだ。

 「さ。お前さんは晴れて自由の身だ……どうする?」

 力無く座り込む愛を見おろすと『好きに選べばいい』と言うように意思を確認する。

 そんな時守をまっすぐに見つめると、愛は強い意志に満ちた瞳を輝かせて答えていた。

 「最後まで一緒って言ったでしょ」

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