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第三章 SCENE4

 穏やかな午後の陽ざしの中、真一は手にした携帯を神妙な顔つきで眺めていた。

 「女がいて、叫びながら……それが悲鳴に変わって、携帯が切れた」

 たった今、受話器の向こうで起こった一連のスペクタクルの事情など知る由もなく、けげんにのぞき込む早川に、できるだけ正確に耳に残っている音の説明をする。

 「女……? 協力者ですかね」

 「さあ……」

 問いかける早川に、訳がわからないというように首を傾げてみせる。

 電話の向こうから一気にまくしたてた女性の声は、真一自身初めて聞くものであったし、父親に若い女性の協力者、もしくは愛人がいるなどということは考えにくかった。

 「誰なんだ、いったい……」

 掛け算のように飛び込んでくる目まぐるしい事態に、どう動けばいいのかわからないというように、ゆっくりと首を振る。

 「どうします? 一般人まで巻き込んでいるとなると、大事になるかもしれませんね。それでも警察に連絡しますか?」

 混乱に追い打ちをかけるように、早川が真一に決断を迫っていた。

 「…………」

 早川の言葉の真意は別のところにあるのだろうが、まっとうで適切な意見であった。

 真一は返すことができずに忌々しげに歯噛みした。


 額から流れる汗を構うこと無く、時守は必死に真っ赤なボディを押していた。

 運転席では愛が険しさを表情に滲ませながら、アクセルを目いっぱいに踏み続けている。

 が、所詮老人一人の力ではどうすることもできず、脱輪したタイヤが虚しく空回りするだけであった。

 運命の神様のご加護のお陰で、大木との激突という最悪な事態は何とか回避できた。

 だが、本来の道を大きく外れた車は、そのまま道脇の茂みにボディを擦りつけると、不快な音を奏でたまま道下の勾配にタイヤを落とし、テーマパークのアトラクションのようにガクンと前のめりに振動した後、ようやく止まった。

 訪れた静寂の中、お互いの無事を確認しあって胸を撫で下ろすも、すぐに自分たちが楽観できない状態だと、身をもって痛感した。

 「ダメ……動きそうないわ」

 どうアクセルを踏んでも、それを嘲笑うかのようにタイヤは空転を続ける。

 愛は諦めたように首を振ると、イグニッションをオフにした。このままでは確実にラジエターがオーバーヒートを起こすに違いない。

 「私たちだけじゃ無理みたい。このままじゃ、歩いて行くことになるわね」

 「あの荷物を担いでいくのは大変だぞ……」

 言う通りであった。

 愛は現実を認めるように後部座席に目をやると、そこに散乱するあふれんばかりの荷物に天を仰いだ。

 「確かに……」

 大きくためいきをつく二人の背後で、不意に声がした。

 「あの、何かお困りのことでも?」

 時守よりは遙かに若そうで張りのある声に、愛は救世主が現れた如く心の中でガッツポーズをとる。

 「助かった!」

 手を叩き合う勢いで、愛と時守が嬉しげに後ろを振り返る。

 が、振り向いた二人の前に立っていたのは、一番見たくない種類の男であった。

 「何か、お困りのことでも?」

 驚きに息を飲む二人に、男はさも親切そうな笑顔でたずねていた。

 まだ三十そこそこの年齢であろうか――背も高く、体つきもしっかりしたその男は、今の窮地の状況には、まさにぴったりであった。

 彼が警察官の服を着ていなければ……

 「あ、あの……見ての通りです」

 明かに上ずった声でそう答えると、愛は矢継ぎ早に続けようとする。

 少しでも間を開ければ、それをついてあらぬことを質問されそうな気がしたのだ。

 でも、焦る心とは裏腹に何も言葉が出てこず、愛は半ば見切り発車するように、思いつきのままの口を開いた。

 「わ、わたしたち、とても困っています。だから……」

 相手に考える暇を与えないように必死に瞳を潤ませると、清純なヒロインが勇者に救い求めるような眼差しを向ける。

 「は、はあ……」

 警察官――月岡は、愛の渾身の演技に押され気味になる。

 それまでの人生であまり恋愛経験が無く、女性の扱いにも疎かった彼にとって、愛の純粋……正確にはそれを装った瞳は、刺激が強すぎたのだ。

 その瞳に心を奪われたように、月岡の頭と口は麻痺してしまい、上手く回らなくなっていた。

 しかし――

 自分が今から何をすればいいのかは、本能的に理解していた。


 新たな押し手が加わったことで、僅かにではあるがタイヤがグリップを取り戻し、地面に動力を伝え始める。

 「もう少し! 頑張ってね、二人とも」

 運転席でアクセルを踏み込みながら、愛は後ろで汗だくになっている二人を励まし続けた。

 それに応える余裕もなく無く二人は必死の形相で足を踏ん張ると、ひたすら車を道路へと押し上げることだけに意識を集中させる。

 皆の心が一つになったのか、車は確実に前に向かって動き出す。前タイヤが完全に地面に駆動を伝えると、そのまま道路の上に登り切った。

 大きくアクセルを踏みこんでいた車は、グリップを取り戻したせいで急加速を始め、愛を慌てさせる。

 咄嗟にブレーキを踏み込み、暴れ馬を扱うように車の挙動を落ちつかせた。

 「やった!」

 完全に停止した車の中で嬉しげに何度もハンドルを叩くと、愛は道路に上がってきた二人に手を振った。


 「いや、本当に助かった」

 「お巡りさんがいなかったら、今頃どうなっていたか……ありがとう」

 愛と時守の感謝の気持ちを受け止めると、月岡は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 が、すぐに思い出したようにシャキっと表情を引き締めると、二人に向かって勢いよく敬礼してみせる。

 「お役に立てて光栄です!」

 照れを隠すため、というよりは警察官のとして責務を全うしたまで、という気持ちの方が勝ってるに違いない。

 ――今時、こんなに職務に誠実で真面目な人がいるなんて……

 まるで天然記念物でも眺めるような目で月岡を見ると、愛は少し吹き出しそうになる。

 「これで、キャンプ場まで歩かなくて済む」

 時守はそんな愛の仕草を悟られないように一つ咳払いをすると、月岡に手を差し出した。

 「すまんな、相方の運転がどうにも未熟なもので……」

 ボディにくっきりと刻まれた長い傷跡、曲がったバンパーをやれやれ……と言うように眺める。

 「だ、だってわたし、正真正銘のペーパードライバーだし、運転だって好きでやってるんじゃないもん」

 拗ねたように口を尖らすと時守に抗議する。

 「運転技術と脇見運転は関係ないように思えるが……」

 「だって、あれは本当に腹が立って、つい……」

 「まあまあ、とにかく怪我もなく、車も無事に上がったわけですし……」

 見た目には些細な小競り合いであったが、月岡が慌てたように仲裁に入る。

 これ以上放っておくと、殴り合いでも始めると思ったのであろうか。

 どこまでも人の良さそうな月岡の言動に、愛は思わず口元を綻ばせた。

 「そうよね、物事はいい方向に考えなきゃね!」

 ニッコリと笑みを浮かべる愛に釣り込まれるように、月岡も笑顔になった。

 場の空気が和んだことで安堵した月岡が、ふと思い出したように質問を投げかけていた。

 それは、この不思議な二人に初めて会った時から抱いていた疑問であった。

 「えと、あの、お二人はその……」

 「夫婦だ」

 月岡が言い終わらぬうちに時守がきっぱりと断言した。

 親子か、それとも祖父と孫――と、あたりをつけていた予想の範疇を遥かに飛び越えた答えに、月岡は目を丸くすると驚きをあらわにする。

 驚いたのは月岡だけではない。突然の夫婦宣言をされた愛も同じだった。

 ――ど、どういうつもりよ?

 愛が戸惑ったように時守をにらむ。

 「…………」

 悪戯をする少年そのものの横顔に全てを理解すると、強制的にゲームに参加させられたことに心の中で舌打ちしをする。が、愛とて負けてはいない。自称亭主を押しのけるようにして、慌てて自らの潔白の証明を始めた。

 「ざ、財産目当てなんかじゃないわよ! この人これっぽっちもお金無いんだから。生命保険にだってまだ入ってないし……」

 「媚薬を使ったのさ……とても強力な」

 愛の切り返しに時守が得意げに笑ってみせる。

 「とんでもない媚薬よ! 口説き方としては最低でしょ? お巡りさん」

 「はあ……」

 オブラートに包んだリアリティのため、何の話だか全くわからないというように月岡が曖昧な返事を返す。

 「この人のお陰で、わたしの人生設計めちゃくちゃよ! 本当のところを言うと、今だってどうしてこの人と一緒にいるのかわからない。でもね……」

 半ば愚痴のようにそう漏らしていた愛がふと小さく笑うと、ぽつりとつぶやいた。

 「そんな最低な人だけど、この人はわたしの心を解放してくれた……」

 「…………」

 予想外のゲーム終了宣言に、時守はそれ以上の言葉を飲み込む。

 おろおろと二人の成り行きを見ていた月岡も、愛の穏やかな微笑みに魅せられたように言葉を失ってしまう。

 そんな二人の視線など気づかないというように、愛は遠い目をしながら言葉を続けた。

 「きっかけはどうであれ、この人と出会わなかったら、わたしはずっと自分の心に嘘をついたままだった……」

 つい数時間前までの自分を思い出すと、それを恥じるように小さく首を振った。

 「いくらでも未来は変えられたのに、ずっとひとりで怖くて、そんな勇気さえも湧かなかった……」

 愛は悔しさにほぞを噛む。

 が、それを振り払うように瞳をあげると、そんな自分に手を差し伸べてくれた相手に、偽りのない心の声を伝えていた。

 「出会って本当に間もないけど、この人はわたしに大切なことを教えてくれた。自分を強く信じること、希望を捨てずに生きること。人生は何度だってやり直しがきくことを……」

 思うがままを素直に言葉にすると、愛は自分に言い聞かすように、揺るぎのない決意を口にした。

 「だから、最後まで一緒について行くって決めたの」

 「最後までって……?」

 「全てが終わるまでよ」

 自信に満ちた瞳で月岡に答えると、愛は時守に向かって力強くうなずいてみせた。

 迷いの欠片もない澄んだ瞳に何も言えずに、時守はただ黙ってうなずきを返すと彼女の心を受け止めた。

 ――随分と大人になってしまったようだな……

 子供の成長を見るような優しい老人の眼差しにふとわれに返ると、愛は慌てたように時計に目を落し、照れ隠しに素っ頓狂な声をあげた。

 「あ、あら、もうこんな時間! さ、行きましょ、ダーリン」

 「そうだな、ハニー……」

 自称亭主が静かに笑うと、彼女に合わせるように甘い言葉を返す。

 「じゃ、じゃあ、わたしたちは行きますので……」

 これ以上の長居は無用というように、愛が時守の腕を取ると月岡に笑顔で頭を下げた。

 揃って踵を返すと、いそいそと車の方へ向かう。

 腕を組み、体を寄せ合う仲睦まじい二人の後姿を、月岡は羨望の眼差しで見送る。

 それとは裏腹に、二人は声を潜めながら小さな鍔迫り合いに興じていた。

 「大統領顔負けの、見事な演説だったよ」

 「もう、もう少しマシな嘘ついてよね……よりによって夫婦なんて、ありえないわよ」

 「われながら名案だと思ったんだが……」

 「あのお巡りさんだから通じたの!」

 「確かにそれは言えるな。久々に見る気持ちのいい若者ではあったが」

 「わたしたちのこと、知らなかったみたいね」

 「あいつ、まだ警察には通報しておらんのか?」

 「わからないけど、とにかく早く行きましょ。じゃなきゃ……」

 二人はゆっくりと振り返ると、そっと背後の警察官に目をやった。

 律儀にも、ずっと二人の背中を見送っていたのか――ばっちりと目が合ってしまう。

 月岡は一瞬キツネにつままれたような表情を浮かべたが、愛と時守がニッコリと微笑むと、同じように笑顔を浮かべ大きく何度も手を振った。

 「いい人ね」

 「いい人だな……」

 月岡は背筋をびしっと伸ばし敬礼すると、二人が背中を撥ね上げるほどの元気な声で祝福した。

 「お幸せに!」

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