第一章 SCENE1
夏を待ちわびる虫たちの声が、夜の芝生に響いていた。
その音色に混じるように芝生を踏みしめる靴音、荒い息遣いが聞こえる。
消灯時間を過ぎ静まり返った北陽会病院の中庭で、一人の老人が小さな鍬を片手に一息つくと、額に落ちる汗を拭った。
中庭には小さな花壇があり、入院患者や職員がそれぞれの思いで様々な花――向日葵やゼラニウム、果てはトマトまで――が植えられていたが、老人はその植物の手入れをしていたわけではない。
鍬を地面に置き、年老いた体にはかなり過酷であろう作業を終了すると、老人はその成果である作品を満足げに見下ろした。
「まあ、及第点と言ったところか……」
納得したようにうなずくと視線を地面からあげ、病棟の最上階を見上げる。
その視線の先には、自身が数か月の間過ごした病室があった。
病室の窓からこの中庭に咲く鮮やかな花々を見下ろし、季節の移り変わりを眺めていた日々を思い出すと、少し感傷的な気分になる。
――もう二度と戻ることはない……
開け放たれた窓からカーテンが小さくなびくのを確認すると、老人はその場に鍬を残したまま静かに中庭を立ち去った。
病棟と病棟の間にある中庭を抜け、病院の正面玄関までやってきた老人は、胸のポケットから一通の封筒を取りだすと、玄関の近くにある小さなポストに投函した。
この手紙を受け取るであろう人物は、どのような気持ちでこれを読むのだろうか。
脳裏にふとそんな考えがよぎった。
が、もう後へは引き戻せない。
――全ては計画通り……
そう自分に言い聞かせると、ゆっくりとその場を立ち去ろうとした。
その時――
玄関ガラスに張ってある一枚のポスターが目に入った。
どこかの生命保険会社のポスターであろうか――父親とその子供らしき少年が、幸せそうに微笑んでいた。
「…………」
老人は少しの間そのポスターを眺めていたが、すぐに何かを思いついたように勢いよくポスターをウインドウから剥ぎ取ると、それを片手に夜の中に消えていった。
「そういうわけでよろしくね」
「そういうわけでって……ちょっと!」
週明けの朝、賑やかなオフィス街をいつもとは逆の方向に歩くはめになった深沢愛は、その原因となった携帯電話に抗議の声をあげた。
携帯の相手――同僚の森村洋子からのコールがあったのは、愛が勤める『バロン生命』のビルまであと百メートル余りの場所。
大きなドラッグストアの前で電話に出た愛は、葉子から『急な飛び入り』が入ったので、すぐにその対応に向かって欲しい、と言われていたのだ。
「だってこの時間、暇してるのって、あなたしかいないじゃない。違う?」
葉子が突き付けた容赦のない尋問に、渋々ながら事実を認めると深いためいきをつく。 受話器の向こうで勝ち誇ったように笑みを浮かべる彼女の顔が、瞬時に脳裏に浮かんだ。
「そりゃあ、違わないけど……」
「じゃあ、決まり。上手く契約取ってきてね」
反論できない愛に有無を言わさずに結論を出すと、流行りのアニメキャラの声を真似して悪戯っぽく締めくくった。
「じゃなきゃ永久に暇になるわよ」
「それって冗談になってないわよ……」
あっけらかんと言ってのける葉子に、愛は最大限に低いトーンで応戦する。
受話器の向こうで無邪気に笑う葉子の声が聞こえると、愛も釣られるように笑みを浮かべていた。
一見辛辣に思える葉子の言葉であったが、変に気を使わずにあえてストレートのボールを投げてくれる彼女の存在は、愛にとってありがたかった。
ほぼ同時期に入社した愛と葉子――年齢が近いこともあってすぐに意気投合し、プライベートでも付き合う間柄になった。
年齢的には愛より一つ下の葉子であったが、公私においては何故か葉子の方が先輩のような存在で、愛もごく自然にその関係を受け入れていた。
何にでもプラス思考で人当たりの良い葉子には、生命保険のセールスレディという職業は天職のようで、入社して瞬く間に営業成績の歴代記録を塗り替えていった。
それに引き換え愛は、正直過ぎてどことなく頼りなく――それに比例するように成績の方もワースト記録を更新していった。
同期ということで何かと社内で比較される中、葉子はいつも通りに彼女に接してくれた。
時には彼女なりの適切な言葉で励ましてくれたり、時には今のように冗談混じりで本音をぶつけてきたり。
「タイムカードはあたしが押しておいてあげるから、いい仕事してきなさい」
優しく背中を押すような葉子の声に、愛は自然と気分が楽になった。
母親が子供に見せるような優しい笑顔を想像すると、愛はそれに応えるように微笑みを浮かべた。
「わかったわ、頑張る」
「あと、お昼のお弁当はマルつけておくから」
「ありがとう……」
「しっかりと有終の美を飾りなさい、幸せもの!」
――バカ……
最後のフレーズにはあえて何も返さずに通話を切ると、愛は人ごみの流れに逆らって歩き出した。
葉子のいう『飛び入り』の客が指定したのは、イタリア風のオープンカフェ『アナカプリ』であった。
愛の憧れの地――イタリアの『青の洞窟』があるカプリ島の名がつけられたその店の入り口には緑、白、赤のトリコローレが掲げられていて、その下にある黒板には、店長自慢の料理がびっしりとチョークで書き込まれていた。
表には何台かの木製のテーブルが並べられており、数名の客が優雅なモーニングの時間を過ごしていた。
愛は目を凝らし、その中に自分の出勤を阻止した原因であろう人物を特定すると、ゆっくりと観察するように、その人物が座っているテーブルに近づいていく。
「あの……お電話いただいた、時守さんですか?」
テーブルで真っ白なカップを見つめる老人は、愛の声にゆっくりと顔をあげると、ニッコリと笑みを浮かべて頷いた。
年齢は七十歳くらいであろうか――ロマンスグレーという言葉がこれ程までに似合う老人を、今までに見たことが無かった。
少年のような笑顔を浮かべる老人は端正かつ上品な顔立ちで、魅力的であった。
――いい人そうで良かったぁ……
瞬時に老人に好感を抱いた愛は、自らも自然と頬の筋肉を緩ませると、安堵したように口を開いていた。
「わたし、よく間違えるんです……今回も間違っていたらどうしようかな、なんて思って」
「間違える?」
安堵の息をつく愛に聞こえないようにつぶやくと、時守は冷静に店内を見渡した。
他のテーブルに座っているのは若い女性客数名と学生風のひと組のカップルで、名前と年齢をキーワードに消去法で検索いけば、まず間違うはずはないだろう、と思ったが口には出さなかった。
――やれやれ……
唐突な月曜の朝一番の呼び出しに、彼女が選ばれたことに妙な納得をする。
目の前にいる担当者は入社して間もない新人かそれとも……あまり有能では無い部類に入るのだろう。
忙しい時間に手が空いていた――彼女がここへ来た理由を察すると、それが自身の計画にどのような影響を与えるのか思案を巡らせる。
――吉と出るのか、それとも……
「あ、あの、申し遅れました。わたし、深沢と申します。この度はバロン生命をご指名いただき、ありがとうございます」
複雑な表情を浮かべる時守に気づくふうもなく笑顔で名刺を差しだすと、愛は老人の正面に腰をおろした。