第12回ネット小説大賞受賞御礼SS ぱんけぇき記念日
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私の目の前には甘い香りのする何かがある。
よく焼かれたような淡いブラウン色のそれは二枚に重なっているようだ。上にはバターがのっていて溶けかかっている。つまり温かいということだ。
バターをつけるってことはパン? パンかな? もちろん、カビなんてない。あ、焼いてあると分かんないのかな。
傍らには切ったフルーツと、ベリーらしいソースがある。
なにこれ、サンドイッチにするの? いつも見てるサンドイッチと全然違うけど、食べるの難しいんじゃない? しかもナイフとフォークまで置いてある。手で食べるんじゃないの? あ、べたべたするのかな。
「食べたことがないか?」
「ない。これは何?」
「パンケーキ」
「ぱんけぇき」
私は見たこともない甘い香りを放つそれを凝視したままなのだが、グレンは気にせずに話しかけてくる。
今は勉強の合間のおやつの時間だ。
貴族にはおやつの時間というものがあるのである。私は公爵夫人になるために勉強を毎日詰め込まれているが、グレンは家にいる時はこの時間になると必ず顔を出すのだ。
うぬぼれでなければ、私を気にかけてくれているのだろう。
二度目の誘拐の後から、フォルセット公爵家の人々は皆過保護だ。勉強は厳しいのだが、それ以外は過保護である。もしかしたら前から監視と感じていたのは過保護だったのかもしれない。
そしてグレンの親戚であるブレアは、エルンスト侯爵家の醜聞を聞いてすっ飛んできた。そして私がこのままフォルセット公爵邸にいることを知ってずっとニタニタしていた。彼女は私が孤児の3番であることを知らないのに、クモをとってあげたあの日から懐いていてくれるのだ。
「これはチョコレートより美味しい?」
「おばあ様の好物だ。こうやって切り分けて、必要に応じてこのソースやはちみつをつけて食べる」
そこで初めて私はぱんけぇきから視線を外し、グレンを見た。
グレンは両手でナイフとフォークを持つと、ぱんけぇきとやらにナイフを入れる。見た感じとても柔らかそうだ。
「柔らかいの?」
「あぁ」
真剣に眺めていると、側から侍女がナイフとフォークを渡してくれる。彼女は私の背中の傷に真っ先に気付いた人なのだが、今日はやたらとニコニコしているのが印象的だ。
「何かいいことでもあった?」
侍女に聞くと、彼女は少し笑みを隠した。
「お嬢様のパンケーキ記念日に立ち会えて光栄です」
「ぱんけぇき記念日」
よく分からないが、記念日というのは誕生日みたいなものだろうか。私の誕生日、いつかも分からないけど。
グレンの真似をしてぱんけぇきにナイフを入れる。力をいれなくてもすぐに切れた。
え、すごい。これ、フワフワ。
「バターを塗ってもいいし、ベリーのソースをつけてもいいし」
グレンはそう言いながら目の前で食べて見せてくれる。
美しい所作である。多分、途中で何かこぼしても私は綺麗だと思っただろう。
グレンの真似をまたしながらぱんけぇきを口に運んだ。
甘かった。すっごい柔らかいと思っているうちにすぐに口の中から消えてしまった。
今度はソースをつけて食べてみる。ちょっと爽やかになったけどやっぱり柔らかさに感動しているうちになくなった。
「お嬢様、こちらをどうぞ」
「はちみつだ」
侍女が白い小さな壺みたいな食器に入った黄金色の液体を持って来る。
はちみつ。あのハチが作るっていうはちみつ。
「かけましょうか?」
頷くと赤毛の侍女がぱんけぇきの上にはちみつをかけてくれる。
「俺は甘くなりすぎるから要らない」
グレンはそう言っているのが聞こえるが、私はまたぱんけぇきを口に運んだ。
さっきよりもずっと甘い。プリシラはケーキとこのぱんけぇきのどっちの方が好きだろうか。
夢中になって食べていてふとグレンの視線を感じた。
顔を上げると、グレンはなぜか嬉しそうに私を見ている。はちみつが顎にでも伝っているだろうか? そのわりには彼の視線は熱い。
彼の目は冴え冴えとした青だから、いつもはそこまで温かくは見えないのだがなぜだろうか。大切なものを見るような、その視線は。
「え、と……?」
「あぁ、いや。可愛いなと思って」
グレンの言葉に動揺して持っていたフォークを派手に落としてしまった。
最近の教育のおかげもあり、私はフォークを自ら拾おうとせずに侍女に任せた。すぐに新しいフォークが差し出される。
受け取って落とさないように皿に置いた。
「グレンは食べないの?」
「あぁ。もっと食べたいだろ?」
「坊ちゃま、プリシラお嬢様のおかわりは料理長がきちんと用意しておりますので。ご要望がありましたらすぐに焼くことができます」
「料理長はよく分かってるじゃないか」
グレンは頷いてからナイフでぱんけぇきを切り分けて口に運んだ。本当に綺麗な所作だ。
孤児院では食べ物を誰かに分けるなんてあり得なかった。だって、そもそも足りないから。
グレンは以前からよくエビもチョコレートもくれていたけれど、ぱんけぇきもくれようとしたようだ。
エビもチョコレートもそれほど好きそうではなかったが、今日の食べる様子を見ていると彼もぱんけぇきが好きなようなのに。
ナイフとフォークを持ち直し、ぱんけぇきを切る。
はちみつがたっぷりかかっているはずのそれは、さっきよりも全然甘くなかった。
グレンはぱんけぇきを黙々と食べている私の様子を、自分のことのように嬉しそうに口角を上げて眺めている。
これが愛されるということなのか。
私は唐突に思った。
こういう……思いやりと優しい瞬間が続いていくことが愛されるということなのだろうか。
私は助けを求めるように、部屋の隅の鏡にかけているピンクのリボンにそっと視線をやった。
プリシラが一番気に入っていたフリフリゴテゴテの悪趣味なドレスについていたリボンだ。プリシラがいなくなってしまった今、どうしても捨てられずに残していたものである。
そぅっと眺めていると、そのリボンが私の疑問に答えるようにするっと床に落ちた。侍女が気付いてリボンを元通りの位置にかけ直しに行く。
私は途中からなぜか全く甘くなくなってしまったぱんけぇきを食べてから、グレンを見送って勉強に戻る。
「お嬢様、お顔が真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」
「え?」
「熱はないようですね。食事中だというのに坊ちゃまがあれほど見つめるからですかね?」
ピンクのリボンがかけられた鏡の前までいくと、確かに私の顔は真っ赤だった。
やっぱり、私が感じているのは愛されているということらしい。