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「障害物は全部なくなったとして……グレンと一緒にいてさ、本当に君は幸せになれるの?」
レイフは首の後ろで手を組みながら、へらへらとした微笑みを浮かべて聞いてきた。グレンが何か言おうとしたが、私は彼の服の袖を引っ張って止める。
「失恋した俺としては気になるじゃん。好きな女の子が親友とくっついて幸せになれるのかどうか。ここで男の格ってものが分かるだろ」
男の格が何かは分からない。
でも、プリシラに問われた時と違って私はすぐにレイフに答えられなかった。指先が震えている。
「レイフ、彼女は誘拐されて殺されかけて疲れている。その話は帰って休んでからでも」
さっきグレンも似たようなことを聞いてきたはずだけど。
あれは母親が地面に呑み込まれる前だったからいいんだろうか。私は震える指先の中から中指を選んでそっと掴む。でも、震えは止まらなかった。
「グレンは甘やかしすぎ。公爵夫人になるか、愛人になるか、それとも平民になってどっかで生きていくか。彼女がここでそれも答えられないようなら、絶対に公爵夫人は無理だ。グレンがいくら頑張っても。それならさ、お互い辛いだけじゃん。彼女が絶対に苦労するって分かってて止めないほど、俺は無関心な人間じゃない」
レイフの声だけは真剣で、へらへらした表情と合っていない。
彼はやっぱりまだあがいていた。私の大嫌いなみっともないあがきだ。
愛されないと分かった時点でするりと諦めないこの人のこういうところが、私は眩しくて受け入れられなくて大嫌いだった。
思い返せば、私は我慢がとても得意だった。付け加えると心を殺すことも、平気で諦めることも。
でも、レイフみたいに勇気を出したことは一度もない。人生で一度も。だって頑張ったって孤児の私には手に入らないものだから。みっともないって思うしかなかった。
そんな私でも、さっきプリシラにはグレンだけは奪わないでと言ったし、言えた。
プリシラと会話した時は今しか考えていなかった。将来公爵夫人として苦労するだのなんだの考えなかった。でも、レイフに言われるとまだ来てもいない将来の不安がすぐに襲ってくる。だから私は今、震えている。
「絶対に苦労させないとは、俺には言えない」
「へぇ。正直だね。グレンってさ。彼女が好きな割に駆け落ちする気はないし、公爵家の跡継ぎの座を親戚に譲る気もないよね? つまり自分は大して犠牲を払わないのに、彼女の犠牲は大前提ってこと」
グレンは公爵家を継ぐために頑張ってきたんだからそれは当たり前だろう。それに、私のために公爵の座を明け渡されたらそれはそれで重い……。
口を開こうとして中々開けない私の手にグレンの手が重なった。
恐る恐る顔を上げたら彼のブルーの目がこちらを見つめている。
「俺は君に絶対に苦労させないとは言えないし、何もしないで遊んでいていいともまだ言えない」
彼の手は震えていないけれど、私の手はまだ震えている。でも、徐々に弱まってきた。
「かなり勉強もしないといけないだろう。大変だし、周りから嫌味だって言われる。俺はもしかしたらその場にいて庇えないかもしれない。でも、これだけは……約束する。君のことを絶対にもう娼婦の娘や3番とは呼ばせないし、生まれてきた意味がないなんて思わせない。俺と出会うために生まれてきたと思って……生きて欲しい」
レイフのからかうような「うわぁ」という声が目の前なのに遠くで聞こえる。
止まってはずの涙がまた目からこぼれたが、グレンの指が私の指に絡んできたので私までレイフのように「うわぁ」と言いかけた。
「私が、公爵夫人になってもいいの?」
「俺は君以外、考えてない。でも、君がどうしても嫌なら……」
鼻水まで垂れてきた。ズビッと音がしたがなるべく上品にすする。グレンは苦し気な表情で続きを口にしない。
「私は公爵夫人なんて無理だって思ってた。せめて愛人だよねって。それが孤児の私にはちょうどいいんだよねって」
グレンは私の言葉で唇を引き結んでいる。
エルンスト侯爵夫人は罪に問われるみたい。脅してくる母親ももういない。プリシラが連れて行ってくれた。私はもう、自分を娼婦の娘だの孤児だのと蔑まなくていい。
だから、私もみっともなくあがいてみていいだろうか。これまで一度も振り絞ったことのない勇気を出してワガママになってみてもいいだろうか。
「それでも……釣り合わなくても私は……グレンと一緒になら生きていきたい……ワガママでごめんなさい」
グレンのブルーの目が驚きで見開かれた。レイフがまた「うわぁ」とからかうような声を上げる。でも、レイフの方を見る前にグレンに強く抱きしめられた。
悪い子になるのは大変だ。だって、ワガママを言うだけでこんなに怖い。
「もう、逃げないでくれ」
「私は、たった二回誘拐されただけだよ」
「じゃあ、俺から逃げようとしないでくれ」
「……うん」
震えながらグレンに私は縋りついた。彼もさらに強く抱きしめてくる。
「これからきっと大変だね」
そのくらいは私も分かる。エルンスト侯爵家のスキャンダルはプリシラとして生きていくのに付きまとう。それに、お勉強に次ぐお勉強。
考えただけで怖い。でも、グレンがいたらきっと大丈夫。全部一人でやらなくってもいい。プリシラの姿は見えないけど、彼女もどこかで見ていてくれる。
「エビとチョコレートはたくさん食べていいから」
「他のものも食べたい。ケーキとか」
「いくらでも」
レイフは呆れたのかもう何も言わなかった。
「あーあ。本当に失恋しちゃった」
レイフは出迎えられて公爵邸に入っていく二人の背中を見送ってから、空を見上げる。
「雨が降りそうだから早く帰ろう」
「殿下、よく晴れていますが……」
護衛騎士の一人が声を上げる。
「雨だよ。俺が雨と言えば雨ね」
護衛騎士は首を傾げながら口を開きかけたが、レイフと付き合いの長い他の騎士が彼を止めた。レイフはそれを横目に目元を少し拭うと、城に向かって馬を進めた。