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母親の体が黒い手によってずぶずぶ地面に取り込まれていく様子を、私も含めて全員で呆然と見つめた。
「た、助けて!」
「まさか、黒魔術か?」
「あいつは気絶させたはずだろう!」
「何か罠でも残っているのか?」
たくさんの黒い手は私にしか見えていないようだ。
騎士たちもあまりに不気味な様子に手が出せない。
黒い手の中に一つだけ、ピンクのリボンが見えた。いや、正確にはピンクのリボンを巻いた手だ。
あぁ、プリシラだ。
彼女の姿はもう見えないのに、そう確信できた。彼女が最初に私の前に現れた時も地面からにょきにょき生えてきたもの。
私がここで「やめて」と叫んだら、きっと彼女はやめてくれるだろう。そんな予感がする。
でも、私は何も口にしなかった。
侯爵夫人に命令された人に殺されなかった母親はとても悪運が強いのだろう。でも、彼女はきっとこれからも私をお金にしようとする。
グレンやフォルセット公爵家を脅したり、あるいは他の貴族の家に私のことをニセモノだと言いふらしたりするかもしれない。もしくは私を誘拐して、今度こそ娼館に売るかも。
私は母親なんていないと思って生きてきた。だから、母親を捨てるという言い方が合っているのかは分からない。
でも、私は今日あんな卑しい母親を捨てる。最初に私を捨てた母親のように、私も母親を捨てるのだ。胸を張って生きていく第一歩として。
地面に半身を呑み込まれながら、私に向かって必死に手を伸ばす母親。私に名前をつけていないから、叫ぶ名前もない。名前くらいつけてくれれば良かったのに。そうしたら今この瞬間、悲しげな母親ぶった声で呼べたのに。
「た、助けてよ! ねぇ!」
母親の頭を押さえつけるように地面に吞み込ませたのは、ピンクリボンを巻いた黒い腕だった。
母親のいたところにはエメラルドの指輪だけが転がっていた。
プリシラは最後の最後でグレンを連れて行かずに、私の母親をどこかへ連れて行った。多分、この世界ではないところに。木の葉の混じった風を体に受けながら、思わず隣にいたグレンの腕を掴む。彼は呆然としながらも私を抱きしめてくれた。
プリシラは全然ワガママな子ではなかった。
彼女は私のために母親を連れて行ってくれたのだ。私が堂々と胸を張ってニセモノとしてでもこの先生きることができるように。
グレンとレイフと一緒に乗せられた馬車の中で涙がこぼれた。
彼女にちゃんと伝えておけばよかった。私もプリシラを初めてできた友達のように思っていたし、一緒にいてとても楽しかったのに。お別れもろくにできなかった。
今日からプリシラはこの世界のどこにもいない。
太陽が昇り、馬車の窓から差し込む光はだんだん力強くなる。
「で、何? そーゆーことなわけ?」
向かいに座るレイフはまたもいい香りのするハンカチを差し出してくれたが、私が受け取る前に隣からグレンに阻止された。
「そーゆーこと?」
「君ってグレンと結婚して公爵夫人になるわけ?」
明け透けなレイフの問いに思わず俯いた。
「いいじゃん。君の母親は訳の分からない現象で地面に呑み込まれていなくなったわけだしさ。邪魔者はいないよね~。グレン、今回の騒動はどうすんの。どう発表する?」
「エルンスト侯爵夫人が黒魔術で自分の魂を娘の体に入れようとした、ということにすればいいだろう」
「黒魔術は禁忌だからね。プリシラ嬢を無関係だったということにするなら……まぁそうか。黒魔術で娘を生贄にして寿命伸ばそうとしたとかの方がいいんじゃないの」
「夫人は表向きでは娘を溺愛していたから、説得力がないだろう」
「実は家で虐待してましたって話を公にすれば? どのみち、これでエルンスト侯爵家は代替わりだ。レイナードも階段から突き落とされた被害者だし……大変だろうけど評判を回復してもらうしかないね。侯爵夫妻はあれだったからみんな同情してくれると思うけど」
私が俯いている間に話はどんどん進んでいく。
「まぁ、君次第で発表の内容も変わるかな」
レイフが私の顔を覗き込んできた。彼のオレンジの目はいつものように面白がっている。
「グレンのこと好きなのはいいけどさ。やっぱり公爵夫人は無理じゃない? 俺にしといたら? それかグレンの愛人って立場になってさ、公爵夫人は別の人にやってもらう?」
「レイフ、いい加減にしろ」
ねぇ、プリシラ。プリシラは私にワガママになれって言った。
本当にワガママになっていいのかな。堂々と胸を張って生きられるかな。
「あの、二人とも……お礼を言うのが遅くなったけど、助けに来てくれてありがとう」
服の袖で涙を拭いながらそう口にすると、グレンはハンカチを押し付けてきた。
「結局、二手に別れたらグレンが正解だったけどね」
「途中はタヌキに道案内をされた」
レイフの言葉で隣のグレンを見上げた。グレンはそんな私の涙を親指の腹で拭う。
「ねぇ、俺にちょっとは気を遣ってくれない? そんな風に目の前でいちゃつかれると嫌なんだけど」
ハンカチで涙を拭いてほんの少しグレンから距離を取った。
手元のハンカチに視線を落とすと、それは私が刺繍して周囲におだてられて嫌々グレンにあげたハンカチだった。本当に使ってくれてるんだ、これ。
「私、レイフとは一緒に行けないし結婚もしない」
「……そっかぁ」
唐突にはっきりと私が口にしたせいでレイフの動きは一瞬止まったが、彼は瞬時に立て直した。
「あの……逃げるために利用するようなことをして、返事をずっとしなくてごめんなさい」
「俺も最初は脅したからね。あーあ、失恋かぁ」
レイフはいつも通りヘラヘラ笑っているが、何となく分かる。彼は本当に傷ついているようだ。