7
いつもお読みいただきありがとうございます!
「プリシラ?」
床の呪文や文様がほんの一部でも欠けてはいけなかったようで、男は半狂乱になりながら急いで床に書き直している。
「どうして? そんなにお勉強嫌?」
『あんた、私を舐めるんじゃないわよ』
侯爵家の護衛たちと突入して来た騎士たちが切り結んだり、殴り合ったりしている。まだ、私たちの周囲には誰も来ていない。
というか男の黒魔術とかいうものによって何かされているのか、人数は圧倒的に突入して来た者たちが多いのに苦戦している。
私はプリシラの行動の意味が分からずに、ぷかぷか浮いている彼女を見つめた。彼女は顔を盛大に顰めて大変機嫌が悪そうだ。
『あんたが体要らない、生きていたくないって言うんだからもらおうかと思ってたわよ、さっきまでは。そこの不細工からも計画聞いてたし。私だって階段から落ちなければホントは生きてブンブンいわしてたはずなんだから』
「プリシラは死んでてもブンブンいわしてるよ」
幽霊になっても変わらずすごいワガママっぷりじゃない。それがブンブンいわすというハチみたいな表現でいいのかは分からないが。
『うっさい。私はね、ケーキをたくさん食べて、綺麗で可愛いドレス着てすっごい美人になってたはずなんだから』
「そうだね。だから私の体で良ければ……」
『ふざけんな! この不細工!』
「あの、私たちほとんどおんなじ顔だと思うけど」
周囲の騒がしさをよそにプリシラと呑気に喋っていると、視界の隅で何かが煌めいた。視線を向けると、見えたのは目の前で止まって震えるナイフの切っ先とエルンスト侯爵夫人のギラギラした目だ。
「早く! プリシラに体を渡しなさい!」
え? こんなんで儀式の手順って大丈夫なの? 男が呪文唱えないといけないんじゃない?
そんなことを考えているうちに、ナイフの切っ先はすぐ近付いてくると思っていた。切っ先を見るのはさすがに怖いが、死ぬのはあまり怖くない。でもあんまり痛いのは嫌だな。
プリシラの手が伸びてしっかりナイフを握る。彼女のやや透けた手は間違いなくナイフの刃の部分を掴んでいた。そう、まるで夫人の動きを阻止するように。
『この枷のおかげで物は掴めるのよ! 人は無理だけど!』
困惑する私に向かってプリシラはふふんと得意げだ。
夫人はプリシラのことが見えていないため、空中でぴたりと止まったナイフの持ち手を両手で握り、顔を真っ赤にしながら私に突き立てようとしている。
「どうして! 動かない!」
「プリシラ……なんで……」
なんでプリシラは夫人を阻止しているの? 私を助けようとしているようにも見えてしまう。
「お前などさっさと死になさい! 生きている価値なんてないんだから!」
夫人の顔はもう別人だ。歯を食いしばって目は血走り、体を震わせてナイフを私に突き立てようとしている。私を叩いている時よりも、悪魔の形相だ。
「ねぇプリシラ。夫人の言った通りだよ」
『うっさいわね。私があんたの体に入る? バカなこと言ってんじゃないわよ。そんなのごめんよ』
プリシラの両手もプルプル震えている。幽霊だから刃を握っていても血は出ていない。でも特別に力が強くなっているわけではないようだ。
「背中の傷が気に入らなかったら、高い薬を使えば治るかもしれないし……」
『お黙り!』
プリシラの一喝と夫人が力を抜いてナイフを放すタイミングは一緒だった。プリシラはよろめきながら手にしたナイフを遠くに投げ飛ばす。
『私があんたの体に入ったら! 私があんたのニセモノみたいじゃない! そんなの許さないわ!』
「もういい! こうなった以上、お前など死ね! プリシラの顔をしたニセモノ! お前なんかがいるからいけないのよ!」
夫人の両手が私の首にかかる。
プリシラが夫人の体を突き飛ばそうとして、見事にすり抜けた。
手足を縛られているから、暴れてもあまり抵抗にならない。体を必死で捩るが夫人の首を絞める力が強すぎる。
『ちょっと! お母様! どいて! やめて!』
叩かれた時とは比にならない凄い力だ。苦しい。
プリシラはすり抜けるからすぐ諦めて、机の上にあった燭台を手にしているのが見える。
いけない。プリシラが夫人を傷つけるようなことがあってはいけない。
だって、プリシラは私が叩かれている時もあんなに苦しくて辛そうだったのだ。そんな彼女が実の母親を叩いたり、殴ったりしてしまっては彼女が傷ついてしまう。彼女は死んでしまっているのに、これ以上傷つかなくていいはずだ。
でも、苦しくて言葉にならないし夫人を押しのけることもできない。
聞いたこともない乾いた音がした。
最初は聞き間違いかと思った。でも、二回目も聞こえた。そして三回目も。
『遅い! この役立たず!』
私の首を絞めていた夫人の手から力が抜ける。プリシラは手に持った燭台を使って夫人の体を押した。夫人はゆっくり倒れる。
咳き込みながら体を起こそうとしたところで、誰かが私を抱きかかえた。ふわふわしながらソファから固い床に移動したようだ。何かが当たったり、落ちたりするような大きな音があちこちで聞こえる。
私を抱えた誰かがやっと放してくれたので、見上げるとグレンだった。
彼は小さなナイフを取り出すと私の手足を縛っている縄を切ろうとするが、手が震えてうまくいかない。
『下手くそ。意気地なし』
プリシラが悪態をついているが、グレンにも聞こえていないようだ。
やっと手を縛っていた縄に切れ目が入ったので、モゾモゾ動かして縄を解く。グレンは足の縄に取り掛かった。彼の顔は青白いのに、汗も浮いて息も乱している。まるで、酷く焦って私を探してくれていたように。
『お母様! もうやめて!』
首を絞められた余韻で頭がぼーっとする中でグレンをぼんやり見ていると、プリシラの悲鳴のような声がした。
「う、後ろ!」
さっき倒れたはずの夫人は這って近寄って来ていて、私とグレンめがけてナイフをふりかざす。グレンを突き飛ばそうとしたが、手が縛られていたせいでうまく動かなかった。
グレンは私に覆いかぶさるように抱きしめた。