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いつもお読みいただきありがとうございます!
「あれぇ、グレン。早いじゃないか」
出かけているはずのグレンが帰って来たらしい。
グレンの厳しめな視線が私たちの手に向けられてる。そういえば、まだ絵本の上の手を放してもらえていなかった。
「ちょっと、レイフ」
「ん?」
「手! いい加減放して」
「あぁ、ごめんごめん」
レイフはヘラヘラしながらやっと手を離してくれた。私は絵本と一緒にすごい勢いで手を引っ込める。
「別に俺が公爵邸にふらっと来るのはいつもだろ? 待たせてもらってたら庭で難しい顔して頑張ってお勉強するプリシラ嬢が見えたからさぁ。外国語なら俺は得意だし?」
レイフはヘラヘラしながら立ち上がって、グレンの肩を叩く。
「プリシラ嬢だって可哀想じゃん? 買い物も行けずに監視みたいに張り付かれてずっとお勉強なんてさ。適度な気分転換は必要だよ」
レイフは使用人がいる手前、わざと大きめの声でプリシラ嬢と呼んでいる。
「監視なんてつけてない。それに、レイフは婚約者でもないのに距離が近すぎだ」
「ふぅん。グレンはプリシラ嬢と仲悪いからだろ? このくらいの距離は友達なら当然」
「手を重ねるのが?」
「そうそう」
グレンは睨んでいるのにレイフはどこ吹く風だ。
この二人は仲がいいはずなのに、今はなんだかバチバチしている。なんでだろう?
孤児院でもこのバチバチの光景はよくあった。少ない休憩時間に「おねーちゃんにこの絵本をよんでもらうの!」って子供同士で喧嘩してたっけ。仲裁するのなかなか大変なのよね。
「グレンは忘れものでもしたの? 早く取っていきなよ」
「先方が体調不良でキャンセルになったんだ」
私は二人のやり取りをぼんやり聞きながら、ふとグレンが片手に持っている封筒に目がいった。
「あ、それ……」
エルンスト侯爵家の紋章が見えたので思わず口にする。二人はピタリと会話をやめた。
「エルンスト侯爵家から手紙だ。お兄さんが階段から落ちて怪我をしたとかで、君に見舞いに来て欲しいらしい」
「え、お兄様が……」
「また階段から落ちたの? エルンスト侯爵家って呪われてるんじゃない?」
レイフの軽口は確かにそうなのだが。レイナードお兄様が怪我をしたのか。階段から落ちることに関しては、エルンスト侯爵夫人はトラウマがあるから……心が不安定になってるんだろうな。
あれ? これってチャンスじゃない?
エルンスト侯爵家にお見舞いに行けば侍女長サリーに会えるし、逃げるのに協力してもらいやすい。そのまま逃げたらいいじゃない? レイフに頼ることもなく逃げられる。
「お兄様が心配なので一度帰りたいんですが……」
「ダメだ。君がまた叩かれるかもしれない」
「え、でもあんなの全然痛くない」
あ、グレンはその心配してるんだ。私の正体がばれて、プリシラじゃないって知ったから夫人に叩かれてたって信ぴょう性が増したのか。
返事をすると、グレンの顔が苦々し気に歪んだ。
「痛くなくても……また叩かれるかもしれないのに。俺はしばらく忙しいからついていけないし……」
「いや、グレンそれはないでしょ。またあそこの侯爵夫妻うるさいよ。兄が怪我したのに見舞いにも来させなかったって騒ぐに決まってるよ。プリシラ嬢を監禁してるって言われるかもよ?」
レイフ、ありがとう。私、あなたにこんなに感謝したことないかも。
「侍女を何人かつければいいんじゃない?」
待って、レイフ。そんな何人もいたら困る。ふるふると首を振るが、そんな私を二人は見ていない。
「まぁ……侍女と護衛をつけるなら」
それじゃあ逃げられないじゃない! あ、最低でも侍女長サリーと話せたらいいか。
アクセサリーはなるべく豪華なのをつけていけばそのまま逃げる時にもいいかな、なんて考えているとグレンが私の前に立った。
「本当に行くのか?」
「お兄様は心配だから。階段から落ちると痛いだろうし……それに見舞いにいかないのもガイブン?が悪いでしょ?」
「そーだよ、グレン。外聞が悪いよ」
グレンはまとわりつくレイフを完全に無視して私を見た。
「君からまだ返事をもらってない」
返事、返事……何かあったっけ?
「俺と結婚してほしいっていう」
んぐっと思わず息が詰まりかけた。今度はエビではなく、持っていた絵本がパタンと膝に落ちる。レイフもまさかそんなことを言い出すとは思っていなかったらしく、ポカンとしている。
「その返事をまだもらっていないのに、君を侯爵家に行かせたら……君が帰ってこない気がする」
こ、この人、私の心が読めるの? 逃げたいって口に出したっけ?
我に返って周囲を見回すと、グレンはすでに人払いをしていた。
「いや、そんなことなくって……ま、まだ考えて! 勉強だって大変だし」
そもそもあれって返事が必要なものなの?
嫌だって言えばいいの? 先代公爵夫人には無理って言ったよ?
「あ、で、でも私には無理だから。公爵夫人なんて務まらない。お勉強もついていけない。結婚なんて無理!」
グレンはほんの少し視線を落とすと、またまっすぐに私を見てきた。膝の上に倒れた絵本を取りあげてテーブルに置き、私の頬をするりと撫でる。
「俺のことが……そんなに嫌いなのか?」
なんで先代公爵夫人もグレンも好きか嫌いかなんて聞いてくるの。心に聞けなんて言ってくるの。
結婚も公爵夫人も無理って言ってるじゃない。孤児が公爵夫人になれるわけないって言ってるのに! お貴族様はお貴族様と結婚するのが一番いいんだよ。
グレンの目は綺麗なブルーだ。とても綺麗だと思う。彼は、こんな私と一緒になんかいちゃいけない。
誰かの1番になりたいって思ったこともあるけど、1番になるって大変。特にグレンの1番って大変。ちょっとお勉強しただけでも分かる。
娼婦の娘と呼ばせたくないって? どうやってそんなことするの。私はずっと娼婦の娘で3番だもん。グレンはお貴族様でお金持ちで、知識もあるからそう言えるんでしょ。私には全部ない。何にもない。
だって、私はこんな。こんなガイコクゴの絵本をたどたどしくしか読めないんだよ。ブレアだってもうちょっと知識あるよ。
「分かった。悪かった」
俯いて黙り込んでいると、グレンは踵を返して屋敷の中に入ってしまった。
その場にはレイフと私と絵本が残された。分かったって? 無理って分かってくれた?
ちゃんと私以上に現実を見てくれた? 孤児で娼婦の娘を公爵夫人にするの諦めてくれた?
「……あーあ」
グレンの背を見送っていると、レイフの声がやたらと響く。
「ほら、使いなよ」
レイフは私の顔を覗き込んでから、良い香りのするハンカチを押し付けてくる。
「何で泣いてんの」
「泣いてない」
「じゃあ、目から出てんのは鼻水?」
「何も出てないから」
レイフは呆れたようにハンカチを私の頬に押し付けてゴシゴシ動かした。
「泣いてるよ」
「泣いてないもん。叩かれても鞭で打たれても泣いたことないのに、なんで今泣かなきゃいけないの。喜ぶ場面でしょ」
レイフはゴシゴシする手を止めた。
「俺が最初に君の正体を分かったんだけど」
「うん」
「グレンじゃなくって、俺にしたら?」
ぽたっと何かが膝の上の手に落ちた。雨だろうか。
空を見上げるとレイフが苦笑している。
「それ、君の涙だって」
「涙なんか」
「泣いてるよ」
レイフは私の手にハンカチを握らせると、わざとらしく違う方向を向いた。
目元を指で触って何か液体がつく。ぺろりと舐めるとそれはしょっぱかった。