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使用人の目があるので、逃げるといってもなかなか難しい。
ひとまず、持ち出しやすく換金しやすそうなプリシラのアクセサリーをひとまとめにしておく。
「はぁ、どうしよう」
ガイコクゴの勉強のために絵本を広げながら、庭でため息をついた。
逃亡に失敗したら監視はきつくなるはず。いや、案外あのランチの後からグレンは忙しそうで会っていないから、逃げたら逃げたで追われないかもしれない。それならいいんだけど……困るのは追われた場合。
「うーん」
ガイコクゴの絵本片手に悩んでいれば勉強で困っていると思われるだけなので、庭で一人でブツブツ言っていると絵本に影が差した。
「へぇ、ノリノリで公爵夫人になるわけだ?」
「レイフ!」
顔を上げると、逆光の中こちらを笑って見下ろすレイフがいた。赤い髪が私の額に垂れてくる。驚いて声が上擦った。
「足はとうに治ったはずなのにずっと公爵邸にいるからおかしいと思ったんだよね。そろそろ困ってなかった?」
私の中の最低な悪い子が顔を出す。だって、この状況から脱するには嫌いなレイフに頼るのが一番だから。その考えが顔に出ていたらしい。
「どうして君って誘拐された時に俺が部屋に入って来ても嬉しそうじゃなかったのに、今日は嬉しそうなわけ?」
誘拐の時はプリシラがいたから怖くなかった。あの時、私は一人じゃなかった。
「どうして公爵邸にいるの? グレンは今日いないんじゃない?」
「俺はいつもふらっと寄るから。今グレンが出かけてるのは知ってる」
「ならちょうど良かった。ここ教えてよ」
使用人が慌てて近づいてくるのが見えて、誤魔化すように彼の前に絵本を差し出す。
「あなた、留学してたんだからガイコクゴ喋れるでしょ」
「まぁね」
「発音を教えてもらうから、テーブルに移動するわ」
使用人に声をかけてからレイフと移動する。
「へぇ、使用人の扱いが上手くなったことで」
「勉強するフリして。会話聞かれたくないもん。最近ずっと張り付かれてて」
「何? グレンにプロポーズでもされた?」
私が答えられずに俯くとレイフは笑った。
「へぇ、やるじゃん。で、どうすんの? グレンと結婚するの、俺と結婚するの。うわぁ君って贅沢だね」
「どうしてその二択なの」
「結婚なんて紙切れ一枚出すだけなんだから別にどっちでもいいじゃん。グレンと結婚したら壮大な式まで挙げて堅苦しい公爵夫人。俺と結婚したら気楽に外国に行きまくり」
「そういう問題じゃない」
レイフは頭がおかしい。どうして重苦しい問題を軽々しくするのか。
しかも、私を邪魔しているのか助けているのかも分からない。
「俺は結構本気って言ったよね?」
「言ったけど……私は逃げたいだけだから。それにあなたのこと信じてないし」
「グレンのこと好きじゃないなら、俺にしときなよ。俺なら君のこと大体分かるけど。君の正体にも最初に気付いたのは俺。グレンってちょっと鈍いし、君も俺といる方が素が出てる」
しょっぱなから私を脅しておいて、素だのなんだの何を言っているのか。
絵本をテーブルの上に開いて、やや離れたところにいる使用人に会話を聞かれないよう、お互い視線は合わせず絵本を見ながら自然に近付く。
「レイフだって好きな子できるでしょ。その時に結婚してたら私は邪魔者だから」
「ふぅん。それって嫉妬?」
「嫉妬って何よ。そんなんじゃないから」
「ここに残るなら君はずっとプリシラ・エルンストとして演技して生きていかなきゃいけないと思うけどね。だって孤児が公爵家に嫁ぐなんて反発がものすごいはずだから」
「そんなの分かってる。だから逃げようとしてるんでしょ」
分かってるに決まってるじゃない。だからグレンや公爵夫妻、先代公爵夫人が正体を知っても結婚の許可を出していることが信じられない。もしかしたら、私が身の程をわきまえて勝手に出て行くのを待っているだけかもしれない。でも、それならここまで使用人が張り付かなくていいはず。
「君はプリシラ・エルンストのままだ、ここにいる限り一生。でも、俺と結婚すればプリシラ・エルンストは名前だけ。国内にいることは少ないからプリシラとしての演技は最低限でいいよ。キツイでしょ、プリシラとして生きていくの。本来の自分として生きていきたくない?」
「あなただって王子様なんだから、結局はグレンと一緒でしょ」
「一緒じゃないんだな、これが。俺はプリシラ嬢みたいな問題児と結婚した方がいいわけ。そっちの方が変に担がれにくいし」
「私のこと好きでもないのによく結婚なんて言えるわね」
「好きだけど?」
「嘘ばっかり。最初っから遊んで追い詰めて楽しんでるだけでしょ。私、おもちゃにされるのはもうたくさん」
絵本をパタンと閉じられた。
抗議するようにレイフを見ると、頬杖をついていつものヘラヘラ笑いは封印していた。
「じゃあ、どうしたら君は俺のこと好きになってくれるの?」
「は……?」
「俺だって分かんないんだ。母親は生んですぐ死んじゃったし。愛なんて分からないけど、君といると楽しい。それじゃあダメなんだろ?」
「ダメっていうか、そもそもあなたはグレンと婚約解消しろとか、金やるからどっか行けって言ってたじゃない。そんな人から好きとか結婚って言われて、どうして信じるの」
絵本を開こうとしたが、レイフの手が私の手に重なった。引き抜こうとしたが無理だった。
「ちょっと! 放して!」
「俺のこと信じられたらいいの? ここから逃がしてあげるし毎日とはいわなくてもエビだって食べさせてあげる」
「そうやって支配しようとしてるだけでしょ」
「でも、君はここから逃げるのに俺に縋るしかないよね? 孤児で娼婦の娘に公爵夫人は務まらないよ」
「そんなの世界中で私が一番よく知ってる。分かってないのはグレン」
「そうだな、グレンがここまで夢見がちとは俺も思ってなかった」
「あなたは私の正体は気にしないわけ?」
「娼婦の娘でも孤児でも別にどうでもよくない?」
なぜだろう。こんな言葉を言われてみたかったはずなのに、レイフの言葉は妙に軽々しくて吹けば飛んでいきそうだ。重みがない。
「どうでもよくないでしょ」
「俺はどうでもいいよ。目は二つ、鼻の穴も二つ、口は一つ。どっか見た目で俺たち違うの?」
「そういう見た目は……違わない」
「俺も愛されたことないし、君もそう。俺は気にしないし、そもそも俺と同じような人間がいるなんて思ってなかったから嬉しい。君のこと理解できるのは俺だけだと思うし、俺のことも君はきっと分かるはず」
私は嬉しくないし、レイフのことは全然理解できない。分かっているのは彼が私とは真逆のタイプってことだけ。
どうしてレイフの言うことは全部嘘っぽく聞こえるの? プリシラの言葉はきついけど全部真っ直ぐだった。でも、レイフは違う。
それに……グレンが言ってくれた。もう娼婦の娘なんて誰にも呼ばせたくないって。どうして今更あの言葉を思い出すの?
「レイフ。ここで何してる?」




