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どうやって部屋まで戻って来たか覚えていない。侍女にも心配されたが、それどころではなかった。
逃げないと。
早くここから逃げないと。
公爵夫人なんて絶対に無理。無理で無理でそして無理。
ど、どうしよう。レイフに助けを求める? 絶対イヤだけど助けてはくれる……かな。でも、なんでレイフもグレンも結婚しようなんて言うのよ! あ、彼らはもう十七歳で結婚できるからか。お貴族様の結婚はそのくらいだもんね。でも、私はまだ十四歳ちょっとなの!
お貴族様って愛人いっぱいいるんでしょ? それなら別に私と結婚なんてしなくったっていいじゃない。なんでわざわざ娼婦の娘で3番の私と分かってて結婚しようなんて言うのよ!
「上の空ね」
「すみません」
「いいわよ、グレンのせいでしょう」
午後からは先代公爵夫人とのお勉強の時間だった。しかし、全然身が入らない。
夫人は本を閉じると軽くため息を吐く。そして彼女は侍女たちに出て行くように告げた。
「あなたが孤児で、プリシラ嬢になりかわっていたことは分かっているわ」
「申し訳ありませんでした」
「それはあなたのせいではないわ。その謝罪をすべきはエルンスト侯爵よ。あなたは無理矢理訳もわからず連れてこられただけでしょう」
「あの……すぐ出て行くので……どうか」
「あら、どうして出て行くの?」
先代公爵夫人は「あら」なんて言いながら優雅に紅茶を飲む。お貴族様って怖い。
「なりかわりがバレてしまって、私がここにいる意味はないです。侯爵の追手だけは気になるのでもしよければここにいることを誤魔化していただけたら」
「グレンは何と言っていたの? 話はした?」
結婚しようと言われたなんて口にしたくなくて、思わず俯く。
「我が孫ながら下手糞よね。あなたの正体を分かった上で結婚したいと言ったはずなのだけれど。あの子は言葉足らずだったかしら。それともあの子ったら日和ったのかしら」
そうじゃない。私は唇を噛んで首を横に振る。
「私が……娼婦の娘だから。公爵夫人なんて無理です……せいぜい、愛人とか」
自分で口にして情けなくなる。お貴族様それに次期公爵と娼婦の娘が結婚なんてありえない。
私はずっと「娼婦の娘」と言われるのが嫌だった。でも「娼婦の娘」という価値観は私の心に思ったよりも深く根づいていた。すぐ「愛人」なんて口から出てくるくらいに染みついている。
「あら、あなたはプリシラ・エルンストでしょう?」
先代公爵夫人はいたずらっぽく笑っていた。
「もともと婚約していたプリシラ嬢とグレンが結婚することに何の障害があるの?」
私の正体は限られた人しか知らないから、それで問題ないということか。
「あの……エルンスト侯爵家にお金をもう渡したくないんじゃ」
「その件ならもう大丈夫よ。ひとまずの支援は打ち切ったわ。あなたとグレンが結婚したらまた何か言い出すかもしれないけど、その時はあなたのお兄様に爵位を譲ってもらったらいいかしらね。あの侯爵夫妻が面倒だから」
お金の件ももう大丈夫なのか。
プリシラの兄は侯爵夫妻より常識がありそうだったし、嫌な人でもなかった。
「あなたはグレンが嫌いなのかしら? さすがにグレンの最初の頃の態度は酷かったけれどね」
「私をプリシラだと思っていたのなら仕方がないです」
「あなたは顔だけ見れば本当によく似ているわ」
先代公爵夫人がカップを置いて、私の頬に触れる。
「でも、あなたからは諦めと怯えを感じる。正体を知って納得したわ」
グレンのことが嫌い? 分からない。好きか? それも分からない。
だって恋愛なんて贅沢だから。
「孤児に、公爵夫人は務まりません」
「好きだけで乗り越えられるとは思っていないわ。あなたにもグレンにも努力は必要だけれど。過去を見れば平民でも王妃になったこともあるのだし」
それは、さぞ特別な人だろう。
私みたいに3番じゃなくて、娼婦の娘でもなくって、才能もあって誰からも愛される。
どうせ今グレンの手を取ったところで、彼はきっと他のお貴族様のご令嬢がいいとすぐに気づくだろう。結婚して別れる人なんていっぱいいるんでしょ? お貴族様だから別れないなんてないもん。
「先代公爵夫人はなぜ、グレン様に説得されたのですか。私との結婚なんて、猛反対するべきことではないですか。いくら……他の女性に触れないといっても」
「あなたがもっと打算的で悪い子で、グレンと結婚できるなんて浮かれているような子だったら反対したのだけれどね」
プリシラは私をいい子ちゃんだと言った。
嘘だ。私は悪い子だ。
公爵夫人なんて絶対に無理。私はただ大人の支配から逃げるために頑張ってきただけなんだから。お貴族様と結婚したらさらに自由がない。
「ドレスは最終的に私が決めたけど、今回はあなたがちゃんと決めなさい」
無理だ。だって私は何も持ってないんだから。決めたことなんてない。決断なんて贅沢だ。
私は選んでいい側の人間じゃない。選んだってどうせ奪われる。グレンの好きという気持ちだってどうせ一時的なものだ。どうせ、私は愛されない。
「だって、あなたは周囲が全員賛成していても自分で否定しているような子だから」
先代公爵夫人はまるで心の内を見透かしたように言った。
「私に公爵夫人は務まりません。教養も何もかもないのですから」
「あなたは、グレンのことを好きか嫌いか答えていないわ。あなたの心に聞いてみて。自分の気持ちを聞いてみなさい」
なにそれ?
心に聞いてみるって何? 分かるの、そんなこと? お腹空いてるかどうかくらいしか分からない。だって、私の気持ちなんて持ってたってどうせ踏みつぶされるじゃない。誰も聞いてくれないし、助けてなんかくれないじゃない。
「私はあなたの気持ちを尊重しましょう」
逃げよう。なんとかして。それしかない。
期待させられてまた地の底に落とされるなんて絶対に嫌だから。