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知ってる。どこに行っても私が愛されないことくらい。十三年かけて孤児院で叩き込まれたんだから。そしてエルンスト侯爵家で微かな希望もへし折られたから。
卑しい娼婦の娘である事実も消せない。隠せるけど消せない。でも、だからなんだっていうの? 私は娼婦じゃないし、娼婦が悪いとも思わない。暴力はダメだけど。
娼婦の娘で孤児だから、私はずっと誰かに支配される。最初は孤児院で今はエルンスト侯爵家。そして今、赤毛の王子の言いなりになればまた支配される。この偉そうな赤毛の王子様に。
ずっとそんな生き方でいいの? 嫌だから私は逃げようとしてるのに。
今ここで頷いてしまったら、私は一生このままな気がするの。ずうっと誰かの言いなりで支配されて自立できない。いずれ支配を疑問に思わなくなる日が来るかもしれない。
「王子様ってもっと偉いんだと思ってた」
「うん?」
「バカみたいよ。王子様ならさっさとエルンスト侯爵を脅して婚約解消してグレンとの友情に報いればいいじゃない。私をお金で釣って脅してないで」
「王家が一度承認した婚約を覆すことは基本的にやってはいけない。政情がきな臭くなれば可能だけど。そんなこと君には分からないか」
レイフの腕を振り払う。最初のうち彼の力は強かったが、私が抵抗しなかったせいか力は段々抜けていっていたから簡単に振り払えた。
「分からないわよ、そんなこと。でもあなただって叩かれる痛みも分からないでしょうし、カビたパンだって食べたことないでしょ。寒い日に叩きだされて死にそうになったこともないでしょ」
「なんでここでカビたパンの話が出てくるんだ?」
「脅しやすい私に言うこと聞かそうなんて。王子様なんて柔らかいパン毎日食べて威張ってるだけで全然偉くないじゃない。綺麗な服着て綺麗な手しちゃってさ」
レイフを見上げて睨む。
「私には私の夢がちゃんとあるの。あんたの言うことなんて聞かない。ばらしたいなら早くばらせば? 見た目だけなら私はプリシラ・エルンストよ。ニセモノだって誰が信じるの?」
彼は私の反抗が予想外だったらしく、気持ちの悪い面白がった薄笑いをやめて驚きに目を見張っている。
「私は私が愛されないって知ってるし、無価値だってことも知ってる。喜んでエルンスト侯爵家のためにプリシラの振りなんてするわけないでしょ」
レイフが私の腕を掴んでこようとしたので、また振り払った。言いなりになるのは嫌だ、でも反抗するのは怖い。すごく怖い。しみついた感覚に反抗するように体が震えてる。
「成人してグレンと結婚してすぐ逃げるつもりだから、グレンは他のご令嬢と好きにまた結婚すればいいでしょ。あと約二年の辛抱よ。それでいいじゃない」
「二年もグレンに我慢させるつもりなんだ?」
「だから何よ。誰が私の話を聞いてくれるっていうの。それにグレンだけが被害者みたいな言い方しないで。グレンだって文句ありそうにしながらずっと婚約したままなんだし、侯爵家が私を利用しようとするなら私も利用し返すだけよ」
この偉そうな王子様ともう喋っていたくない。
私の挙動を不審に思っていろいろ調べ上げたのは凄いし、グレンとの友情も外野からならお涙頂戴くらい感動ものだろう。でも、だから何よ。お金持ちの王子様に何が分かるっていうの。権力があって私くらい簡単に捻り潰せるくせに私の反応を見て楽しむなんて悪趣味。
「世間体や事情があるんだよ」
背を向けると、背中にレイフの声だけが追いついてきた。
「それを大事にするのがお貴族様なら我慢しとけばいいでしょ。たったあと二年じゃない!」
くれると言われたお金は惜しいけど。私にも意地ってものがあるんだから。
とりあえず、王子にばらされたら困るから会場に戻ってエビは食べておこう。いつ食べられなくなるか分からないもん。チョコレートムースも食べなきゃ!
さすがに王子はそれ以上追ってこなかった。
***
クモが怖くて泣き出したブレアを親のところに連れて行ってまた庭に戻る。
十二歳で親戚で馴染みのあるブレアでさえ、女性だから隣にいると不快だった。むしろあのブレアが媚を含んだ視線を向けて来た瞬間にもうダメだった。震えを必死に押さえていた。クモがついてしまった時は可哀想だと思ったが、触れることなんてできなかった。クモを触ったことはないのだが。
そうしたらあの女が何のためらいもなくクモを掴んで木に戻した。やけに手慣れた行動だった。あれは本当に令嬢なのか?
グレンは一人で庭に戻りながら首をひねった。
レイフを待たせるわけにはと思い、来た道とは違う近道からバラの咲いている区画に向かう。
姿はまだ見えないが話し声がしたのでレイフとあの女はバラの区画にいるようだ。あの女は以前、といってもだいぶ前だが一番母が気に入っているバラが欲しいと駄々をこねて一輪無理矢理手折らせたのだ。まぁ、あの女は覚えてもいないだろう。
「私には私の夢がちゃんとあるの。あんたの言うことなんて聞かない。ばらしたいなら早くばらせば? 見た目だけなら私はプリシラ・エルンストよ。ニセモノだって誰が信じるの?」
そんな内容が耳に入ってきて、思わず足を止めた。
「私は私が愛されないって知ってるし、無価値だってことも知ってる。喜んでエルンスト侯爵家のためにプリシラの振りなんてするわけないでしょ」
ちょうど建物の陰になっておりこっそり隠れながら見ると、レイフとあの女が向かい合っている。険悪な雰囲気だが続いた言葉に割って入ろうと進めた足が止まった。
「成人してグレンと結婚してすぐ逃げるつもりだから、グレンは他のご令嬢と好きにまた結婚すればいいでしょ。あと約二年の辛抱よ。それでいいじゃない」
は? どういうことだ?
一体二人は何を話しているんだ? プリシラの振り? 結婚してすぐ逃げる?
「二年もグレンに我慢させるつもりなんだ?」
「だから何よ。誰が私の話を聞いてくれるっていうの。それにグレンだけが被害者みたいな言い方しないで。グレンだって文句ありそうにしながらずっと婚約したままなんだし、侯爵家が私を利用しようとするなら私も利用し返すだけよ」
グレンが呆然としていると、プリシラはレイフを置いて猛然と来た道を戻り始めた。孤児院でも感じたが、令嬢とは思えないほどのスピードだ。
しばらくまた呆然としていたが我に返ると、レイフもまだその場で口に手を当てて固まっていた。
「レイフ。悪い、遅くなった」
「あ、あぁ」
「彼女は?」
なんとなく、見ていたことを告げられず今来たばかりと装って声をかけてしまった。
「先に戻ったよ」
「レイフ、顔が赤いが今日はそんなに暑かったか?」
「ちょっと暑いかもしれない。君のおばあ様のところに戻ろう」
なぜ、あの険悪な会話の後でレイフはこれほど顔を赤らめているのだろう。
無言で二人で歩きながら、あれはプリシラではないということだろうかとグレンの頭の中では疑問がぐるぐる回っていた。
しかし、レイフはグレンに対してその日に秘密を告げることはなかった。
『あーあ、聞かれてるじゃない』
その声だけは誰にも届いていなかった。