ポエジーとは何か
私は以前、ポエム先生に詩について習っていた。
詩とは何か? について、ポエム先生はこう仰った。
『詩とはポエジー発生装置のことである』
ハァ? と私は思った。顔では感心したように笑いながら。
そのポエジーって何よ? 説明できるもんなら今すぐわかりやすく説明してみなさいよ。
難しげなこと言って得意になって、これだから老人嫌い。あぁ、早くマンガの続きが読みたいな。
そんなことを思った。
ポエム先生、あの時はごめんなさいm(_ _)m
ポエジー。日本語にするなら『詩情』である。
しかし私はこれらは別のものだと思っている。
『詩情』というと、いかにも日本語らしく、ベタベタした、うっとりするような、風の流れにも物語を感じるような、花が咲いて鳥が鳴いて月に涙するような、なんだかそんな風流な印象がある。
『ポエジー』はカタカナということもあって、もっと合理主義的な、学術的な、理詰めな感じもする、私高尚なことについて考えてるんだぞ的な、なんというか言葉で説明できるようなもののような気がする。でもそんなものなら私は嫌いである。
うん。
結局ポエジーって何よ!?
ポエム先生は「なんかそんなようなもの」とか「電話ボックスの中の電話帳も、意味と音を切り離せば詩になるのだ」とか、わけのわからないことばかり言っていたので、自分で考えてみた。
私は確かに近代詩でも現代詩でも、好きな詩を読む時には何かぽわぽわ〜んとしたものを感じる。
活字がまるでページから離れて、自由に浮遊するみたいな、そんな感覚になることがある。
つまり、これがポエジーなのだな!?
でもそれは詩を読んでいる時に限らない。小説を読んでいる時でも、あるいは景色を眺めている時でも、自分の人生を俯瞰した時なんかにも、似たようなものを感じることがある。
ああ。結局、そういうなんだかぽわぽわ〜んとした感覚を発生させる、言葉による装置のようなものが、詩なのだな?
それはどういう時に感じるものなのか、考えてみた。
たとえば冷蔵庫にプリンが入っている。楽しみにしてた。よし、食べよう。今、食べたい!
冷蔵庫を開けてみたら、誰かに食べられてしまったようで、そこになかった。
この時、ぽわぽわ〜んとした感覚が一瞬、産まれるのである。
その後すぐに怒りとか悲しみに変わるだろうけど、一瞬だけ、確かに人はぽわぽわ〜んとするのである。
これが『ポエジー』なのだ!
今、ここにないものを、あるものとして思う時、その感覚は産まれるのである。
それはどうやったら産まれるか?
今、ここにないものを、どうしたら読者にあるもののように思わせることが出来るか?
ここにひとつの方法がある。
まったく関係がないように見えるもの同士を、合体させるのである。
すると不思議な、冷蔵庫から消えたプリンを見たような感覚を産むことが出来る。
試しに遊んでみよう↓
あの月を越えて、私は歩く
宇宙の風に背を押され、朝をめざす
コンピューターの中に、愛がある
母から遠く離れて、迷子が家に帰る
冷蔵庫の中に、お父さんがいた
私のプリンは、どこにあるのだろうか
なんだか意味ありげな、ポエジー発生装置が出来ただろうか? ちなみに意味はさっぱりわからない。
特に現代詩においては、ポエジーはこんなような言葉遊びのようなものによって発生を狙うものだ。実際には言葉遊びではないようだが、難しいことはわからない。
近代詩の場合は『詩情』のほうに近いような気がする。まぁ、色々あるので一概には言えない。
恋の詩ももちろんいい。
生活の中で感じたことをダイレクトな言葉で詩形式にするのもいいと思う。
でも、それらに少なくとも私はポエジーは感じない。
言葉が日常的な意味の鎖に縛られていて、不自由な窮屈さを感じてしまう。
たまには、ここにないものを、あるもののように思わせる遊びをしてみてはどうだろうか?
ちなみにそれは『嘘を書く』とか『作り話を作る』というのとは違う。
あくまでも言葉を意味から切り離し、自由にさせてあげることで、言葉が空に飛んで行き、それを見送ることでポエジーが産まれるのだ。
まぁ、結局何が言いたいかというと、
ポエジー発生装置、あなたも作ってみませんか?