まだ早いと言われた少年の話
「おい、なにボーっとしてんだよ。早く行くぞ」
声を掛けられ、少年は目を開いた。うららかな日差しが降り注ぎ、草原の草花がさやさやと風に揺れる。あくびをしながら小さく伸びをして、少年は振り返った。そこには「さっさとしろ」と言いたげな顔の、四人の仲間の姿がある。
「南の町で護衛を募集中だとさ。早くしないと埋まっちまうぞ」
了解、と答え、少年はのんびりと歩き出す。急ぐ素振りのない少年に、仲間たちは呆れたように肩をすくめた。
遥か古の時代、光射さぬ地の底から魔物の群れが現れ、突如として人々を襲い始めたという。魔物は情もなく、理性もなく、死と破壊をまき散らすのみであったという。人類には魔物どもに抗する術なく、世は嘆きに満ち、山河は赤く染まったという。もはや人の運命は滅びより他に無しと、人々が天を仰いだ時、神は地上に一条の救いの光を与えたという。光は一人の少年に宿り、人にただひとたびの奇跡を許したという。奇跡を宿した少年は勇者と呼ばれ、四人の仲間と共に魔物の湧き出ずる『奈落』を目指し、魔物の王を討ち果たすべく旅をしたのだという。
これは、望まぬ力を身に宿した少年の、運命と選択の物語だ。
「急げ! 追いつかれるぞ!」
最後尾を走る戦士が追い立てるように叫ぶ。後方には百を超える魔物の群れが、勇者の命を奪うべく迫っている。『奈落』への途上、『霧氷の樹海』と呼ばれる深い森を、少年たちは息を切らせて駆けていた。
少年が奇跡を身に宿したことは人々のみならず魔物にも伝わり、唯一魔物の王を討つ力を持った少年は世に存在するあらゆる魔物から命を狙われるようになった。襲撃は昼夜を問わず、さらに魔物は周囲の無関係な人々を巻き込むことを躊躇わない。少年たちは他人に被害が及ぶことを怖れ、人里を避けて『奈落』を目指す。少年が生きて魔物の王の前に辿り着けば人間の勝ち。その前に少年を殺せば魔物の勝ち。人類の存亡を賭けた鬼事が、始まった。
走る少年たちの前に、切り立った崖が姿を現す。まるで巨人が剣で切り裂いたような、人がひとり通るのがやっと、というほどの幅の道が正面に伸びていた。僧侶と魔法使いは言葉もないほどに息を乱し、半ばもつれさせながら懸命に足を動かしてる。先頭を走っていた老師が速度を落とし、最後尾の戦士に並んだ。
「ここはワシが食い止める。先に行け」
戦士の前を走っていた少年が驚きに目を見開き、振り返った。
「そんな!? だったらみんなで戦いましょう!」
老師は厳しい表情で首を横に振る。
「お主が死ねば人類は滅ぶ。万が一にもお主を危険に晒すわけにはいかん」
そして老師はひょうひょうとした笑顔を浮かべて言った。
「お主の出番はまだ早い。今は力を溜めておけ。こういうものは年長者優先じゃ。おいしいところはこの老人に譲ってもらうぞ」
崖のふもとで老師は足を止め、少年たちに背を向ける。「すまん」と戦士は呟き、足を止めて振り返ろうとした少年を道の奥へと追い立てる。
「老師――!!」
少年の悲痛な叫びが老師の背を打つ。迫る魔物たちを眺めながら、老師は優しい笑みを浮かべた。
「……世界など救わんでいい。お主は、生きろよ」
老師は少年の武術の師であり、早くに両親を亡くした少年にとっては親代わりのような存在だった。厳しく、優しく、老師は少年を育て、少年が冒険者として生きる基礎を築いた。少年が冒険者になってからも老師はしばしば冒険を手伝い、そして奇跡の力を得て以降は、常に傍らにいて少年を支え続けた。「ワシに任せておけ。必ずお前を守ってやる」と老師は言い、言葉のとおりに少年を守った。彼が自らの言葉を裏切ることは決してなかった。その命の終わりまで、ずっと。
道を塞ぐ老師を魔物たちが半円に囲む。正面にいた、群れを統率していると思しき魔物の将が無表情に声を上げる。
「とっとと片付けるぞ。メインディッシュはコイツじゃない。オードブルに時間をかけるな」
老師はほっほっと楽しげに笑う。
「言うてくれる。確かにワシはメインディッシュではないが――」
そして身を低く構え、老師は眼光鋭く魔物の将をにらみ据えた。
「せいぜい油断せぬことじゃ。このオードブルは、少々苦いぞ」
魔物の将が右手を挙げる。その手が振り下ろされると同時に、周囲を囲む魔物たちが一斉に老師に襲い掛かった。
無数の魔物の骸を踏みしめ、老師は羅刹の如き表情で魔物の将を威迫している。その右手は魔物の将の槍を掴んで固く握られていた。槍は老師の左胸を貫き、その背から穂先を覗かせている。死してなお老師は槍を離さない。少年を害する者は決して許さぬと、そう言うように。槍を引き抜くことを諦め、魔物の将は理解できぬと眉をひそめてつぶやいた。
「それだけの力を持ちながら、なぜ他者のために命を捨てる? 下らぬことだ」
半分以下に減った配下を見渡し、魔物の将は感情の無い声で言った。
「戻って戦力を補充した後に勇者を追う。急げよ」
『霧氷の樹海』を越えた少年たちは、『奈落』を目指しさらに歩みを進める。やがて彼らは『鬼哭山』と呼ばれる険しい山に足を踏み入れた。死霊の嘆きがこだまする妖の領域で魔物の襲撃を受けた少年は魔法使いと共に山肌を滑落し、戦士・僧侶と分断される。小さな横穴に身を潜める二人に、魔物たちが迫っていた。
がさがさと草を揺らす音が聞こえる。鼓動さえ厭わしく思うほどに身体を静止させて、魔法使いは外の様子に聞き耳を立てていた。音は確実にこの横穴に近付いている。この狭い横穴に潜んでいるところを見つかれば、満足に戦うこともできまい。ならばここを出て魔物を迎え撃つことにしか活路はない。
「ここを出よう。戦うしか道はない」
少年の言葉を、魔法使いは首肯する。その手の杖をそっと握り直して。
「ええ、でも……」
そう言うと、魔法使いは素早く杖を振り、呪文を唱えた。少年を柔らかい光が包み、その足から徐々に身体が鋼鉄へと変化していく。
「な、何を!?」
少年が思わず声を上げる。魔法使いは残念でした、とでも言いたげな表情を浮かべた。
「ここを出るのは私だけ。あなたはここで大人しくしていなさい」
「そんな! ひとりじゃ――」
のどまでが鋼鉄と化し、少年の言葉が途切れる。魔法使いは悪戯っぽく微笑んだ。
「あなたの出番はまだ早い。今は力を溜めておきなさい。今度の主役は私なの」
悲痛な表情のまま鉄の像となった少年の頬に手を当て、魔法使いは小さく呟く。
「本当はね、世界なんてどうでもいい。あなたが生きていてくれたら、それで」
そっと唇を寄せ、そして魔法使いは横穴を飛び出した。
魔法使いは没落した元貴族の令嬢であり、家を再興するための手段として魔法を学び、冒険者となった。手っ取り早く大金を得て貴族に返り咲くのだと言いながら、横暴な豪商の横面を引っぱたいて報酬をもらい損ね、阿呆な貴族の子弟を蹴り上げて仕事がフイになるなどしょっちゅうで、一向に金が貯まる様子はなかった。結局彼女の受ける依頼は貧しい者、虐げられる者、弱い者からのほとんど金にならないものばかりで、そして彼女はそういった依頼を達成するたびに誇らしく笑っていた。だから彼女は、少年が奇跡を身に宿したときに「私があなたを守ってあげる」と胸を張り、言葉のとおりに少年を守った。彼女が自らの言葉を裏切ることは決してなかった。その命の終わりまで、ずっと。
山肌を背にして、動かぬ身体を杖で支え、魔法使いは肩で息をしていた。彼女の周囲には炭化し、あるいは石化し、あるいは氷の彫像となって砕けた魔物の骸が散乱している。しかし魔物はなお十重二十重に魔法使いを囲んでいた。絶望的な戦力差の中、魔法使いの双眸は敵を焼き尽くさんと強い輝きを放っていた。
「理解できんな」
指揮を執る魔物の将が不快そうに声を上げた。魔法使いは将に顔を向ける。魔物の将は眉を寄せて魔法使いをにらんだ。
「前の老人もそうだ。それほどの力を持ちながら、なぜ他人のために命を捨てる? 勇者など見捨てて逃げればよかろう。我らが世界を支配しても、一人で生きられるほどの力をお前は持っているだろう?」
「独りで生き延びることに、何の意味があるの?」
どこか憐れみを宿した瞳で魔法使いは魔物の将を見据えた。魔物の将にわずかな苛立ちの色が浮かぶ。
「彼のいない世界に興味はないわ。彼の生きる世界を守れるのなら、この命などいくらでも差し出してあげる。私は、私の生は、今日、この日のためにあったのよ」
魔法使いの顔がにやりと笑みを形作る。その身体が仄かな蒼い光を帯び始めた。魔物の将の顔色が変わり、振り返って魔物たちに慌てて命を下した。
「いかん! すぐに離れろ!!」
「無駄なおしゃべりは致命傷よ。後悔の暇もなく、この場で朽ち果てよ!」
魔法使いを中心として蒼く冷たい光が爆発し、周囲にいる魔物を、木々を、全てを薙ぎ払っていく。光が晴れたとき、その場に残っていたのは魔法使いと、全身に裂傷を負い左腕を吹き飛ばされた魔物の将だけだった。
「このようなことをしても、所詮は気休めに過ぎんぞ! 勇者は必ずこの手で殺す! 必ずな!」
将の身体を燐光が包み、その姿が掻き消える。魔法使いは満足そうに目を閉じた。
戦士たちが合流したとき、魔法使いは一人、杖を支えに佇んでいた。目は閉じられ、口はわずかな笑みを浮かべている。僧侶が地面に膝をつき、両手で顔を覆った。
「……すまん」
戦士は呟き、頭を下げる。自身の細胞のひとかけらまでも魔力に変えた魔法使いは、戦士の言葉を合図に、白い塵となって崩れた。塵は山を渡る風に吹き散らされて跡形もなく消え去る。魔法使いのローブがパサリと音を立てて地面に落ちた。
魔法使いの背後の山肌が揺らめき、覆い隠されていた横穴が姿を現す。そこから這い出してきた少年は、地面に残された魔法使いのローブを見て、理解したようだった。少年は息を飲み、目を見開き、言葉にならぬ叫びを上げた。死霊の嘆きがこだまするという山々に、少年の声だけが、響き渡る。
『鬼哭山』を越え、少年たちはいよいよ『奈落』の間近に迫る。しかし彼らの前には『奈落』へと続く最大の難所が横たわっていた。『腐竜河』と呼ばれるその広大な河には、不死の魔物を統べる腐竜が棲み、渡る者をことごとく呑み込むという。打ち棄てられた小舟を補修し、対岸さえ霞む大河に少年たちは意を決して漕ぎだした。
小舟が木の葉のように揺れる。戦士と少年は必死に舟を漕ぎ、僧侶は祈りを捧げていた。僧侶の祈りは輝く盾となって魔物の攻撃から舟と少年たちを守っている。空中からは矢が降り注ぎ、水中では怪魚の牙が船底を狙っていた。腐竜の支配下にある河の流れは澱み、黒くねばつく水は思うような前進を許してはくれない。奥歯を噛んで疲労を押し殺し、戦士と少年はひたすらオールを動かしていた。
「攻撃を緩めるな! 魔法の守りは永遠ではない! 必ず力尽きる時は来るのだ!」
竜にまたがり、隻腕となった魔物の将が配下に檄を飛ばす。水中から魔魚が舟に体当たりをくらわせた。光の盾は攻撃を防ぎ、防ぎきれぬ衝撃が船体を突き上げる。空を旋回していた竜が一斉に舟に向けて炎の吐息を放った。防ぐ盾の輝きが揺らぎ、僧侶の額にじっとりと汗が滲む。
やがて少年たちの舟は河の半ばまで到達する。対岸の様子がはっきりと見えた。そこには無数の魔物が手ぐすねを引いて少年たちを待ち構えている。少年が後ろを振り返ると、そちらの岸にもいつの間にか魔物たちが蠢いていた。少年たちは進路も退路もふさがれたのだ。それは魔物たちの、ここで何としても勇者を仕留めるという意思の表れだろう。
魔物の将がにやりと笑い、右手を振り上げて合図を送った。川面が大きく盛り上がり、主がその姿を現す。
――腐竜。
腐りながら再生し続ける竜鱗を持つ不死の竜が、少年たちを遥か高みから睥睨していた。
「進むことも逃げ戻ることももはや叶わぬ! 腐竜の糧となるか、水底に沈み藻屑となるか、好きなほうを選ぶがいい!」
魔物の将が勝ち誇ったような声を上げる。少年は口を横に引き結び、覚悟を決めたように剣の柄に手を掛けた。しかし――
「待って。あなたの出番はまだ早い。今は力を溜めておいて」
僧侶は少年の手に自らの手を重ね、その動きを制した。少年はたまりかねたように叫ぶ。
「この期に及んで、まだ――」
僧侶は戦士に目配せし、戦士はうなずく。戦士は素早く少年の手を掴むと、その身体を強く引き寄せた。僧侶の口早の祈りは少年たちを包み、次の瞬間、その姿はかすかな影を残して消え去った。
「世界を、救いなさい。他の誰でもない、あなた自身のために。あなたが生きる世界のために」
対岸の向こうに目を遣り、僧侶は慈母の如く微笑んだ。
僧侶は強い奇跡の力を身に宿しながら教会を離れ、冒険者となった変わった女だった。酒を飲み肉を喰らいギャンブルに溺れる、彼女はいわゆる破戒僧であったが、神が彼女から奇跡の力を奪うことはなかった。酒瓶を片手にろれつの回らない口調で「まあ、奇跡が使えるんなら、私はまだギリギリ僧侶よ」と笑う彼女は、しかし常にその眼差しを弱い者、理不尽にあえぐ者、不条理に立ち尽くす者に向け、時に本人たちにさえ気付かせぬように救いの手を差し伸べた。だから彼女は少年が奇跡を身に宿したとき、その豊かな胸に少年を掻き抱き、「おねーさんを頼りなさい。必ずあなたを守ってあげるから」と約束し、言葉のとおりに少年を守った。彼女が自らの言葉を裏切ることは決してなかった。その命の終わりまで、ずっと。
魔物の将が慌てたように叫ぶ。
「勇者をどこへやった!?」
「対岸の向こう、あなたが配した魔物たちの背後よ」
対岸の向こうでは魔物たちが混乱を来たしている様子が見えた。魔物の将は竜の首を対岸へと向け、声を張り上げる。
「勇者を追え! 必ずその首級を上げよ!」
「させるわけないでしょう? 愚か者」
ぞわり、と背筋も凍る冷たい風が川面を渡る。気が付けばいつの間にか、腐竜河は固く凍り付いていた。動きを封じられた腐竜が耳障りな咆哮を上げる。
「私たちを罠に掛けたつもりなら大間違い。お前たちは私におびき出されたのよ。ここで全滅してもらうために」
全てを凍らせる風は対岸にまで到達し、次々に魔物たちを氷の彫像に変えていく。のみならず、風は大気を凍えさせ、空の支配者たる竜たちをも氷の棺に閉じ込めていった。凍った竜たちが次々に落下し、その身を砕かれて四散する。そして、全てを凍らせる風は、僧侶の身体をさえ蝕んでいた。足元から徐々に凍り付きながら、僧侶は魔物の将を見上げる。その顔には苦しみも恐怖もなく、ただ穏やかな微笑みがあった。
「なぜだ! これほどまでの力を持ちながら、なぜお前たちは他人のために命を捨てる!? 使命か、義務か!? 世界を救ったところで、自分自身が死ねば無意味ではないか!」
恐怖に引きつった顔で魔物の将が叫んだ。騎乗している竜にまで凍える風が届き、足を凍らせた竜はバランスを失う。半ば恐慌を来たし、魔物の将は淡い光を残して姿を消した。その直後、竜は完全に凍り付き、川面に落ちて砕けた。
「使命も、義務も、くだらない」
完全に氷の彫像となった腐竜が、バキバキと音を立てて砕け、崩れていく。凍り付いた川面に亀裂が走り、氷塊となって、魔物たちを飲み込んで沈んでいく。
「主よ。私のような者に奇跡の力を賜り、感謝いたします。そして私の最期の奇跡が、あなたのためでも、世界のためでもなく、ただ一人のためであることをお許しください」
僧侶は空を見上げ、わずかに目を細めた。
「あの子が大切。私たちにあるのは、それだけよ」
その言葉を最後に、僧侶の身体は完全に氷に閉ざされた。川面に広がる亀裂は僧侶の乗る小舟にまで到達し、彼女は暗く澱んだ河の水底に沈んだ。
『腐竜河』を渡り、少年たちはついに『奈落』の底、魔物の出づる根源である『万魔殿』に到達する。戦士は未だ少年に戦いを許さず、少年は戦士の背に護られて邪悪の宮殿を駆けた。魔物の牙を、爪を、炎を毒を、すべてその身に受けながら、戦士はボロボロに刃こぼれした大剣で血路を開く。もうこれ以上耐えられぬと、少年は泣きながら戦士に言った。
「どうして戦わせてくれない! みんなを犠牲にして、あんたを見殺しにしてまで、どうして!?」
「世界を救うためだ」
戦士は振り返ることもなく、短くそう答えた。曲がり角で待ち伏せていた魔物の首をすれ違いざまに刎ね飛ばし、戦士はひたすらに前に進んだ。
「お前の出番はまだ早い。今は力を溜めておけ。焦ればすべてが無駄になるぞ」
戦士のその言葉に、少年はうつむいて唇を噛んだ。
戦士は少年が冒険者となったとき、最初に少年に声を掛けた男だった。すでに冒険者としてある程度の経験を積んでいた戦士は、少年に冒険者としての振る舞いを一から教えた。少年も戦士を兄のように慕い、やがて二人は互いにその背を預ける存在となった。だから彼は少年が奇跡を身に宿したとき、少年の髪をくしゃくしゃに撫で、「心配するな。俺が必ずお前を守ってやる」と約束し、言葉のとおりに少年を守った。彼が自らの言葉を裏切ることは決してなかった。その命の終わりまで、ずっと。
『万魔殿』の指令室で、魔物の将は机を激しく叩いて怒りを示した。勇者の侵入を許し、防衛線も次々と突破されている。『腐竜河』で戦力を大きく失ったとはいえ、たった二人、いや、実質一人の人間に、魔物の軍勢の最精鋭が為す術もなく切り崩されている。
「勇者の仲間はどいつもこいつも化け物か! なぜ止まらぬ! なぜ諦めぬ! 奴らのあの強さはいったいどこから来るというのだ!!」
新たな伝令が慌ただしく指令室に飛び込み、勇者に内郭への侵入を許したことを告げる。魔物の将は強い苛立ちを吠え、槍を手に指令室を飛び出した。もはや玉座の間は勇者の目前。自らの身を以て勇者を阻止する以外に、魔物の将に手段は残されていなかった。
数多の魔物を斬り伏せ、自らも無数の傷を負いながら、少年の盾となって戦士は『万魔殿』の回廊を走る。やがて彼らの目の前に玉座の間へと続く長い廊下が姿を現した。そこには配下の魔物を従えた隻腕の魔物の将が槍を手に待ち構えている。戦士は足を止め、少年に耳打ちした。
「俺が道を開く。お前は一気に駆け抜けろ」
少年の瞳が苦しみに揺れる。戦士はポンと肩を叩き、少年に笑いかけた。
「あの扉の向こうがお前の舞台だ。世界を、救ってこい!」
歯を食いしばって少年がうなずく。その両目から涙がこぼれた。魔物たちが咆哮を上げ、少年たちに迫る。にやりと不敵な笑みを浮かべ、颶風を纏って戦士は魔物の群れに切り込んだ。
ヒューヒューと笛のような音を立てて、戦士が息をしている。周囲には首を飛ばされ、あるいは身体を両断された魔物の骸が積み上がり、回廊を赤黒く染め上げている。
「……私は、お前が怖ろしい」
魔物の将は戦士の正面に立ち、槍の穂先を下に向けてそう声を掛けた。戦士は玉座の間に続く扉のあった場所に立ち、もはや見えているかもわからぬ目で魔物たちをにらんでいる。戦士は宣言の通りに道を開き、扉を打ち壊して少年を送り出した後、魔物たちが少年を追わぬよう自らを壁として道を塞いでいた。右腕は喰いちぎられてだらりと下がり、もはや身体を支える力を失った足を敵から奪った長剣で貫いて地面に縫い留め、辛うじて立っている。左手に握られた大剣はその半ばから折れていた。それでも戦士は魔物が大剣の届く距離に侵入した瞬間にその命を刈り取るのだ。
「お前は、お前たちは、なぜ戦う? 自らの命を顧みず、どうして他者のために戦える? 使命のためか? 世界を救うことが、それほどまでに重要なのか?」
戦士がわずかに口の端を上げる。ほとんど言葉にならぬ声で戦士は答えた。
「……世界…なんざ……どう…でも……い…い……」
魔物の将は驚きに目を見開いた。戦士はうわごとのようにつぶやく。
「……お前の…生き…る……未来…を……」
終わりを待たず、言葉はか細く途切れる。回廊に響いていたヒューヒューという音が、消えた。「……そうか」と魔物の将は納得したような表情を浮かべる。
「お前たちは、望みを果たしたのだな」
戦士はなお横たわることを拒み、剣を握り締めていた。魔物の将は槍を手放し、姿勢を正して、戦士に敬礼した。
「偉大なる勇者たちに、最大の敬意を」
配下の魔物たちもまた、将に倣い敬礼する。戦いが終わり、神聖な沈黙が回廊を満たした。
頬の涙の跡を手の甲で拭い、振り返ることなく、少年は歩みを進める。広く何もないその場所に少年の靴音が反響している。やがて少年の目に、豪奢な玉座に座り、つまらなさそうに頬杖を突いた黒衣の老人が映った。ミイラのようにやせ、シワだらけの顔には眼球の代わりに深い虚無がふたつ浮かんでいる。
「ここまでたどり着いたか。憐れな神の下僕よ」
老人は少年に何の価値も見出しておらぬというようにそうつぶやいた。少年が老人を正面に見据え、足を止める。少年の目は怖れも、怒りも、何も宿してはいない。
「だが、無意味なのだ。お前に私を滅ぼすことはできぬ。誰にも私を滅ぼすことはできぬ」」
少年は呼吸を整える。体内を巡る力が徐々に熱を帯びていく。
「なぜなら私は『死』の理、『死』そのものだからだ。『死』を殺すことは誰にもできぬ。たとえ神であろうとも」
少年は半身に構え、右腕を引いた。全ての力が拳に集まり、輝きを放ち始める。
「理とは創世によって形作られる世界の根幹。理の内側に生まれたお前に理を変えることはできぬ。すべて無意味、すべて無駄なのだ、お前の旅のすべてが。数多の犠牲の上に我が前に立ち、何もできずに死んでゆけ」
老人が人差し指を少年に向ける。その指先から禍々しい闇の波動が放たれると同時に、少年は己の想いの全てを込め、老人に向かって鋭く右の拳を突き出した。
「こ、これは――!」
老人の声に初めて動揺が混じる。少年の拳から真白き光が溢れ、玉座の間を染め上げていく。
「ば、ばかな! 理が、世界の根幹が、崩れていく――!!」
老人の放った闇の波動を飲み込み、玉座を、老人を飲み込み、白はどこまでも広がっていく。
――天地開闢拳。
悲しみに耐え、悔しさに歯を食いしばり、ひたすらに力を溜め続けた少年は、神の与えた奇跡をも越え、新たな創世を為し得るほどの膨大なエネルギーを得ていたのだ。
「そんなばかな話が――!!!」
老人の最期の絶叫が光にかき消される。『万魔殿』を、『腐竜河』を、『鬼哭山』を『霧氷の樹海』を、世界を、光は包み、塗りつぶしていった。
気が付いたとき、少年は何もない場所に一人、佇んでいた。見渡す限り真白く平坦な空間が広がっている。そして少年の前には、どこかで見たことのあるような、まったく見覚えのないような、奇妙な印象の『何か』がいた。
「ここは『はじまり』。古き世と新しき世の狭間」
男であるようにも女であるようにも、あるいは人でない者が無理やりにしゃべっているようにも聞こえる声で、その『何か』はそう告げた。少年はどこかぼんやりと『何か』を見つめた。『何か』は淡々と話を続ける。
「古き理は滅び、世界は形を失って『なにものでもないもの』に戻った。汝は新たな理を与え、『なにものでもないもの』から新しき世を創ることができる。理を与えず、新しき世を創らぬこともできる。理を与えることをすなわち創世と呼び、理を与えぬことをすなわち終焉と呼ぶ」
「創世と、終焉……」
少年はポツリとそうつぶやき、言葉の意味を吟味するように目を閉じた。『何か』は意思なき言葉を無感情に紡ぐ。
「汝の望みに形を与えよ。いかなる望みも叶えられよう」
「僕の、望み……」
少年は目を開ける。その瞳には明確な意思と感情が宿っている。
「そんなの、決まってる」
『何か』が、かすかに笑った。
「おい、なにボーっとしてんだよ。早く行くぞ」
声を掛けられ、少年は目を開いた。うららかな日差しが降り注ぎ、草原の草花がさやさやと風に揺れる。あくびをしながら小さく伸びをして、少年は振り返った。そこには「さっさとしろ」と言いたげな顔の、四人の仲間の姿がある。
「南の町で護衛を募集中だとさ。早くしないと埋まっちまうぞ」
了解、と答え、少年はのんびりと歩き出す。急ぐ素振りのない少年に、仲間たちは呆れたように肩をすくめた。
少年が創世に望んだのは、少年が神に奇跡の力を授かる前の、仲間たちと共に過ごした日々の続きだった。古き世と違うのは、この世に魔物の王がいないということだけ。魔物は時に人を脅かすが、群れを成して人を滅ぼす勢いはない。人と人の間に争いは絶えず、悲しみも苦しみもそこら中に転がっている。理想郷には程遠い、不完全な世界。でもここには、彼らがいる。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」
魔法使いが柳眉を逆立て少年に怒鳴る。どうやらいよいよしびれを切らしたようだ。あらら、と僧侶が苦笑いを浮かべ、ほっほっと老師が楽しげに笑う。戦士は言わんこっちゃない、と非難めいた視線を少年に向けた。「マズいな」と独り言ちて、少年は仲間たちの許へと駆け出した。