第39話 大攻勢
そしてミシエルはすぐさま軍の編成にかかった。
厭戦派は勿論、討伐派の教会幹部さえもミシエルを危険視する者たちは一掃されて、主の起こされた奇跡を目の当たりにし、あるいは伝え聞いた民衆たちは熱狂し、今やミシエルが主の選ばれた指導者であることに異を唱える者は皆無であった。
彼女は教皇代理の地位に推され、それを受けた。
先の教皇は既に亡く、代理とはいうものの、実質上の教皇就任である。
投獄されていた崇拝者たちは解放され、ミシエルの側近に、あるいは教会の要職に就いた。
彼らの動きは速かった。
村々において、街々において魔族討伐のための兵員が募られ、希望に満ち満ちた、あるいは主の裁きを畏れた者たちが相次いで志願し、その数はついに100万を超す未曽有の大軍となった。
とりあえずはこれで良い。
後は補給線が確保でき次第、増員を図るとしよう。
側近と軍の首脳の判断にミシエルも頷き、ついに大軍は進発した
湖に近い当時の教会庁の街から平野を東に進んだ。
軍の中には馬に乗って華麗な鎧を着た教会直属の兵士はもちろん、徒歩の屈強な剣士、雄大な体格の女闘士、そして、せめて輜重隊にと志願してきた農民と女や子供までもいた。
確かに大軍ではあるが、見るからに寄せ集めである。
これらのヒト族が、いかにして魔族に抗しうるのか?
また、非常な大軍ゆえに、やはりその歩みは遅く、3日をかけても山脈の麓に達しない程であった。
このような有様であの壮大な障壁を越えることができるのか。
できたとしても、どれだけの数の落伍者が出ることか。
ましてや馬や馬車は山越えには挑み得ないではないか。
そのような疑念が多くの者の心に改めてわき上がったのは当然と言える。
しかし、それに対する答えはすぐに明らかになった。
4日目の朝、ミシエルは側近と各隊の指揮官たちを自らの天幕に召し、脚の速い馬を選び、2000程から成る全て騎馬の先遣隊を組織するように命じた。
指揮官たちは訝しんだ。
何故こんな場所で先遣が必要なのか。
未だ魔族の住む領域には遠く、偵察の必要な皆無ではないか。
しかしミシエルは彼らの心を読んだかのように言う。
「偵察や攪乱の為ではなく、軍全体の安全の為に必要なのです。とにかく急ぎ組織するように」
確信に満ちた言葉に指揮官たちはもはや何も反駁できず、隊の編成を急いだ。
隊が出発したのは僅か1時間の後であった。
驚いたことにミシエルは巧みに馬を操り、2000の熟練の騎馬兵の先頭に立って山脈の麓へと向かったという。
その間にも大軍はゆっくりと東へ向かう。
そして先遣隊が目的の場所へ達したのは正午少し前であった。
父祖たちが越えて来たという10000フィートの高さの尾根を仰ぎ見て、ミシエルに付き従う屈強の騎馬兵たちでさえも、皆の抱く疑念を思い、危惧を新たにした。
これは、どう考えても大軍の越え得ぬ障壁だ。
職業的な軍人である彼らがそのように感じたのは自然であった。
しかしミシエルはここで馬を降り、振り返って彼らに向かって言った。
「主の御力の前に可能ならざることはない。我らの進むべき路は開かれます」
そして携えた破邪の杖、ヨエル師、そしてホセア師から伝わる杖を高く掲げた。
すると、あろうことか晴天の空から雷が落ち、山脈を撃った。
それは先日のミシエルの処刑間際のものとは比べ物にならぬ巨大な雷であった。
稲光は辺りを満たし、衝撃は天地に轟いた。
雷は次から次に、これでもかとばかりに尾根を砕いた。
そしてまた、それに加えて大いなる地震が起こった。
最初に地の底から重い衝撃音が響き、すぐに激しい揺れが来た。
とても立ってはいられない揺れの激しさに騎兵たちは馬を降りて地に突っ伏し、次から次へと嶺を撃つ稲光の眩しさは閉じた瞼をも否応なしに透し、天地は崩壊するかと思われる程であった。
同時に、遥か後方数十マイルを進んでいた大軍も見た。
突然、地を打ち砕く天の怒りとも思える雷が前方に聳える山脈の尾根を撃つのを。
畏れをかきたてる閃光の柱が次から次にと際限なく突き立ち、壮大な障壁を打ち砕くのを。
大地の揺れは彼らの所へも届いた。
最初は辺りに轟く重苦しい地鳴りと空気の震えが、そしてすぐに足元を揺るがす大地の怒りが訪れた。
万民は知った。
ミシエル様の言われる通り、主はまさしく我らのふがいなさを怒っておられる。
軍馬はあまりの異変にいななき暴れ、男は畏れに慄き、女子供は恐怖に絶叫し、そして混乱が数十分も続く中、多くの者がそれでも地に足を踏ん張り、あるいは膝や手をつき、前方遥かに見た。
信じ難くも、彼らの第一の困難であった筈の尾根は崩れ去り、南北に連なる山脈は、そこにおいて轟音と共に真っ二つに割れたのだ。
いまだ主の雷撃が続き、目も眩む光の中、山は確かに大きく裂けた。
すぐに膨大な土煙が立ち上った。
おそらくは山が裂けた壁面から大量の土砂が崩落しているのであろう。
その土煙は火山の噴火の煙のように天に達し、晴天だった空を曇らせて太陽を覆い、辺りを暗くするほどであったという。
本隊の100万の軍勢が山脈の麓に達したのは翌日の午前であった。
彼らは更なる異変を危惧しながらも、ミシエルを信じ、主の怒りを恐れ、何とかここまでやって来たのだ。
すると信じられぬことに、そこには大軍が通ることの可能な路があった。
山脈が裂けた為に崩落した膨大な土砂を巨大な地割れが呑み込み、幅の広い、あちこちに高低は残しながらも全体としてはなだらかな路を形成していたのである。
更に驚いたことには、彼らを出迎えたミシエルを始めとする2000人の先遣隊には誰ひとりとして傷を負った者はいなかった。
あのような異変がまさに眼前で起きながら全くの無傷とは、これこそ主の御加護であろうか。
しかし、これも僅かな数の先遣隊だからこそであって、100万の大軍があの時ここにいたとしたら決して無事では済むまい。
ミシエル様はこれを予想して、選抜した騎馬隊を先行させられたのか。
我々がまだ遠くにいる内に山を崩してしまい、軍の被害を最小限に止めようとされたのか。
そして、驚愕する兵や民に向かってミシエルは高らかに言った。
「さあ、主の御力の顕現によって、我らの路は開かれました。ここを渡り、今こそ魔族の討伐に向かうのです」
しかし、それでもなお恐れる者も多かった。
遥かに見上げる切通のように聳えるあの壁面から、また崩落が起きはしまいか。
もしも先刻のような地震が再び襲い来たら、あるいはちょっとした余震でさえも崖崩れを起こすには充分ではないか。
そのようなことになれば、大量の土砂によってあっという間に生き埋めになってしまうではないか。
しかしミシエルは宣言した。
「主の意志に従って行う者に対しては、天も地も、ましてや魔族も決してその進みを妨げることはできない。それでもなお恐れ躊躇する者たちは、ここに残るがよい。その者たちにこそ主の裁きは下るでありましょう」
そして彼女は先頭に立って馬を歩ませ始めた。
大軍もそれに続いて、開けた新たな路をゆっくりと進み始めた
彼女の言葉は皆の心に残る逡巡を圧倒したのである。
恐れ躊躇する者にこそ主の裁きは下る。
ミシエル様の言われた通り、教会の長老たちに裁きは下った。そして今また、このような奇跡をまのあたりに見せられては、恐るべきその言葉を信じない訳にはいかない。
彼ら彼女らは恐るおそる、そして次第に勇躍して歩を速めるに至った。
ついに父祖の代からの憎むべき魔族を滅するための戦いに挑むのだ。
主は常に我らと共におわす!
聖女ミシエル様に率いられた我らに敵することのできる者などいない!
このようにしてヒト族の大攻勢は始まったのだ。
それは教会暦1547年、晩夏のことであった。