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記憶の眠る街  作者: 叶 響希
6/7

 時計の長針が文字盤の頂点と重なった。

 その瞬間、かすかな歯車の音と共に仕掛けが動き始める。周囲に映し出されたのは、淡い黄色と薄緑色のグラデーションだ。時計の文字盤を中心に据えた金色の塔が、光の渦の中を歩く人形を見下ろしている。


 人形が、入り口のない塔に辿り着いた。無機質な塔を呆然と見上げながら、人形はその周囲をぐるりと歩く。やがてその場に座り込んだ人形は、頭上から舞い降りる羽に手を伸ばした。

 鳥の姿はない。どこからともなく聞こえる音楽は、どこか懐かしいオルゴールの音色。

 塔がぼんやりとした光を放ち始める。それは次第に虹色に変化し、人形の上に降り注いだ。

 立ち上がった人形が、肩に掛けていた自動小銃を取り落とす。

 光に導かれるように、人形――彼は、歩き出した。光の塔へと。

 彼が金色の塔に触れた途端、塔は彼を招き入れるためにその形を変化させて道を開く。そこに広がるのは、無限の光景。


 彼の生まれ育った町であり、彼の愛した場所であり、彼がずっと取り戻したかったぬくもりだった。


 ――『帰還のとき』


 今見れば欠点もある。それでも今だからこそ、この作品が認められた理由もわかる気がした。

 俺はこの作品を生み出すために、ありったけの情熱と想いを込めた。自分のできる精一杯をぶつけた、そういう一途さがこの作品にはある。


「……いつか、みんながこうなるといいのにね。ねえ、マティアス?」

「そうだね」


 囁くような二人の声に、髪の毛一本分ばかり残っていた俺のためらいは完全に姿を消した。

「明日の昼までに、時計の修理は終わらせておいてやる」

「本当? 部品は見つかったの?」

「ああ、どうにかなりそうだ。楽しみに待ってな」

 マティアスが何かを言いたそうに口を開きかけたが、俺は唐突に煙草の銘柄を挙げることで遮った。もしも報酬を気にしているのなら煙草をひと箱くれないか、と。


 二人が帰った後、俺はもう一度だけかつての自分の傑作を眺めた。そして、ゆっくり撫でてやった。

 悪くない。たしかにこれは、俺にとっては一番の作品だ。

 職人としてのプライドと自信を最初に植え付けてくれた。俺の自己満足を十分に満たしてくれた。そしてなにより、未練の象徴だった。

 俺の未練が誰かの希望になるのなら――それがいい。

 それに、これを超えるものを生みだせなければ、到底、約束もかなえられないのだ。

「……だよな」

 そうして俺は、工具を手に取った。



 俺が本気で仕掛け時計の職人になりたいと言ったとき、母親はあらゆる手を使ってその考えを改めさせようとした。

 地下室に閉じ込められたこともある。食事をもらえなかったこともあるし、そうかと思えば好物ばかりを並べられ、何でも欲しいものを買ってやると機嫌を取られたこともある。

 俺は心の底からうんざりしていた。内側の世界では、与えられた仕事や役目を果たすことが最も重要なことであり、俺のようにそのレールから外れてしまった者への風当たりは極端に冷たい。俺の母親はこうした軍の徹底したコントロールの中で純粋培養され、遺伝子的に相性がよいとされた俺の父親と結婚し、二人の息子と一人の娘を産んだ――そういう人だった。


 俺には耐えられなかった。与えられる愛情ですら、それが役目であるからに過ぎない。俺をなにがなんでも更生させようとする母親の行動も、国立学校の教師としての立場やプライドを守るためのものだとしか、俺には思えなかった。


 今なら少しだけ――ほんの少しだけなら、わかる気がする。

 おふくろも必死だった。俺がそうだったように。


 本当に俺を持て余し、憎み、軽蔑するのなら、軍事施設へ強制的に送ることもできただろう。国民としての義務をなにより重んじる立場を優先するなら、軍を嫌って父親や兄の葬儀にすら出席しなかった俺を、身内の反乱分子として突き出すこともできたかもしれない。

 そうしなかったのが唯一の愛情だったのではないかと、今ならばそう思える。外の世界で出会った親方のげんこつやおかみさんの抱擁ほどわかりやすくはなかったが、俺が内側の世界から零れ落ちてしまうことを嘆き悲しんだのだ。それはおふくろ自身のためであったかもしれないが、たしかに俺のためでもあったと思う。


「俺がいつか、お前らの度肝を抜くような時計台を建ててやるよ」

 俺が仕掛け時計の職人になるためにいつか外の世界へ行くと話したとき、ほとんどの仲間が呆れるか冗談だと笑い飛ばした。奴らにとっては、いずれ従わなくてはならない世の中の決め事に少しだけ逆らってみるのが楽しいのであって、生き方を貫くものではなかったのだ。

「本気で言ってんのか?」

「やめておけよ、ディル。ただでさえ俺達、軍にも目をつけられてるんだぜ」

「ここらで限界さ。外の世界に追放されるのも、まっぴらだからよ」

 俺が傷ついたのは、仕掛け時計の魅力をわかってもらえなかったからじゃない。趣味趣向は別にしても、こいつらだけは俺と同じ気持ちだと信じていたからだ。


「お前らは軟弱者だ。俺は本気だからな。絶対、この世界を見返してやる。絶対だ!」

 意地になって叫んだ俺の周りには気まずい空気が流れ、仲間達は曖昧な言葉を残して去っていった。いつも溜まり場にしていた広場の片隅にすっかり取り残されて、俺は茜色の空を見上げるしかなかった。俺の言っていることはそんなに無茶なことだろうか、と自問しながら。


 離れた場所にいたルンだけが、そっと俺のほうへ寄ってきた。

「その目がディルのものになってよかったって、僕は思います」

「……なんで?」

「だってディルの夢は、きっとみんなを幸せにする。僕達が本当に憧れる世界を、人形や映像で実現させることができる。殺し合うことに未来はありません。僕達はもっと夢を抱くべきで、もっと夢の実現のために努力すべきなんだ」


 ルンの言うことは、ときどき教師みたいに堅苦しい。俺には、軍の最高幹部達が何を目指そうとしているのか理解できないし、誰のせいでこんなにも階層化された社会で生きなくちゃならないのかもわからなかった。知っているのは、その昔、どこかの馬鹿な国が使ってはならない兵器を使い、制裁と報復に巻き込まれた世界の果てが今だということくらいだ。


「僕らは本来あるべき姿に戻るべきなんです。たった百年前まではこの国が平和だったように。僕らはそこへ帰るべきなんだ。僕やディルみたいに現状に疑問を抱く人が大勢集まれば、きっと何かが変わる。僕は、そう信じたいんです」

「お前の言うことは俺には難しくてよくわからねえけど……でも、俺もこのままじゃ嫌だとは思うさ。俺みたいな馬鹿でも、何かやれるならやってみてえと思うし」

「ディルは馬鹿じゃありませんよ」

 にっこり笑って、ルンは俺を見上げる。

 ルンは痩せていて色白で、力比べなら俺のほうが絶対勝つ。それなのに俺は、ルンだけには勝てないんじゃないかと思う。


「なあルン、なんでお前は医者になりたいんだ?」

 足元の小石を蹴飛ばしながら、俺は前々から思っていたことを口にした。

「お前は頭もいいし、医者じゃなくなってなれる職業はある。科学者とか、教師とかさ。もちろん、お前が特権階級を蹴ってまで医者を目指すってのはすげえことだと思うけど……医者でなくちゃならない理由があるのか?」

「僕にそんなことを訊いてくれるの、ディルだけだな」

 さも特別なことのようにルンは言ったが、実際、そうなのだろう。俺もそうだった。誰も理由など訊ねてはくれないし、話しても理解しようとしない。多くの大人にとって、俺の夢は現実から逃れるための方便で、ルンの目指すものは理解の範疇外だった。


「僕は学校に上がるまで身体が弱くて、病気を治してくれる医師っていうのが魔法使いみたいにすごいものだと思っていたんです。だけど、そうじゃなかった。先生は僕の風邪や腹痛は治せても母さんの病気は治せませんでした」

 ルンの母親は、俺達が出会うより前に死んでいた。

「そればかりか、母さんが死んだときにこう言ったんです。最先端の医療措置を受けられただけ、幸せな女だと。たしかに……外の世界の人達に比べたら幸せかもしれない。でも、死んでしまったとき、母さんは人間の形なんてしていなかった。体中の悪い所は全部機械になって、まるで……機械の塊で。もし母さんに意識があったら、人として死にたいと願ったと思います」


 俺は後悔した。興味心くらいで、医者になりたい理由なんて訊くんじゃなかった。

「僕は人を愛せる医者になりたい。人として生死に向き合える医者になりたいんです」

 ルンはそう言って笑った。俺には笑えなかった。言葉にならない気持ちを込めて、石ころを思いきり遠くへ蹴飛ばした。

「俺がもしここに時計台を建てたら、見に来いよな」

「もちろん。ディルならきっと実現してくれるって、僕、楽しみにしてます」

「その頃にはお前、医者になってるだろ?」

「ええ、きっと」


 俺達は、何の力も持たないガキだった。ただ、自分達には特別な力があるのかもしれないと信じることしかできない、ガキだった。

 俺が決心を実行に移したのは、それから一ヶ月後の朝のことだ。


「じゃあな、ルン。俺……しばらく連絡はしないと思う。だから、いつかどこかで」

「外の世界のどこかで会えるといいですね」


 俺の言葉を引き継いで、ルンは手を振った。俺を見送ったのはルンだけだった。



 それ以来、ルンには会っていない。

 そのルンが、一年半も前に死んだという。

 俺は遺体を見たわけじゃない。だから、マティアスの言うように万が一でもルンが命拾いしている可能性を願わないはずもないが、そんな可能性にすっかり縋ってしまえるほど、おめでたい思考回路の持ち主でもない。

 だけど、そんなことは関係ないのだ。


「……見てろ、ルン。お前がどこで見ていたって、俺は約束を守るから」

 たとえそれが地上のどこかでも、地上よりもずっと高い場所からであったとしても。

 俺はきっと、お前との約束だけは果たしてみせるから。

 お前のことを忘れようとしていた薄情な俺を、どうか許してほしい。

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