5
部品がないと言ったのは嘘ではない。余ってはいない、という意味で。
俺に唯一あてがあるとしたら、それはリゼットがまだいるだろう、工場の中だ。
俺は迷っていた。俺が唯一所持している部品を、リゼットのために提供するかどうかを。俺にそこまでの勇気があるかどうかを、だ。昨日の夜からずっと自分の過去と未来とを秤にかけて、俺はどちらも選べずにいた。
雑多な路地の端を歩きながら、俺は煙草を切らしていることを恨めしく思った。癖とか習慣とかいうのは侮れないものらしく、どうにも満たされない気分になってしまう。
それがないからといって死ぬわけでもないくせに、失えば焦燥感にも似た感覚に襲われる。
もしかして――夢だの希望だの、そういう類のものもそうなのか。
この掃き溜めのような街で、何人がそんなものを腹の底に潜ませているだろう。ここではそんなものは、あんまりにも白々しくてまがい物めいている。
けれどもしかしたら、ここの住人は知っているだけなのかもしれない。そんな透明で綺麗で形のないものを掴むには、おのれの手はあまりにも汚れている、と。
俺は自分の手に目線を落とし、その後で苦笑した。
「……ガラでもねえ」
少し伸びた爪、皺が走るほど老けてはいないがガキの頃よりは艶を失った手の甲、昔より大きくなったけれど掴むものを失った手のひら。
両手をポケットに突っ込み、気分を変えようと大股で足を踏み出した、そのとき。
「あの、すみません」
俺の目の前に栗色の頭がひょいと現われ、行く手を遮られた。
「ええと……お腹、空いていませんか?」
「はあ?」
頭のおかしな奴だと思って露骨に眉根を寄せた俺は、次の瞬間には驚いてしまっていた。
昨日、ルンと間違えた男だった。昨日もそうだったが、長い外套で体のほとんどを覆ってしまっている。首から肩のほうに走る歪な傷痕を、今日の俺は見逃さなかった。
男は、なんのためらいもなく俺に笑いかける。
「リゼットがすっかりお世話になってしまっているようで」
「……あんた……もしかして、マティアス?」
「はい」
想像していたより――そう、優男だった。正直に言えば、貧弱そうで頼りがいがあるとも思えない。あのリゼットがどうしても離れたくないと思っている人物には思えなかった。
「ディルク・アルトナーさん、ですよね」
「さん、は余計だ。ついでにフルネームで呼ぶな」
不機嫌に言った俺に、マティアスは気を悪くしたふうもなく、わかりました、と頷く。
「じつは僕、食事がまだなんです。寝坊したらリゼットに置いてきぼりにされてしまって。一緒にどうですか? ご馳走しますから」
「頼まれた時計の修理だって終わってねえのに、そんなことしてもらう義理はねえよ」
「案外、常識人なんですね」
どういう意味だ。
俺が文句を言うより先に微笑んで、マティアスは先を歩き始める。従う義務などないはずなのに、少し迷った後、俺はついていくことにした。
じつは少し興味があったのだ。リゼットがあれほど慕うこの人物に。
俺達が立ち寄ったのは、軒下にテントを張って屋台を出しているという簡易な店だった。およそ衛生的でもなく切り盛りする婆さんの愛想も悪い店先で、俺達は豆スープと、硬いパンに野菜と肉片を挟んだものを注文した。
「あんた、リゼットの父親でもなけりゃ兄貴でもないんだろう?」
幸いなことに味はまともなスープを喉に流し込み、俺は目の前の優男に質問をぶつける。
「従兄でも叔父でもありませんね」
片手だけで器用にパンを口に運んでいたマティアスは、軽い調子で応じた。
「僕達の関係を説明するのは、少し難しいかもしれません。僕がリゼットと出会ったのは、ここよりもずっと治安が悪くて国境に近い町外れです。リゼットは銃殺された両親の側に呆然と立っている血まみれの四歳の子供で、僕はその頃、自分が何者であるかさえ見失っている有様でした。僕達が偶然出会って、目が合って、リゼットが泣き出して……あやしている僕がいて、僕は目の前の子供を助けようと決めると同時に、生きる気力を取り戻したわけです。お互いが命の恩人で、ある意味似たもの同士でもあるのでしょうか」
それはまるで、物語を話すような語り口だ。
リゼットはたしか、マティアスは爆風ですべてを失ったと言っていた。首筋の怪我の痕から察するに、命拾いした場所は軍の医療施設ではなく、辺境の民間病院なのかもしれない。
「あんた、もとは軍人だったんだろう? 戦地から脱走したのか? それとも工作機関から?」
「さあ……どうでしょう。自分でもよく覚えていないのです」
やんわりと首をひねる仕草に明確な拒絶は感じられなかったが、俺には、言いたくないという意味に聞こえた。俺にもそれ以上詮索しようという気はない。
この世界には傷を持たずに生きている人間のほうが少ないのだ。自分の傷がいかに深いか見せびらかしたり、比較したりするものでもない。
マティアスは、俺が追求しないことに安心したようだ。
「ところで、時計は直るでしょうか?」
「修理ができないってわけじゃない。……部品があれば、だがな」
事実を答えながら、俺はちらりと目線を上げる。
「あの時計、もともとあんたの物なんだってな。リゼットが立体映像だけでもなんとかしろと言ってきた。ママだから、てな」
これについても、話す気がなさそうなら諦めるつもりだった。だが、マティアスは俺の言葉を受け止めるように頷いてから、静かに微笑んだ。少しだけ、哀しみの灯った瞳で。
「妖精です」
「なに?」
「映し出される映像の中に、大人の女性のような妖精が登場するのです。リゼットは自分の両親のことを覚えていません。小さなあの子に母親をねだられたとき……僕には他に慰める方法がわからなくて」
俺は、小生意気なリゼットの顔を思い浮かべた。
マティアスの戻る場所になりたいと言うリゼットは、その一方でグラフィックの――偽物の映像に得られないぬくもりを求めている。その危うさが、俺には世界中で一番繊細でかけがえのないものに思えた。
どこまでも脆くて、そのぶん美しい何かだ。
こんなことを感じたのは、いつぶりのことだろう。
「リゼットは、よほどあんたのことが大切なんだろうな」
「僕がおじいちゃんになっても面倒を見るのだそうです。僕がリゼットを幼児ポルノにも軍にも売らなかったから、僕を老人収容施設には入れないのだとか」
声は優しいが、笑ってはいない。その理由に、俺は思い当たった。
「あんた……マティアス、気づいてるのか。リゼットがあんたのことをどう思っているか」
「僕だって人間だし、男です。恋の経験くらいありますよ」
ずっと以前のことですが、と。マティアスはわずかに目を細める。
「でも、僕のほうがうんと年上なんです。先に老いるのは当然でしょう? きっと死ぬのも」
決して揺るがない事実を口にするように、ことさらゆっくりとマティアスは言う。昨日今日二人に出会ったばかりの俺は、何も言えずに黙るしかない。
「ええと……ディルクはもともとそういう職業の人ですか? 時計を修理するような?」
沈黙した俺に気を遣ったのか、マティアスが話題を切り替えた。
「ああ……仕掛け時計を作ってた」
「仕掛け時計。あれはいいです、夢があって。僕もリゼットも好きですよ。街角に時計台があるような場所では、必ず立ち止まって見上げます。あそこには、僕達が憧れる世界がある」
「――よせよ。やめてくれ」
恥ずかしいというより、俺の心を占めた大部分は苛立ちだ。
「どれだけきれいなものを作ったって、夢みたいなことを言ったって、偽物だ。現実は違う」
「でも、だからこそ焦がれるものですよね。だから惹きつけられてしまう。夢を切望することは……そうだ、仕掛け時計の存在そのものにも似ていますね」
芝居がかっているほど気障な台詞なのに、俺には笑い飛ばせなかった。――胸の奥が疼く。
「あんた……なんとなく似てるんだ。ガキの頃の親友に。そいつだけが俺の夢を笑わなかった」
「それが、探している人なんですね」
硬くてぱさついたパンを飲み込みながら、俺は曖昧に首を振る。
「死んだらしい。人伝に最近知った。探しても見つかるわけがない」
そうですか、と簡単に頷いたマティアスは、その後で驚くほど優しく微笑んだ。
「この世界には、大切な人やモノをなくした人が、多すぎます。でも僕は、その人が死んでしまったことを認めないままでいることが、現実逃避だとも思えません」
「なんの話だ?」
「真実は、ここにしかないということです」
マティアスは右手のスプーンを置き、その手で自分の胸を指した。
「僕はいろんな場所を旅して、夫や恋人や兄弟や友人を失った人を大勢見てきました。そういう人達の多くは、死んでしまった人からの言葉を待っている。こんなとき、あの人だったらなんて言ってくれるだろうか、と。でも、自分の求める言葉は自分の中にしかない。その人の存在を心の中から消してしまうか、それを決めるのも自分です」
まんまと図星のど真ん中を射抜かれた間抜けな俺は、少しだけ楽しそうな表情を浮かべた目の前の男を、恨めしい気分で睨んだ。
「それに、僕もリゼットも死んだことになっている人間です。死んだと思われている人がじつはどこかで生きているという幻想を抱くことは、必ずしも馬鹿げた話ではありませんよ」
「……あんた、いったい……」
どんな商売をしてりゃ、そんなに口がまわるんだ。そう思ったままに言うと、マティアスは初めて声を出して笑った。
「リゼットの言葉を借りると、憂いの伝道師だそうですよ、僕は」
「なんだそりゃ」
「語り部のようなものです。国中を旅して、各地で起こっていることや誰かの想いを話して回るというね。人々の記憶を少しずつ蓄えて、別の場所で誰かに分け与えるというか。僕はそうやって、この世界の痛みを少しでも和らげることができればいいと、そんなふうに思うのです。場所によっては重宝がられるようで、食べるには困りません」
「……わからねえよ、なんだってそんなことをするのか。この世界は、そんなことくらいじゃ変わりゃしねえ。あんたやリゼットが世界中を旅したとしても――」
俺が、どんなに立派な仕掛け時計を作ったとしても、だ。きっと変わらない。だから俺は、絶望して投げ出して、背を向けた。
「きっと、未練なのでしょう。平和への希望であって、幸福への未練なのかもしれませんね。僕が両手でつかみ損ねた未来へ、少しでも近づきたくて」
未練という言葉をこんなに素直に口にできる存在に、俺は羨望と嫉妬と尊敬を同時に抱かずにはいられない。――なぜなら。
マティアスの左手は、手首から先がなかった。それでも、辿り着くための未来はあるという。
「なあ、俺の仕掛け時計……見てってくれないか。俺が唯一側に置いている完成品なんだ」
目を細めるマティアスに、本当は似てはいないはずの親友の笑顔が重なった。
俺には、望んだ道を選べる幸運がある。
やはり奢ってもらう理由がないと、なけなしの小銭をテーブルに置いた俺は、世界の痛みを和らげるという馬鹿みたいに壮大な計画の意味を、ほんの少しだけ理解した。
それはたぶん、俺が故郷に仕掛け時計の塔を建てたいという気持ちに似ている。
きっと、この腐った世界に向けたささやかな祈りなのだ。